亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for the ‘雑感’ Category

10.16.2017 · Posted in 雑感

トイレにビックカメラの日本地図を貼っていて、律令国の境界や名前などを書き込んだりして重宝しているのだが、 世界遺産とか旧暦の月名の蘊蓄なども書き込まれていて、自然とそれが目に入って憂鬱になる。 おおかたの日本人にとってはこれが日本の伝統なのだ。 実に馬鹿げている。 ほとんどの伝統はまずいったん疑わねばならない。 そしてほんとに確かなものだけを後世に伝えるようにしなくては。

学生時代は都心に四畳半風呂無しトイレ共同アパートに住んでいた。 今もそういうアパートが中央線沿線当たりにわりと残っていて、 ネットの不動産屋で見て、 google マップかなんかでたぶんこれだろうみたいなのを探し出したりなどして、 職場から近くにこういうところを借りてみようかな、少なくとも、物置代わりにはなるだろうし、 住んでみれば地理に詳しくなるだろうと思うのだが、 朝風呂に入っているといろいろと着想が沸くたちなので、 風呂無しアパートで銭湯通いするとその機会が失われてしまう。 やっぱり不便な気がしてくる。

今の憲法が宗教なのはよろしくないことだ。 「人類普遍の原理」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」「政治道徳の法則は、普遍的」「永久にこれを放棄」「侵すことのできない永久の権利」などと言った文言はすべて不要だし不愉快だ。 明治憲法が「天皇は神聖にして侵すべからず」といったのを別の言葉に置き換えただけじゃないか。 そういう文言は明治の法典にいくらでも見られるものであり、 同様に不要だ。 かつて西洋で王権神授説が信じられていたときにそんな文言が使われたのは仕方ないかもしれない。 社会主義国家の憲法が大言壮語に飾られているのも勝手にすればよい。 しかし日本の憲法までがそんな狂言を弄しているのは許しがたい。 憲法は法律体系の頂点に位置する基本法というに過ぎず、他の法律同様に、永久とか普遍などという概念になじまない。 日本人は藤原不比等が作った養老律令を1200年も廃止しなかった、かなり頭がおかしい民族で、しかもその自覚が無い。 日本国憲法だって養老律令みたいにしてしまいたいのだろうし、明治憲法を作ったときにも1000年保つ恒久法のつもりで作ったのに違いない。実に馬鹿げているではないか。 日本人は建物を建てるときはちゃんと耐用年数を計算して建てているのだ。 日本人に合理精神が欠けているというわけではなさそうなのに不思議だ。

世の中の景気が良くなってもクリエイターの待遇が良くならないのはやはり電波利権のせいなのではないかという気がしてきた。 電波利権こそは諸悪の根源なのだ。 東京テレビ局の特権的地位をなくせばクリエイターの労働市場は改善されるだろう。

東京一局集中も利権だ。政府は首都機能移転しようとしているのに、東京都などが利権を守るために阻止している。

政府にできることはいくらでもあるのに利権に縛られてできない。 公共事業を抑制しているのも、結局は、東京に利権をもっている連中が地方の発展を妨げたいだけなのだ。

年寄りが少なかったころは年金とか高福祉でよかったが、高齢化の時代にはベーシックインカムのほうが適している。 社会保障はすべてベーシックインカムに集約してあとは自己責任にすれば良いではないか。 多少不便になることもあろうが、制度は簡素化し、政府の財政は安定する。

10.15.2017 · Posted in 政治

アメリカは好戦的な国だとみなされているのだが、 実際、アメリカほど戦争している国はないわけだが、 しかし、アメリカほど、ほかの国が戦争に巻き込みたい、ほかの国が利用したい国もないわけである。 第一次世界大戦も第二次世界大戦もそうだった。

そういう意味では日本もアメリカに似ている。 日本はかつて挑発されるとすぐカッとなって戦争してしまう国であった。 おっちょこちょいな国と言ってもよい。 必ずしも戦争が好きな国とは言えないが、すぐに戦争に巻き込まれてしまう。 そこがアメリカと似ているといえなくもない。

