亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

Archive for 11月, 2013

カスタマーレビュー

11.27.2013 · Posted in kindle

最近キンドルで本を出すには自分も読んでカスタマーレビューを書いてみるべきだと思い、 いくらか書いているが(主にキンドル本。もちろん自分の書いたものには書かない)、 私の書いたレビューで不評なのは、女性向けの料理本とかで、どんだけ相性悪いのかと思う。 自分の本に書かれるレビューもその傾向にある。 まあ、読者の期待を(悪い意味で)裏切る話を書く傾向にあるのである程度は仕方ないとも言えるのだが、 そんな書き方したら本は売れないだろうな。

後は、なんてのかな。学者が(業績稼ぎのために)書いてるっぽい本を商業的にも売れるようにしようと、 タイトルだとか体裁だとかその他もろもろを編集者とか出版社がいじってて違和感のある本が、 特に最近の新書とかに多いのだが。 こういうのはみんなでどんどんつついたほうがよいのではなかろうか? 著者の取り巻きのよいしょレビューが多いのも良い気持ちではない。 赤の他人ならそんな親切な(著者に都合の良い)書評は書かないと思う。 出版業界も最近はせちがらくなってきたから著者と出版社の不協和音も余計に目立つのかもしれん。 或いは、ネット時代、個人電子出版の時代だからそういうものがろこつに、あらわになってきただけかもしれん。 これまでの出版業界の実態がどんどんさらけだされるだろう。

だがそれを声高にののしっても仕方がないことで、我々がやってみせなきゃならないのは、 個人出版でもそれなりにおもしろいものが書けるという実例を示すことだ。

ちなみに私の本には今のところ知り合いが書いたとおぼしきレビューは一つも無い。 そもそも私が最近小説もどきを書いていることは知っているかもしれんが、 私の筆名を知っている知人はあまりなく、知っていて読んでる人はさらに少ないし、 レビュー書こうかと言われても断っている。 そういう方針で本を書いているのだから仕方ない。 そのためにわざわざ kdp で書いているんだから、としか言いようがない。

往々にして名著というものは、人と違う体験をして人と違うおもしろい話を書ける人がいて、 かたや常識的で脚色や文字校正がうまい編集者がいて、 その組み合わせてでできるものだろう。 実際には大した話を書くこともできない作家がいて、 おもしろくない話をどうにかこうにかだまして売る出版社があるだけなのだろう。

キンドルのおすすめとかもいろいろいじってみたが最近飽きてきた。 ネット書店としてのアマゾンは、今も変化しつつあるわけだが、 こういう実験をしてくれる書店が日本にほとんどない状態ではアマゾン一択にならざるを得んよな。

中には高度な詳しいレビューを書く人がいて、 いったいどんな人なのだろうと興味ぶかい。

カスタマーレビュー はコメントを受け付けていません。

ゲーテ

11.26.2013 · Posted in 雑感

ゲーテの名前はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテなので、 姓は von Goethe なんじゃないかと思い、英語版やドイツ語版のウィキペディアを見てみると、みんな単に Goethe としか書いてない。

ではゴッホはと見てみると英語版、オランダ語版ともに Van Gogh である。

サンテグジュペリを見てみると、フランス語版では、どちらかよくわからん。 というのは、姓の「ド・サンテグジュペリ」なのか所有格の「サンテグジュペリの」なのかいまいち判然としない。 箱根に星の王子様ミュージアムというのがあるが、 フランス語で Musee du Petit Prince de Saint-Exupery a Hakone であるが、de de Saint-Exupery とは常識的には言わないだろうと思う。 英語版では単に Saint-Exupery となっている。

フォン・ブラウンとは言うが、フォン・ブラウン運動とは言わない(両者は別人だが)。 TombRaider に出てくるのは Von Croy 教授。

よくわからない。 たぶん西洋でも適当なんだろう。 日本の慣用と西洋の慣用もときどき食い違うようだ。

ゲーテ はコメントを受け付けていません。

俺はまだ本気出してないだけ

11.18.2013 · Posted in マンガ

引っ越しのときに紙の本はほとんど捨ててしまって「俺はまだ本気出してないだけ」もどこまで読んだかすら忘れていたが、 アマゾンのおすすめ商品で教えられて5巻目を買ってみたのだが、 まったく読んでなかったので、5巻目を買ってない上にIKKIの連載もまったく読んでないわけだった。 そりゃそうだな。最近は漫画雑誌を一切読まなくなったから。

それでアマゾンのカスタマレビューなんか読んでると、感動して泣いたというやつがいる一方、 5巻は今までと違ってまるでつまらなかったという人もいる。 別につまらなくもなかったが意外性も少なく地味な話だし、4巻までがおもしろかったというのは確かだと思う。

