[はつきりした形をとる為めに](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3749_27331.html)。
これもまた短くてわかりやすい文章である。
> 私の頭の中に何か混沌たるものがあつて、それがはつきりした形をとりたがるのです。さうしてそれは又、はつきりした形をとる事それ自身の中に目的を持つてゐるのです。だからその何か混沌たるものが一度頭の中に発生したら、勢いやでも書かざるを得ません。さうするとまあ、体のいい恐迫観念に襲はれたやうなものです。
これは私にはよくわかる。
何か頭の中にたまったよくわからないものに形を与えたいので書く。
それは一種の強迫観念とも言える。
旧約聖書のヨナのような預言者や、イスラムの始祖モハメッドが啓示を語るような強迫観念、という意味だろうと思う。
> あなたがもう一歩進めて、その渾沌たるものとは何なんだと質問するなら、又私は窮さなければなりません。思想とも情緒ともつかない。――やつぱりまあ渾沌たるものだからです。唯その特色は、それがはつきりした形をとる迄は、それ自身になり切らないと云ふ点でせう。でせうではない。正にさうです。この点だけは外の精神活動に見られません。だから(少し横道にはいれば)私は、芸術が表現だと云ふ事はほんたうだと思つてゐます。
まあ、だから、芥川が表現と言っているのは、おそらく宗教的な言葉を借りれば、
預言とか啓示とか召命とか神のお告げとかいうものだろうと思う。
それをまあ、小説はストーリーが大事だとかいや表現のほうが大事などというから話が噛み合わない。
それはたぶん脳の中の現象であり、
一部の人の脳の中にはそういうものが沸いてくる。
いや、もしかすると子供の頃にはみんな沸いているのかもしれないが、
脳がキャリブレーションされて大人になると沸かなくなる。
大人になっても沸いてくるひとはたいていは変人奇人と見なされる。
だがさらにほんの一部の人はその沸いてくるものが理性とか創作というものと結びついて、
作品となるのではなかろうか。
ややこしいのは、この「表現」という言葉を、世の中のいわゆるアーティストと呼ばれる人たちは、
もっと違う意味に使っていることが多い、ということだ。
特に「内容」より「表現」を重視する人にその傾向が強い。
それは「コミュニケーション」とか「相互理解」とか「自己実現」とかよくわからない言葉で言い換えられることがある。
他人がいて、自分がいて、その間に何かが存在するらしいのだが、
それと芥川の主張とは全く異なるものだと思う。
もちろん表現は他者がいなくては成立しないのだが、
芥川にとっては他者とは今偶々目の前を通りかかった人ではない。
[後世](http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/33202_12224.html)
に書いているように、
> 時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆いに埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚しみの餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし―― 私はしかしと思ふ。しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。
芥川にとっての読者とはこのようなものだろう。
今世の中に満ちあふれている普通の小説の普通の読者ではなく、
いつの時代でもよいから、自分を真に理解してくれる読者。
そのために小説というメディアを選んだのだ。
目の前の人のために表現したければ演劇とかそういうメディアを選べば良いと思う。