西行再説2

鳥羽院に出家のいとま申すとてよめる

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ

この歌は『山家集』には採られていない。

西行こと佐藤義清は北面の武士であった。鳥羽離宮北の詰め所に彼は伺候していたわけだが、要するに御所の裏口、勝手口であって、彼がその職を辞するとき鳥羽院にこのような歌を奉っていとまごいとしたというのだが、ほとんどあり得ないだろう。謁見の機会すらほぼありようがなかったと思う。まして顔や名、詠んだ歌など覚えられてもいるまい。そういう関係で、こういう無礼な物言いの歌を院に詠むはずがない。さらに鳥羽院はまったく歌を残さない人だった。歌を詠まないか、歌に関心がない人だったはずだ。その鳥羽院にわざわざこんな過激な内容の歌を西行が詠んで出家した。後足で砂をかけるような勢いで。などということはどうみても創作、おそらく山伏か僧兵のごとき者たちが口ずさんでいたような当時の歌謡ではなかったか。

この歌に対して小林秀雄は

決して世に追いつめられたり、世をはかなんだりした人の歌ではない。出家とか厭世とかいふ曖昧な概念に惑はされなければ、一切がはつきりしてゐるのである。自ら進んで世に反いた廿三歳の異常な青年武士の、世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望の飾り気のない鮮やかな表現だ。彼の眼は新しい未来に向つて開かれ、来るべきものに挑んでゐるのであつて、歌のすがたなぞにかまつてゐる余裕はないのである。

自分の運命に関する強い或は強過ぎる予感を持つてゐたのである。

などと言っている。なるほど上に掲げた歌は確かに当時抑圧され鬱屈していた若侍たちの荒ぶる心理を代弁したものに違いない。しかしそれを西行本人が詠んだかどうかということは別問題だ。

西行の真作とみておよそ間違いないと思われる歌を眺めてみて、この歌を見るといかにも異様で異常である。

小林秀雄は西行が出家するときには何かしら激しく高ぶる感情が作用していてそれでこのような異常で苛烈な表現をとったのだと思ったのかもしれない。だがそれは非常に無理がある。平安朝末期の歌人とはいかような人種であるか、ということがわかってないのではないか。

西行とて当時の歌人の一人であった。ふだん穏やかな、どちらかといえば感傷的で耽美的な歌ばかり詠んでいる人がいきなりこんな歌を詠む、というような事例はない。ふだんから変な歌を詠む人は変な歌しか詠まないし、平凡な歌ばかり詠む人は平凡な歌しか詠まない。

西行のごくありきたりな、おもしろくもおかしくもない歌をたくさん見てみるとよい。そういう歌は他人がわざと西行の名をかたって詠んだりしないから、西行本人の歌である可能性が高い。逆に奇抜でなんだかおもしろそうな歌は、他人が西行の名で詠んだのではないかと疑ってみなくてはなるまい。『御裳濯河歌合』『宮河歌合』『山家心中集』などは西行本人の自選集とみなしてほぼよかろうと思うから、そうしたところを中心に見るとよい。『山家集』もまあ信じてよかろう。『異本 山家集(西行上人集)』には頓阿の跋があるが、西行の時代から離れすぎていて信じがたい。拾遺や追加などはほぼ信用できないと言って良いと思う。

そうしてだいたい西行が詠んだとして間違いなさそうな歌ばかりを見ていけばその全体像がわかってくるはずだ。そうしてたとえば「花の歌あまた詠みける中に」などという連作の中に出てくる

おしなべて 花の盛りと なりにけり 山のはごとに かかる白雲

などはどう考えても西行の歌に違いあるまい、と思えてくる。こうした歌はどれも一見平凡だが、テンプレがなく、簡単に詠もうと思っても詠めない歌ばかりであることがわかる。言葉も平易で無理がなく、調べも整っている。癖が無くひっかかるところがないので見過ごしてしまいがちだ。ふだん和歌に親しんでいない人には単なる凡作にしか見えないだろう。それが西行の歌の特徴であって、逆に何か違和感のあるものは偽物である可能性が高い。

風になびく 富士の煙の 空にきえて 行方も知らぬ 我が思ひかな

西行は京極派のような、字余りの多い歌人だと言われているのだが、こんなふうに露骨に字余りのある歌を西行が詠むとはとても思えない。京極派の歌人が西行の歌を偽造したのではなかろうか、とさえ思える。

この歌に対して小林秀雄は

これを、自讃歌の第一に推したといふ伝説を、僕は信じる。

この歌が通俗と映る歌人の心は汚れてゐる。

などと言っているのだが、彼はどうしてこの歌をそれほどまでに気に入ったのだろうか。私にはまったく理解できない。私はこの歌を通俗とは思わない。ひどく不細工で、西行に全然似つかわしくないと思えるのである。こういうひどくいびつな歌は京極為兼以降に出てきたものであって、西行の時代にはまったく許容されていなかった。西行だから敢えてそれをしたのだという人もいるかもしれないが、私にはあり得ないと思う。

どうも西行という人はとんでもなく誤解されている。誰も西行のことを知らないし、まともに解説もできていない。

西行本人にまとわりついている、西行以外のなにか。西行はあまりにも有名で、あまりにも人気が高くて、その割に身分が低く、歌の真贋を確かめるすべがない。そこが利用されたのだ。もっと具体的に、ありていにいえば、当時の仏教徒たち、平家物語なんぞを創作した坊主たちによって好き勝手に脚色されているのだろうと思われる(ほとんど同様のことが太田道灌の歌にも言える)。それを今日の骨董趣味の連中がやはり自分たちの好き勝手に利用してきたのだ。西行、道灌ばかりではない。定家しかり。百人一首しかり。何もかも今一度きれいに洗濯してみてはどうか。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

この歌はもともと『詞花集』に採られた詠み人知らず、題知らずの歌であったが、『西行物語』に採られたために西行の歌ということになったらしい。「惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をも助けめ」と口ぶりが非常に良く似ている。桑原博史編『西行全歌集 』新典社には「別本山家集にはあって筑波大本には無い歌」の中に載る。要するに鎌倉時代になってから、適当に『詞花集』などからそれっぽい歌をみつくろって、「文武に秀でた青年であったが,25歳のとき友人の死を身近に見て無常の思いを強め,袂にすがる娘を縁側から蹴落として西山に走り,出家する。」などというドラマチックな物語をでっち上げたのであろう。実に馬鹿げたことだ。そして小林秀雄もかなりそのイメージに引きずられているように感じられる。というより、わざわざ西行が詠んだかどうだか疑わしい歌ばかりピックアップして虚構の西行像を造り上げようとしているようにも見える。

繰り返しになるがその当時そのようにやけくそになって出家した若者は実際に数多くいたのであろう。だからこそそんな物語が作られて世に流布した。しかしその主人公が西行であった可能性は低いと私は思う。

日本文学とか日本史とか、ちょっと冷静に客観的に考えてみれば、何もかも嘘っぱちだらけなんだが、みんななんでこの現状に耐えられるんだろう。そうか、みんな真実よりも伝説のほうが好きなんだな。リアリズムよりフィクションやファンタジーのほうが楽しいんだ。誰かにだまされているほうが幸せになれるんだ。そうに違いない。当時西行は身分が低すぎたから詞花集には詠み人知らずで採られたのだと。なるほど無名の武士が出家して詠んだ歌ではあったかもしれないが、それが西行とは限るまい。

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