ほとんどすべての国がアメリカに北朝鮮を懲らしめてほしいと思っている。 つまりアメリカに北朝鮮と戦争してほしいと思っている。 トランプはブッシュほど馬鹿じゃないので自分から手を出さない。 相手から手を出させようとしている。そこがフランクリン・ルーズベルトに似ている。

今から思えば、日中戦争や大東亜戦争に日本を引きずり込んだのは毛沢東だった。 日本が蒋介石と戦い、アメリカと戦えば、共産党に割り込む隙ができるからだ。 日本を戦争に駆り立てたものは日本自身であっただろうか。 中国とソビエトではなかったか。 日本が朝鮮半島に進出し、満州に進出して、中国とロシアは迷惑だった。 イギリスは東アジアに直接かまってられないから、やはりアメリカを参戦させたかった。

つまり、アメリカに日本を懲らしめてほしいと思った。世界中の国が。

朝鮮半島は昔も今も政治的に破綻している。 そんなやっかいなところへ日本はのこのこ出て行って痛い目にあった。 伊藤博文は愚鈍に見えて賢く、陸奥宗光は頭の切れるバカだったと言わざるを得ない。 今日本は朝鮮半島から完全に軍事的に手を引いて代わりにアメリカが出てきて、 アメリカが北朝鮮を懲らしめなくてはならない形になってきている。

アメリカも日本もマスコミが政府の足を引っ張り、あるいは政府に戦争させようとする。 あるいは外国勢力がマスコミを操って政府を弱らせようとする。 これ、日中戦争や大東亜戦争時代の国際情勢と同じじゃないのか。

私は自分が右翼なつもりでいるが、「神在月には出雲大社に参拝しよう」とか言ってる連中にはまったくシンパシーを感じない。

ユネスコ改革

10.14.2017 · Posted in 政治

【社説】米のユネスコ脱退は正しい第一歩

非常に興味深い記事だ。 原文は英語で有料会員制ですでに読めないのだが、現時点でまだ公開されている和訳を読めばほぼ十分だろう。

イリナ・ボコヴァはブルガリア共産党員(ブルガリア共産党は1990年にすでに解散)で、 モスクワ国際関係大学の卒業生で、 2009年からユネスコ事務局長であり、 2016年の国連事務局長選挙にはプーチンの支持で立候補している。 国連本部はニューヨークにあるが、 ユネスコはパリにあってアメリカのコントロールが効かない。 ボコヴァが2011年にパレスチナ自治政府のユネスコ加盟を認めたことから、 米国はパレスチナを国家として受け入れる国連組織への資金拠出を禁じる法律を発動。 別に金がもったいないから拠出しないことにしたわけではないのだ。

また、ユネスコはシリアのアサド政権を支持しているとも言っている。

要するにユネスコはパレスチナにしろシリアにしろ、ことごとくアメリカに楯突いており、 ユネスコはロシアに操られているといってもよい状態なのである。

ユネスコがパレスチナの洞窟を世界遺産に登録したことでもはやアメリカはユネスコを容認できなくなった。 まったく同じことが日本でも起きている。 日本も世界遺産なんてものに依存して商売するのはやめたほうがいい。

日本は勇気を持って行動すべきだ。 ユネスコを脱退する必要もない。 拠出金も払ってよい。 世界遺産をすべて辞退するだけでよい。 それが今のユネスコに対する抗議となる。

日本はただ、観光客目当てで世界遺産登録に躍起になっているだけだ。 ただのさもしい根性にすぎない。 「教育」「科学」「文化」の名のもとに金もうけがしたいだけにすぎないのだ。 だからこの際、世界遺産登録は返上してしまえ。

それでも観光客があとからあとから日本に押し寄せてくるだろう。 それだけの魅力が日本にはあるからだ。 そうしたら多くの国がユネスコを見限り、 ユネスコには利権が集まらなくなる。 そうしてやっと汚らしい政治家たちは去り、まっとうな「教育」「科学」「文化」の場に戻る。 日本がユネスコを改革するとはそういうことを言うのではないのかな?

