預言者は郷里に容れられず

ずいぶん前になんちゃら市民講座というようなところで話をしなくてはならないことがあった。私は私で自分の専門について話しの用意をしていた。私の専門というのはCGとかWebとかそんなやつだったのでそんな話をした。聞きに来たのは近所のおじいさんおばあさんばかりだった。

話し終えて、あるおじいさんが質問した。今お話しになったことは死んだ後にどう役にたつのですか、というような質問であったと思う。

それでまた私の番が回ってきて、その市民講座で何か話をしなくてはならなくなり、今度はおじいさんおばあさんが喜ぶような話を用意せねばなるまいな、と思っている。もともとそういう話が嫌いなわけではないが、専門とは何の関係もないし、人前で話したこともないから、適当に何か見繕って話そうとは思っているのだが、今思うにあのとき質問した人は近所のお寺から来た人であったかもしれない、あなたは何やら難しい、私たちには理解できない、偉そうな話をしているが、そんなものが私たちの人生にいったいどんな関係があるのか、何の意味があるのか、何の価値があるのか、死んだ後に何か役に立つのか、そういう批判めいたことを言いたかったのかもしれない。つまり、質問の形を取った私への抗議であったかもしれない、と思い始めた。

私の両親も祖父母も親戚もみな同じ種類の人間であった。私のやっていることは彼らにとってまったく無価値であった。私が出世して給料をもらうことには役立っているらしいが、彼らにとってはまったくどうでも良い、ある意味ばかげた遊びのようなものであった。

預言者は郷里に容れられずというが、まさに私は預言者のような心持ちでこれまで生きてきた。私ももう還暦で、いまさら自分の生き方を変えられないし変える必要もないと思っているのだけど、ますます私は世の中に対して仮面をかぶって生きて行かねばならないと思っている。ただ世の中には私を理解してくれる人はある一定数はいるはずだ。それらの人は世界中に散らばっていて直接会う機会はないけれども、本を書けば読んでもらえるかもしれない、死んだ後に私の本を読んで共感してもらえる人がいるかもしれないと思って私は本を書いているわけである。

「エウメネス」でカラノスというバラモン僧にそうした心境を語らせたこともある。

婆羅門教徒も、仏教徒も、ジャイナ教徒も、世俗の王に仕えることを拒む。しかし彼らもまた教団を作り、僧侶も寺を作り、富や名声を求め、結局は人間の社会を営む。人が集まるところ親があり子があり家がある。師があり弟子がある。因縁が複雑に絡まり合い、精神の自由を奪い、解脱を妨げる。それはワシにはもっとも耐えがたいものじゃ。

 たとえこの世に真理があったとしてもそれが沙門に受け入れられ、宗派に分かれる過程で、真理は人の世の道理によって遮られる。真理という本来純粋無垢なものが人の世に取り込まれた途端に、手垢が付き、ありふれた道具の一つに化してしまう。単なる日常の一部になってしまう。

人の世を離れずしてどうして真理の目が開かれよう。人の世のいさかいを離れ、ただ一人、精神の深奥へと向かわねば、悟りへ至ることはできまい。

 ワシは、これまでにワシと同じ結論に達して、誰にも知られず静かに死んでいった者たちがたくさんいるのであろうと思っている。また今も世界のどこかで、人の世を離れて、ワシと同じ考えに至った隠者がたくさん生きているのだろうと思う。彼らとつながれるのであれば、死ぬ前に会って話がしてみたい。ワシのような人間は世の中にちりぢりばらばらに散らばって生きている。ひとりひとりが天涯孤独であるが、しかし、その数は決して少なくないとワシには思える。彼らとつながりたい。それが、人の世に倦んだワシに残った、唯一の欲望、未練といってよいかもしれない。

 ワシが今日ここへ来たのは、王よ、あなたがワシを地の果ての友に会わせてやると言うたからじゃ。ただ己の師であるからとその教えに盲従したくない。ただ身近にいるというだけで友になりたくはない。ただ生まれた土地だからとそこに留まりたくはない。王よ、解ってもらえようか?

私の中に多分、世俗との関係性、社会への還元といったものを断ち切った先にこそ学問の価値がある、という考え方があるに違いない。そういう態度は話し方にも接し方にもすべてに現れているに違いない。高踏的というか超越的というかそういう学者バカみたいな鼻持ちならない人間なのだろうと思う。

ところで「吾輩は猫である」は猫が飼い主を観察してそれをそのまま写生文にして新聞に掲載した、という体裁でできている。写生とはおそらく正岡子規が流行らせた言葉で、世間では自然主義とか私小説と呼ばれていたと思う。そしてああいう小説がいきなり評判になるとは漱石も、彼の周りの人も、出版関係者もまったく予期していなかったに違いない。話の展開も場当たり的で、とってつけたようで、寝静まった夜中にいきなり泥棒が忍び込んでくるあたりなどは、たぶんどこかから取材した話なんだろうが、別段どうでも良いような、ページ数稼ぎだけの話にも見える。この「吾輩は猫である」というものがほとんど偶然の産物として出てきたせいで日本の小説というものは大きく変わってしまった。田山花袋の「蒲団」のような役割を果たしたと言える。

私は吉原あたりから大江戸線蔵前駅まで徒歩で通勤するなどというかなり無理矢理なことをやっているのだが、隅田川沿いに歩くと少し遠回りだがちょうど良い散歩になることに気付いた。川風は気持ち良いし、自転車や人混みにいらいらしなくて良いし、横断歩道で待たされたり排気ガスを吸わなくて良いだけでもずっとましだ。ところが吾妻橋の下をくぐるトンネルがなぜか朝6時から夜21時までしか開放されない。せめて朝5時に開けてはもらえぬものだろうか。朝6時に吾妻橋を通過したとしたら6時半くらいの電車にしか乗れない。まあそれでも十分と言えなくもないのだけど。

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