最初のもちこみの担当者が人生300年に感動してオカマになり、 次の担当者が女で一転作品を酷評して落ちこむ、あたりまでがおもしろかったといえばおもしろかった。

以前、青野春秋の謎 というものを書いたのだが、この作家は、単行本にかなり暗くてシュールな若者の葛藤みたいな短編をいくつも載せていた。 従って、5巻がそっちのほうに引っ張られて暗くて地味な話になったのは予測できなかったわけでもない。

で今は「五反田物語」などという、自伝なのか私小説なのかしらんが、さらに悩める若者的なものを書いているらしい、読んでないからしらんが。

でまあ青野春秋という人が男性か女性かは不明で年齢も不詳で、未だに極めて謎なひとなわけで、 新人賞を取った作品というのも入手困難なのでよくわからんわけだが、 どちらかといえば、少女漫画、というか女性作家が書くような純文学に近いものを書くひとなのだろうと思う。 で、編集からなんか軽いギャグ漫画でもかいてみるかと言われて書き始めたら異様に人気がでてしまったのだが、 この企画というかアイディアは本人というよりは編集の人のものではなかったろうか。 或いはシズオは編集の人が担当した誰かのことだったかもしれない(アシスタント時代の同僚とか、持ち込み仲間の一人かもしれんわな)。

でまあ、この本を買うとアマゾンのおすすめに「最強伝説 黒沢」とかが出てくるんだけど、 シズオは福本伸行や古谷実が描くような人物ではまったくないし、 苦役列車的な人物でもないし、 それらと比較してもしょうがないし(1巻のレビューにはそんなのが多かったが)、 そもそも作者はそんなものと比較されてもうれしくもなんともないと思う。

まあシズオを読んでたのは私も小説を書き始めて新人賞に応募してたころだったので、新人賞の仕組みとかよくわかりました。 ようは新人賞は若者しかとらない。 右も左もわからん未成熟な新人を出版社が都合の良いように育てて恩を売る仕組みになっている。 それは正社員という形で若者を搾取する日本の会社と同じだし、 政治の世界もそうだし、 ともかく新人は未完成でなくてはならない。 編集やライターは表にはでてこないで実を取る。 写真家とか絵本作家とかほとんど99%まではそう。 実力者を中途採用すれば本人にだけメリットがあり、会社や担当の旨味は少ない。 日本の社会は結局そんなふうにできている。 なんのことはない、夏目漱石の「坑夫」に出てくる飯場の搾取の構図と何も変わっちゃいない。 牢名主がいて、新入りがいる世界だ。

たまにほんとにすごいやつもいるが、それも本人の才能というよりは、偶然おもしろいネタに遭遇したというだけであって、 ま、ほとんどは運みたいなもんじゃないかな。 一万人とか百万人の人が地面掘り返してりゃ一人くらいは鉱脈にぶち当たる、そんなものであり、 一生懸命地面掘りゃいいって話ではない。

で、作者は、最後は編集にもらったネタは捨てて(そりゃそうだろう。これからもシズオみたいなマンガを死ぬまで描き続けるわけにはいかない)、本人が書きたいような漫画を書いて、本人の好きな終わらせ方をした。 事実は、作者と編集の合作だったわけだから、その編集の部分を切り捨てるとあの5巻のようなストーリーにならざるを得ない。 いつまでもヘタウマなわけでもなく、ずいぶん画力はついてきたのに、いつまでもヘタウマな絵でシズオを描き続けるのは苦痛だっただろうと思う。 そうすると4巻までの愛読者は引く。 逆にお涙ちょうだいな人情話が好きな連中には5巻だけ受けた。 そういうことではないかね。

俺はまだ本気出してないだけ はコメントを受け付けていません。

将軍家の結婚

11.08.2013 · Posted in 読書

将軍家の結婚という本があって、私が書いた将軍家の仲人とかなり近い。 比べて読めば私がどこを創作したかわかっておもしろいだろうと思う。

将軍家の結婚 はコメントを受け付けていません。

脂肪と筋肉

11.08.2013 · Posted in debu

腹に付いた脂肪が落ちると食欲も減るというのは事実だろうと思う。 つまり、脂肪が付いていればそれだけ自重が増えるから動くための筋肉が必要になる。 脂肪を落とせばそのためについていた筋肉も落ちる。 よって基礎代謝はさらに減る。