銃犯罪の本質

10.14.2017 · Posted in 政治

アメリカから銃がなぜなくならないか、マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』に、明確に結論は示されている。

アメリカもカナダもいずれも銃規制は緩い。 隣り合う国どうしで、しかも、アメリカは重犯罪が非常に多く、一方、カナダにはほとんどない。 カナダのスーパーマーケットでも、銃や弾は比較的容易に買える。

銃のせいではなく、国民性の問題なのである。 おそらく人は、銃を乱射したいと思えば、カナダにいてもアメリカに来て乱射するだろう。 そうするとメディア受けが良いからだ。 インスタ映えというが、同じことで、カナダよりはアメリカでみんなに見せびらかせたほうがより受けるのだ。 同じことはマスコミにもいえる。

マスコミが憎悪を煽るから銃乱射事件が起き、事件はマスコミによって煽られ、再びさらに過激な事件が起きる。その連鎖を断ち切る必要があるのだが、問題の本質は、市民が銃を自由に所有できるかどうか、ということではないのだ。

日本も戦後、銃乱射事件が多発して、規制が強化された。 その結果銃乱射なんてことはめったにおきなくなった。 だからアメリカでも規制はある程度の意味があるだろうと思う。 しかし隣国のカナダが銃規制を行わないのに、原野が広がるアメリカで、銃規制しましょうといっても誰も従うまい。 アメリカはその国土のほとんどが北海道みたいなものだ。 原野に繰り出し野生動物と混じって暮らすにはどうしても銃が要る。

10.12.2017 · Posted in 雑感

私が好きな作家、というか、天才だなと思えると言うか、尊敬する作家は芥川龍之介、志賀直哉、中島敦などなのだが、皆キリリと引き締まった短編を書く人たちだ。夏目漱石や村上春樹にそういう短編があるかと言えば無い。 実際芥川や志賀の長編を読んだことがあるかと言えばまともに読んだことは私はないのであって、短編の印象だけで彼らの才能を判断している。 中島敦は全集をたびたび読んだから、おそらく相当好きなのだろうと思う。だが長いものでもせいぜい李陵とか、スチーブンソンの伝記くらいでそんなに長いものはない。 菊池寛も好き。 長いものでまともに読んだのは日本外史くらいじゃないか。 あとはハイジとか? ヨハンナシュピリは好きな作家と言ってもよい。 嵐が丘は読んだ。エミリーブロンテはたしかに天才だ。スタンダールは挫折したが、嵐が丘はきっちり最後まで読んだのだから。あの気が狂ってる感じがとても良い。

昔良いなと思ったキンドル作家の作品を読み直すとそうでもないことがある。未知の作家には自分の趣味を投影して勝手に想像して読んでしまうからかも知れない。その作家を知り、作品傾向を知るにつれて初期作品のあらがみえてしまうのだろう。

そろそろ備蓄

10.12.2017 · Posted in 政治

そろそろ非常食の備蓄をしておかねばならないような気がする。 戦争が始まるとしたらおそらくは冬、来年早々くらい。 我が家が、私が住んでいるところが、戦争で直接被害を蒙る可能性は低い、と思うが、 戦争だとなると、パニックで買い占めとか、物価高騰などが起きる可能性がある。

だから、普通の値段で買えるうちに、買い置きができるものくらいは買っておいたほうがよいのではないかという気がする。 戦争に限らず、災害というものはいつ起きてもおかしくないのだから、 そういうときのための備蓄はしておくべきだろう。

自民が大勝したら戦争になる確率は上がるだろう。 そりゃそうだ、自民が負けたときにわざわざこちらから仕掛けるなんてことはできない。 自民が大負けしたすきに相手が攻めてくるということも考えにくい。というのは自民が今回そんなむちゃくちゃな負け方をする可能性は低いからだ。

