[アリストテレスの詩学](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E5%AD%A6_(%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9))
を読んで思うのだが、
散文というものは、文字によって言葉が記されるようになった後に現れた文芸形態であり、
それ以前の口承文学はすべて韻文によって表されていた、と考えて良いだろうと思う。
つまりかつては単なる意志を伝達するための(一時的な)会話と、記録を後世に遺すための(保存用の)韻文の二種類があった。
韻文とはつまり暗記しやすく唱えやすい形態の言語、ということになる
(韻文が会話、たとえば演説などに使われることはあったかもしれない)。
それで韻文、詩、或いは呪文とか祝詞とかお経とか歌と言っても良いのだが、
これらがいわゆる音楽と不可分なものなのか、そうではないのかということを、
ずいぶん考えてきたのだが、日本の和歌の歴史を見る限り、歌は独立した文芸の形であって、
音楽と不可分であるとか、或いは音楽に従属するものであるとは思えない。
万葉集の時代でもそうだし、それ以前の歴史に残ってない時代にさかのぼってもそうだと思う。
あくまでも想像だが、イリアスやオデッセイなども、古事記などの成立とどうように、
最初はごく短いばらばらに伝承されてきた詩だったのだが、
文字を獲得した時期に、誰かが、或いは大勢の人たちによって、集められ、つながれて、整えられて、
韻文としての形式も同時進行的に発達してきて、あのような形になったのだろう。
延喜式の祝詞などはだいぶ散文的だが、反復や対句などが使われていて、やはり一種の韻文であろう。
勅撰集の仮名序も祝詞によく似ている。掛詞や枕詞などが多用され煩雑だが、口承文学時代の名残なのに違いない。
たとえば中国で完全な韻文が成立したのは唐代である。
詩経の詩は韻文としては未発達である。
万葉時代より以前の記紀歌謡もあまり韻文的ではない。
そうすると昔には会話と韻文の区別さえ定かではない時代があった、と考えるべきだろう。
漢詩は非常にわかりやすい例だが、リズム(句の長さ)とメロディー(平仄と韻)がある。これらはどちらかと言えば音楽的要素だが、
さらに対句があり、起承転結がある。これらの文書構造は必ずしも歌曲には必要ではない。
しばしば邪魔ですらある。
唐詩では短い詩形に情報を凝縮するために同じ字の反復を嫌うがこれも歌曲にするにはかなり大きな制約である。
さらに暗喩や省略、倒置などと言った修辞があるが、これらは音楽的な要素とは言いがたい。
おそらく今日的な自由詩の方が曲に合わせやすい(というより曲に合わせて手直しされる)のであろう。
詩は自己完結しているので、必ずしも曲との相性が良いとは言えない。
また和歌の場合には、本歌取りというオマージュを盛り込む手法や、
返歌という気の利いたやりとり、題詠で即興で詠むなどという遊び方がある。
それを書としても楽しむ。これらも音楽的とは言いがたい。
ただしこれらの趣向は今日ではほとんど忘れられてしまったが。
カルタ取り以外は。
今の歌詞は字数や押韻などが割と自由で、曲を合わせることで初めて完成する。
むしろ曲のないただの歌詞は不完全であって曲と合わせることで命を与えられるように見える。
それからの類推で、
韻文が未発達だった太古には、詩を音楽で補完していたのではなかろうか、と考えるかもしれん。
そこから詩と音楽は不可分という発想も出てくるのかもしれない。
しかし詩が未完成な時代には音楽もまたそうだったはずで、詩を補えるほどのものですらなかったと思う。
たとえば画賛とか歌合わせというのは、歌を絵画に結びつける。
歌は音楽にも絵画にも舞踏にも結びつけられる。
もちろん物語や軍記にも使われる。しかし、それらのどれにも従属していないし、
それらのどれも歌に不可分な要素ではない。
たとえば墓碑銘は詩である。
しかし墓碑銘に何か曲が付いていると考える人はいるまい。
念仏も俳句も詩である。
しかしそれらのごく短い詩に曲をつける必然性はほとんどない。
南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、私を誘惑から遠ざけてください、一夜一夜に人見頃、良い国作ろう鎌倉幕府、
いずれもフシ回しは特に必要ない。
語源的に言えば歌は訴えること、唱うこと、謳うことであって、そこにはまず音声があり、リズムや調べも付随しただろうが、
音楽的要素はむしろ、そこから派生していったというべきであって、
歌の本質とはやはり言葉そのものである。
読経を音楽ということも不可能ではない。
だがお経はお経であって、ドラや木魚と不可分ではない。
歌を音楽や絵画や演劇と合わせるのはメディアミックスであり、
それはそれでけっこうなことなんだが、
私は歌はあくまでも歌だと言いたい。
ギリシャ哲学は忽然とギリシャに生まれたものではない。
オリエント世界でたまたまアレクサンドロス大王がヘレニズム世界を作り、
その文化をローマが継承した。
その他の伝承はすべて失われた。
近代、ヨーロッパが世界を征服した。
だから、ギリシャにだけ哲学者がいたように見えるが、
そういう見方はたぶん間違いだ。
エジプトにもシリアにもペルシャにも哲学者はいた。自由な精神を持ち、自由な思索を楽しむ人たちがいた。
ただ彼らはディオゲネスと違ってアレクサンドロスと出会わなかった。
ただそれだけだ。