やせるのはよいが基礎代謝が減るのはよろしくない。

筋肉は重いから筋肉はなるだけ減らさないのがよい。

となるとやはり運動をするしかないのだが、 自重が少ないと運動をしてもあまり効果がないと思われる。

脂肪と筋肉 はコメントを受け付けていません。

はつきりした形をとる為めに

11.08.2013 · Posted in 読書

はつきりした形をとる為めに。 これもまた短くてわかりやすい文章である。

私の頭の中に何か混沌たるものがあつて、それがはつきりした形をとりたがるのです。さうしてそれは又、はつきりした形をとる事それ自身の中に目的を持つてゐるのです。だからその何か混沌たるものが一度頭の中に発生したら、勢いやでも書かざるを得ません。さうするとまあ、体のいい恐迫観念に襲はれたやうなものです。

これは私にはよくわかる。 何か頭の中にたまったよくわからないものに形を与えたいので書く。 それは一種の強迫観念とも言える。 旧約聖書のヨナのような預言者や、イスラムの始祖モハメッドが啓示を語るような強迫観念、という意味だろうと思う。

あなたがもう一歩進めて、その渾沌たるものとは何なんだと質問するなら、又私は窮さなければなりません。思想とも情緒ともつかない。――やつぱりまあ渾沌たるものだからです。唯その特色は、それがはつきりした形をとる迄は、それ自身になり切らないと云ふ点でせう。でせうではない。正にさうです。この点だけは外の精神活動に見られません。だから(少し横道にはいれば)私は、芸術が表現だと云ふ事はほんたうだと思つてゐます。

まあ、だから、芥川が表現と言っているのは、おそらく宗教的な言葉を借りれば、 預言とか啓示とか召命とか神のお告げとかいうものだろうと思う。 それをまあ、小説はストーリーが大事だとかいや表現のほうが大事などというから話が噛み合わない。 それはたぶん脳の中の現象であり、 一部の人の脳の中にはそういうものが沸いてくる。 いや、もしかすると子供の頃にはみんな沸いているのかもしれないが、 脳がキャリブレーションされて大人になると沸かなくなる。 大人になっても沸いてくるひとはたいていは変人奇人と見なされる。 だがさらにほんの一部の人はその沸いてくるものが理性とか創作というものと結びついて、 作品となるのではなかろうか。

ややこしいのは、この「表現」という言葉を、世の中のいわゆるアーティストと呼ばれる人たちは、 もっと違う意味に使っていることが多い、ということだ。 特に「内容」より「表現」を重視する人にその傾向が強い。 それは「コミュニケーション」とか「相互理解」とか「自己実現」とかよくわからない言葉で言い換えられることがある。 他人がいて、自分がいて、その間に何かが存在するらしいのだが、 それと芥川の主張とは全く異なるものだと思う。

もちろん表現は他者がいなくては成立しないのだが、 芥川にとっては他者とは今偶々目の前を通りかかった人ではない。 後世 に書いているように、

時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆いに埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚しみの餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし―― 私はしかしと思ふ。しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。

芥川にとっての読者とはこのようなものだろう。 今世の中に満ちあふれている普通の小説の普通の読者ではなく、 いつの時代でもよいから、自分を真に理解してくれる読者。 そのために小説というメディアを選んだのだ。 目の前の人のために表現したければ演劇とかそういうメディアを選べば良いと思う。

はつきりした形をとる為めに はコメントを受け付けていません。

小説の読者

11.08.2013 · Posted in 読書

小説の読者

これは他の芥川の文章よりもずっとわかりやすいと思う。 今の小説の読者は、

  • まず小説の筋を読んでゐる
  • 次に、描かかれた生活に憧憬を持つてゐる
  • 次に、読者自身の生活に近いものばかり求めてゐる

ストーリーがおもしろいから読む。 ミステリーやラノベなどであろう。

次に、自分の日常から遠く離れたものを読む。 ファンタジーのことだろう。

次に、自分の日常生活に近いものを読む。 普通の現代小説、通俗小説のことだろう。

しかし芥川は自分が小説を読むには、それ以外の要素があるといい、

では何が僕の評価を決定するかと云へば感銘の深さとでも云ふほかはない。

という。 で、

この何かに動かされる読者の一群が、つまり読書階級と呼ばれるのである。或は文芸的知識階級と呼ばれるのである。かう云ふ階級は存外狭い。おそらくは、西洋よりも一層狭いだらう。僕は今、かう云ふ事実の善悪を論じてゐるのではない。唯事実として話すだけである。

としめている。

普通、芥川の文芸論と言えば、谷崎隆一郎の間で交わされた 文芸的な、余りに文芸的な とか 続文芸的な、余りに文芸的な などをさすのではないか。 しかしこれを読むと芥川という人はなにか難しいことを言う人だ、 さすがに芥川は難しい、 という印象になってしまわないか。 芥川の言っていることはもっと単純明快だと思う。