トランプが任期半ばで安倍も続投となれば、何かしかける可能性はある。 もちろん先に手を出させるためだ。 ようはパールハーバーと何の違いもない。

別に自民や安倍が好きで支持しているわけではないが、 今のところ安倍は失政らしい失政はしていないし、 代わる理由が何もない。 別にウィンドウスやビルゲイツが好きではないが、 アップルやジョブズ信者や良い気になるのがイヤだからしかたなくマイクロソフトを使っている。 私の自民党支持というのもだいたい同じで、 ほかの連中が勘違いしないように、せっせと自民党に投票している。

総理は誰がなっても同じ、という状況がマスコミの商売的にはいちばん都合が良い。 そしてマスコミがさわいで政権交代すれば、マスコミも俺の力で政治を動かした、などと調子に乗ることになる。 自民の長期政権、総理の短期在職というのはようするにマスコミや国民のせいであって政府のせいとは言いがたい。

昔は、首相や政府が暴走して、国民をだまして、マスコミが政府批判で騒いで、それでもしかたなしに戦争になるのだと、漠然と思っていた。 しかしそうではない。 政治が不安定になるとマスコミが国外勢力や国内の敵対勢力と結託して政府をつついて、政府をできるだけ弱らせようとする。 国民を騙してできるだけ自分の国に不利な判断をさせようとする。 政府が弱り国民を制御できなくなるから、いよいよ戦争が起きるのだ。

日清戦争も、日露戦争も、満州事変も、日中戦争も、大東亜戦争もだいたいそういう流れでおきた。

いまマスコミが騒いでいるのは政府の失政のせいではない。 国外勢力がマスコミを操ってできるだけ日本政府を弱らせようとしているのである。 そんなことは大昔から中国の史書に書いてある。 同じ事が何千年もの間、繰り返されてきただけのことだ。

まったく度しがたいのはマスコミだ。 現在、NHK以下、すべてのマスコミが発狂している。朝日なんかは昔から偏向していたが、今の状況はどうみても異常事態だ。 このこと自体、戦争が近いことを予感させる。 いつの時代も、戦争前夜、まずまっさきにマスコミが発狂した。

ドイツ人みたいに個人主義な国民は全体主義に傾いたときはヒトラーのような独裁者を立てる。 そして「ヒトラーという個人」に国民を率いさせるのだが、 もちろんヒトラーには個人的な資質やカリスマがあるんだろうが、 独裁者を立てて全体主義を完遂させるのであるから全体主義には変わりない。 日本の場合、いろんな理由があるんだろうが、全体主義が行き着いた先に国民の総意で独裁者を立てるという発想にはなりにくい。

日本の場合は、平常の全体主義的傾向が破綻して、すべての社会常識がリセットされてやっと個人主義が台頭し、その最終形態として、信長や秀吉や家康が出てくる仕組みになっているような気がする。 ドイツと逆だ。ドイツだと平時は個人主義だが国難が迫ると全体主義的民族主義的になり、しかしそうした空気の中でも個人主義が尊重される結果独裁者が擁立されるのである。

10.11.2017 · Posted in 雑感

能は、人に見せるショーではなくて神に献げられるプロトコルだとか、神への祈りなどと言っている人がいて、 能というのは比較的最近の呼び方でもともと猿楽といっていた。 猿楽はつまりは猿まね芸だ。 なぜなんでもかんでも神妙にしてしまいたがるのかね。

マインドフルネスはどうでも良いただの流行り物だということはわかった。

Kindle Unlimited の雑誌なんだが、いつも見ているのはナショジオとニューズウィーク、CG World、MdN。 最近見始めたのは時計Begin。

サイゾーは見なくても良い気がしてきた。 週刊文春SPECIALも、内容的に、読むまでもない気がする。

花咲舞シリーズはまあまあ面白い。短くてすぐ終わるのが良い。 では長編を金を払って買って読むかというとそこまでではない。 銀行員が推理して不正を暴くというパターンに、それほど興味ないからかもしれない。

私は高校生の頃から朝日新聞が嫌いで、投票する政党はいつも自民党。 もう十年近く産経新聞を購読している。 最近になって右翼になったわけじゃない。 1980年代からずっと右翼だ。

