定家ジェネレータ

投稿者: | 2010年3月13日

五つの句のうち、初句と二句は華やかな描写、三句は否定(かげもなし、色もなし、なかりけり、etc)、四句五句は侘びしい描写。
特に五句目は「秋の夕暮れ」「雪の夕暮れ」「横雲の空」などとすれば良い。
これ名付けて「定家ジェネレータ」。
自動的にぽこぽこ定家風の歌が詠める。
たとえば

> キャバクラでシャンパンタワーのかげもなし場末酒場の雪の夕暮れ

あるいは

> ドンペリに葉巻くゆらす色もなし木賃宿の春の夜の月

あるいは

> 美しき秘書のすがたもなかりけり個人会社の横雲のそら

など。
ほらぁ。定家っぽい。
基本は、持ち上げて落とす、です。

思うに。
俳句というやつは、和歌より短い。
必ず季語を入れなくてはならない。
季語は名詞。
かつ、助動詞よりは助詞が使用されやすく、
結局は名詞と助詞、あとはちょこっと動詞だけでできてることが多い。
「荒海や佐渡によこたふ天の川」「古池やかはづ飛び込む水の音」など。
それにくらべると、和歌は長く、
助動詞などを複雑に組み合わせて完全な構造のある文章を作らなくてはならない。
名詞をぽこぽこ並べても和歌らしくならない。
助動詞と助詞を複雑に長く組み合わせる、しかも古典文法に則って、雅語だけをつかってそれをやるというのはやはり難しく、
逆に俳句は文法的にはかなり楽。
現代語や口語や俗語を入れてもあまり違和感無い。
だからこそ季語を入れるなどの定型を余計に必要とするのだろうと思う。

和歌は長い分、いろんな技巧、文芸的なありとあらゆる技巧を取り入れやすい。
枕詞や序詞もある意味そうだが、
本歌取りとか返歌というのはつまり原作へのオマージュなわけだが(笑)、
俳句ではそもそもオマージュなどかましているほどの文字数の余裕がない。
本歌取りとわかるほど本歌取りしたら元の句とほとんど同じになってしまう。
オマージュが作品に重層したイメージを与えてくれる。
また、五句あれば倒置・反語・リフレイン・押韻などの技巧を駆使できる。
否定を初句に入れるか最後に入れるかで雰囲気も変わってくる。
或いは二重否定とか。
定家のようなダダ風な不協和なコラージュとか。
ほぼなんでもできる。
構造も上の句下の句をほぼ分離させることもできるし、全体を囲むような構造にもできる。
ボレロのようにだんだん盛り上がるようにもできる。
「逝く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」とか「くれなゐの二尺のびたるばらの芽の針やはらかに春雨の降る」とか、
徐々に視線を移しつつもりあげてるわな。ま、近代短歌なのであまり好きではないが。

そういう技巧を駆使できる最短の詩形が和歌であり、さらにそれらを一切捨ててより短くしたのが俳句。
俳句はだから文法的技巧的には極めてシンプル。
一瞬を切り取った写真的な作品になりがちだよな。

で、和歌というのは過去の作品へのオマージュでできているところが大きい。
だんだんそう思えてきた。
過去の遺産を引き継ぎ再利用し重層化していく形態なんだよな。
早くは貫之がそれをやり、後に定家が流行らせた。
新古今ってやつ。

ほら試験問題にも暗記物と考える問題がある。
オマージュってのは暗記物なんだよな。
ていうか単なる暗記物というか考える問題と組み合わせた応用問題というか。

和歌の定型は過去の作品を参照しやすいようにモジュール化されてる。
基本的に文字数そろってるから、本歌取りしやすい。
どんくらい切り出すかとかどのくらい改変するか、どこに配置するか、いくつ組み合わせるかなどの自由度も大きい。
しかしそれは俳句には無理。
短すぎるから。
和歌にはその長さがある。
となった場合に、過去の資産を完全に引き継ぐにはやはり古典文法に則った古語を使うのが便利なわけよ。
今の口語をベースに過去作品をオマージュしても簡単にはつながんないべ。
ぴったりシームレスにつなげるには平安王朝辺りの古典文法をベースにするのが一番しっくりくる。
そこに多少のアレンジはあって良い。
実朝の万葉調が決まったのも、そこにあると思う。

ところで岩波文庫の新葉和歌集の解題を読んでいたら、後村上天皇を評して

> 情緒の世界に生き、時代の実相に対してともすれば目を閉ぢた二条派の歌人と䡄を同じうする平坦な格調の低い一般的な歌も多い。

などと書いてあり、ひどい言われよう。戦前も二条派の評価がめちゃくちゃ低いらしいことがわかる。
後村上天皇の歌は面白いのが多いのになあ。
まったく評価されてないんだな。
料理にもアピタイザーとメインディッシュがあるように、
二条派風にさらっと詠んだアピタイザーと、
こってり練りにねったメインディッシュがあって良い訳よ。
もしメインディッシュだらけだとくどいだろ。
そうは思わんのかなあ。
私はあの勅撰集に採られた圧倒的に退屈な歌群はそういう前菜的つなぎ的に使われているのだと思うよ。
なんちゅうか、時代の実相に目を見開いてどろどろの現実をそのままキャンバスに塗ったくったような歌が良いとでも言うのだろうか。
プロレタリア文学だな。

後村上天皇御製:

> かつ消えて庭には跡もなかりけり空にみだるる春のあは雪

ほらあ。なかなか良い雰囲気でしょ。
「かつ消え」という辺りが伊東静雄の「春の雪」の

> なく声のけさはきこえず / まなこ閉じ百ゐむ鳥の / しづかなるはねにかつ消え

を思わせる。
まさに「心象風景」だわな。
ここで「かつ」というのは「積もると同時に消えて」とか「地面に落ちるとすぐに消えて」という意味だな。

> おのづから長き日影もくれ竹のねぐらにうつるうぐひすの声

自然と長くなっていく春の日影もとうとう暮れて(「暮れ」と「呉竹」がかけてある)、鴬が竹藪に帰って行くと。
やはり鴬は竹藪に居るものだよな。
さらっと詠んだ良い歌だよな。

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