小説作法十則 これもけっこうこむつかしいことを言っている。

小説の読者 はコメントを受け付けていません。

芸術その他

11.08.2013 · Posted in 読書

最近は自分で読んだ方が人に解説してもらうより話が早い(ことが多い)。

青空文庫をいろいろ拾い読みしているのだが、 芥川龍之介の芸術その他

内容が本で形式は末だ。――さう云ふ説が流行してゐる。が、それはほんたうらしい嘘だ。

まあ、彼がいつも言っていることだ。 ストーリーのおもしろさがまずあって文章のうまさは後だという説に、芥川はいちいち反論している。

芸術は表現に始つて表現に終る。

別の言い方をしてみている。 ただこの言い方はいかにもいやらしいから、

しかし誤つた形式偏重論を奉ずるものも災だ。恐らくは誤つた内容偏重論を奉ずるものより、実際的には更に災に違ひあるまい。

などと言い訳している。

危険なのは技巧ではない。技巧を駆使する小器用さなのだ。小器用さは真面目さの足りない所を胡麻化し易い。

言いたいことはわかる。

芸術の境に停滞と云ふ事はない。進歩しなければ必退歩するのだ。芸術家が退歩する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは芸術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。

このというのはいかにも「鼻」の二番煎じに思えたのだろう。読者のそのような批判をあらかじめ予想して、

が、予に談議を致させるよりは、その方どもの話を聞かせてくれい。次は行脚あんぎゃの法師の番じゃな。 「何、その方の物語は、池いけの尾おの禅智内供ぜんちないぐとか申す鼻の長い法師の事じゃ? これはまた鼻蔵の後だけに、一段と面白かろう。では早速話してくれい。――」

などと最後に言い訳している。

別に「鼻」やら「龍」やら宇治拾遺物語を元ネタに短編を量産したってひとはとやかく言わないと思うのだが、芥川にとってそれは停滞と思え、停滞は退歩であり、退歩は死だと感じたのだう。

売文問答亦一説?文学好きの家庭から文章と言葉と。 少しおもしろい。

文芸鑑賞講座。 長い。

一人の無名作家。 なんだかよくわからないがそういう人がいたと紹介したかったのだろう。

芸術その他 はコメントを受け付けていません。

ゴミ屋敷

11.08.2013 · Posted in 雑感

いわゆるゴミ屋敷というのがあるが、それを片付ける清掃業者もいてその話を聞いた。 自分のうちをゴミ屋敷にしたまんま死んじゃう人ってのは割と金持ちが多いらしい。 ゴミの中に万札などを差し込んでいたり、いわゆるタンス預金みたいなのが遺族も知らずに出回ったりする。 清掃業者が猫ババできないように必ず監視員が付くそうだ。 ソファの隙間などには硬貨がよく貯まっているそうである。 おもしろい話題だがこのままでは小説のネタにはならん。膨らませるにも限りがある。 なんかの素材にはなるかもしれんが。

ゴミ屋敷 はコメントを受け付けていません。

和泉式部、相模、赤染衛門

11.07.2013 · Posted in 和歌

後拾遺集で大きく採り上げられた女流歌人、和泉式部、相模、赤染衛門は、 相模だけが後拾遺集初出で、後は拾遺集初出。ただし一首ずつ。

性空上人のもとに、よみてつかはしける 和泉式部 雅致女式部

暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥に照せ山のはの月

大江為基あづまへまかりくだりけるに、あふぎをつかはすとて 赤染衛門

惜むともなきものゆゑにしかすがの渡ときけばただならぬかな

和泉式部は大江雅致の娘、 赤染衛門は大江匡衡の妻、 相模は大江公資の妻であって、みな大江氏つながりなのが興味深い。 大江氏は学者の家柄だから歌が詠めておかしくない。

相模は拾遺集に採られるには若すぎる。 和泉式部なら30歳くらいまでに詠んだ歌。 赤染衛門が一番年寄り。

初出はともかくとしてこれら三人を勅撰集に抜擢したのは藤原通俊に他ならない。 もしかするとすでに当時和泉式部らは有名な歌人ではあったかもしれない。 しかし、主流派とはみなされてなかった。どちらかと言えば色物扱いだったのだろうと思うよ。 通俊と大江氏になにかつながりがあるのだろうか。 まったくわからない。

難後拾遺を読んでみたいが、どうやら群書類従に写本しかないらしい。 まあ、読めないな。 もっと修行を積まないと。

和泉式部、相模、赤染衛門 はコメントを受け付けていません。