タモリ

10.07.2017 · Posted in 雑感

昨日のタモリと山中教授が出てたNHKの番組はおそろしくつまらなかった。

金はかけている。 出演者も豪華だ。 企画も悪くない。 しかし番組としてはとてもつまらない。 そもそもタモリが全然楽しそうじゃない。 まるで最近のみのもんたみたいに、ただの飾りになってしまっている。 山中教授が司会進行役にさせられているのだが、彼は確かに番組の進行でもなんでもそつなくこなす人だが、別に面白い人じゃない。 タモリの体内をレゴで作ったセットがあるのだが、なんのためあんなことをしたのか意味不明だ。

NHKはだんだん壊れかけてきているのではないか。 それとも、私の見る目が昔と変わってきたのだろうか?

ブラタモリもまあ、最初の頃は面白かったが、 だんだん最近はつまらなくなった。 それはやはりタモリ本人があまり楽しんでないからだと思う。 NHKは金かけている。ロケもすごい。 だがそれはしょせんはタモリ倶楽部の豪華版にすぎず、タモリ倶楽部にはかなわないのだ。 タモリの好きなようにさせればもっと面白くなると思う。 しかしNHKの誰かが圧力をかけているのか視聴者がクレームをつけているのか知らないが、 タモリでなくてもほかの人でもいいじゃんみたいな内容になっている。

一時期タモリ倶楽部をがっつりyoutubeで見ていて、後でみるとき便利なようにと、再生リストに入れていた。 ところがいきなり再生リストを削除され、警告まで受けた。 違法動画があったならその動画を削除すればいいはずだ。 なぜ再生リストを作っただけで警告を受けなくてはならないのか。 しかもその理由の説明もない。

おそらく古い番組ほど、放送内容にいろんな不備があってクレームを受けやすいのだろう。 タモリ倶楽部的には、どんどん youtube で見てもらいたがっているように見える。 しかし町中を撮っている映像が多いから削除依頼が出るのかもしれない。 「空耳アワー」は音声が削除されていることがおおい。やはり著作権の問題なのだろう。 テレビ朝日が過去のタモリ倶楽部を再放送したりDVDにして売ったりすることもおそらくは難しいのだろう。

エウドキア

09.28.2017 · Posted in 雑感

最近『エウドキア』が割と良く読まれているのがうれしい。

『エウメネス』のついでで読んでもらえているのだろうか、第一次十時軍前史というあたりで興味を持ってもらえているのだろうか。 いずれにしてもありがたい。 『エウドキア』はKDPでは「古代ギリシャ史」に分類されているのだが明らかに「中世ギリシャ史」である。 しかし「中世ギリシャ史」というカテゴリーがないから仕方ない。 また『エウメネス』は「古代ギリシャ史」に違いはないのだが、どちらかといえば「ヘレニズム史」「西アジア史」というべきだ。 しかしそんなことを言っても、仕方ない。 ともかく西欧史観というのがじゃまくさい。 最近よく思うのは、たしかに自然科学というものは西欧の発明だが、それゆえにあまりにもキリスト教との親和性が高すぎて、 自然科学とキリスト教の癒着は非常に強くて、しかも無意識的なものなので、 すぐに本卦還りして、疑似科学とか精神世界とかに引きずられちゃうんだよね。 だから before and after science とかポスト自然科学とか言いながら、スピノザの汎神論まで戻っちゃうバカが現代でもどんどん湧いてくるんだよなあ。 儒教なんかだとそんな傾向はもっと薄いんだけどなあ。 でも儒教を下敷きに自然科学が出てくる可能性はないしな。 まともかく自然科学がキリスト教神学から生み出されたのは人類にとって一つの不幸であるには違いない。

話を戻すと、『エウドキア』は、もともとは、One Upon a Time in Eurasia というとてつもなくでかい話を書いてその一部を切り取ったものである。 One Upon a Time in Eurasia ではあまりにわけがわからないのでのちに『セルジューク戦記』という名前にした。 オスマン・トルコは知ってても、セルジューク・トルコを知っている人はあまりいない。 ましてマラズギルトの戦いを知っている日本人は滅多にいない。 アルプ・アルスラーンは少し(名前だけは)知られているようだ。 この話、 主人公はもとはといえばオマル・ハイヤームだった。 私は西行、太田道灌など詩人を主人公にしたがる傾向があり、 エウメネスという書記官を(アレクサンドロス本人ではなく)主人公にしたがるのも同じといえば同じである。 全般的に文人を書きたいので、新井白石や大塩平八郎も同じ理由で主人公になっている。 エウドキアもギリシャ古典文芸が好きな文学少女なので、やはりヒロインにしてみたかったのだが、まあ、歴史的にはほとんど無名なひとだよね。 エウドキアとエウメネスには共通点があるわけで、そのあたりがまあ、私が描きたい歴史上の人物、ということになる。 オマル・ハイヤームは数学者でもあって、私の場合そういう学者を主人公に書きたがる傾向もある。 『安藤レイ』『生命倫理委員会』『司書夢譚』『妻が僕を選んだ理由』『西京極家の秘仏』などがそうだ。 といった傾向をわかって読んでもらえているのだろうか? オマル・ハイヤームはその上酒飲みでもあって、私が主人公で書かないはずがないのだが、書きにくい。それはやはり中央アジアという、面白くもわかりにくい世界を舞台にしなきゃならないためでもある。一度あのへんに住んでみたいなあという気持ちはある。だがもうこの年になっては無理はきかないだろう。 『エウメネス』が最初ゲドロシア編から始まるのは、やはり私に、そういうペルシャとか西アジア、中央アジアなどの世界を書きたいという願望があるからだ。それは、多分に、宮崎市定の影響によるものだろうと思う(東アジアを書いてないわけではない。『特務内親王遼子』とか。これまた全然読まれないのだが)。

ついでだが、「エウメネース」は完全にギリシャ語の名だが、「エウ」「ドキア」はギリシャ語とラテン語のちゃんぽんで、 東ローマまで時代が下るとギリシャ語とラテン語が完全に混淆しているのが当たり前なのだが、ヘレニズム時代はきちんとギリシャ語だけで書かないと恥をかくことになる。 そこがけっこうたいへん。

話は戻るが、一番最初に疑問に思ったのは、オマル・ハイヤームはトルコ人だったのかペルシャ人だったのかということで、 少し調べればわかるがトルコ人であるはずがなく、ペルシャ人であった。 しかも生涯、今のイラン東北部のホラサーンとか、トゥルクメニスタンのメルヴあたりに暮らした人だった。

メルヴはアーリア人共通の故地であり、仏教語では須弥山と言い、西へ行った種族はペルシャ人になり、東のインドに入ってアーリア人になった。

オマル・ハイヤームの父イブラーヒムがアルプ・アルスラーンとともに西征してマラズギルトの戦いに従軍した、というのは創作であって、 そのとき若い頃のゴットフリード(ゴドフロア)、バルドヴィン(ボードワン)兄弟と遭遇したというのも創作だった。

それで余りにも話が大きすぎて、特にオマル・ハイヤーム当たりが書きにくいので、書きやすいところだけを切り取って残したのが『エウドキア』と『ロジェール』なのだが、 イェルサレム王バルドヴィンの後妻のアデライーデの息子がロジェール2世なのである。

『ロジェール』がほとんど読まれないところを見ると、どうも十字軍がらみで『エウドキア』が読まれているらしいってことがわかる。 それでまあ、第一次十字軍そのものについて、当時の東ローマ皇帝アレクシオスを主人公にして書けばそれなりに注目はされるかなと思い、 多少構想はあるのだが、書くからにはきちんとしたものが書きたいなとはおもう。すでにアレクシオスは『エウドキア』にも『ロジェール』にも登場している。 彼はすごくキャラの立ったひとだなあと思う。

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computō

09.23.2017 · Posted in 雑感

compute の語源は computō で、con + putō。 putō は綺麗にする、汚れを落とす、剪定する、などが原義であり、 そこから派生して、見積もる、考慮する、見なす、などの意味が生まれ、 さらには数える、考える、という意味にも使われる。

computō はしかし、総計するという意味にしか使われないように思われる。

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