大村益次郎銅像銘文 解説

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[大村益次郎の銅像を見に行った。](http://hanaturuse.exblog.jp/19950043/)に書かれていた解説をもらいに行った。
駐車場の受付(?)ではもらえなかった。
いろいろ人に聞いてやっと受け取ることができた。
内容は同じようで微妙に違う。
原文は載せてほしかった。

あと、碑文だが、円筒状になっていて高いところにあるために非常に読みにくく、かつ、写真にとりにくい。
逆光になるとまあ普通のスマホでは写せない。
一眼レフ持ってかないとだめだわ。


> 嗚呼此故兵部大輔贈從三位大村君之像也方顙圓頤眉軒目張凛乎如生使人想其風采君諱永敏稱益次郎長門藩士性沈毅有大志夙講泰西兵法擢為兵學教授尋參藩政釐革兵制慶應二年之役守藩北境連戦皆捷戊辰中興徴為軍防事務局判事時幕府殘黨據東叡山方命君獻策討而殲之尋征奥羽平函舘君皆參其帷幄以功賜禄千五百石陞任兵部大輔大定陸海軍制之基礎明治二年在京師為兇人所戕薨年四十七

> 天皇震悼贈位賜賻後又授爵榮子孫頃者故舊相謀造立銅像以表其偉勲以余知君尤深記其概略若夫平生事業具載其郷圓山墓碑嗚呼像之與碑君之功名可共不朽

> 明治廿一年六月

> 内大臣従一位大勲位公爵 三條實美撰并書

どうでもいいっちゃいいんだが、実際に目で「函館」は「函舘」であることを確かめた。

「方命」は天子の命にさからうことと辞書にある。
孟子に「方命虐民」とあるらしい。
この「方」は「妨」もしくは「放」の意味か。

宇治谷 順

「キュレーター」は面白い。
しかし評判が悪くて連載打ち切りになったそうだ。
連載ものは最初だけうまくてあとはつまらないのが多い。
連載にこぎつけるまでは原作者も編集者も真剣なのだろうが、
いったん連載に持ち込めば惰性で続けているだけなものが非常に多い。

よく似たマンガに「ギャラリーフェイク」があるが、
「キュレーター」はそれより7年も前に出ている。
キュレーターとかキュレーションという言葉が一般化してきたのも最近のことだ。
どうもこのマンガはちょっと時代が早すぎたようだ。
こういうマンガが電子書籍で復刻されて再び読めるようになるのはすばらしいことだと思う。

同じ原作者のマンガで「弁護士TASUKE」というのがあるが、こちらも面白い。
連載ものであるのに、あまりキレが落ちずに続いているのは見事である。
しかし[原作者の facebook](https://www.facebook.com/ujijun/posts/788800747863854:0)など見るとこれもまた尻切れトンボで連載打ち切りになったらしい。
もっとつまらないマンガでずっと連載しているのもあるのに不思議なことだ。

刑事もののテレビドラマはだんだん進化していて、例えば最近は「相棒」
などが評価されるようになった。
ああいうややこしい話は昔は(少なくともテレビドラマでは)人気がなかった。
「太陽にほえろ」「西部警察」「踊る大捜査線」などの馬鹿げた話が受けていた時代とは、
ずいぶんと変わった。
「弁護士TASUKE」も今連載されていればきっと人気が出ただろうと思う。

原作者がまじめに原作を書いても時代が早すぎて世の中に受け入れられないことはあるよなあと、
この宇治谷順という人の作品を見ると思ってしまうのだ。

auブックパス

ガラケーをスマホに買い換えて約1年。
最初は出たばかりの xperia Z ultra を買ったのだが、
無茶な使い方をしていたせいでとうとう割れて使えなくなった。
それで今度は xperia z3 にした。
xperia は初代タブレットの頃から使っているが、
だんだんによくなってきて、z ultra で一線を超えた。
もはやいかなるスマホもタブレットも xperia には勝てまい。
sony の walkman が apple の ipod にやられたその反撃がやっと奏功してきたところだと言える。
ただ日本人向けには良いこの xperia も外国人にはただの高いおもちゃにすぎない。
多少経済的に余裕がある日本人にしか売れない設計になっている。
非常にもったいないが、sony には節を曲げずにこれからも頑張ってもらいたい。
でないと私が買うスマホやタブレットがなくなってしまう。
これからも sony の売り上げに貢献するためにときどきスマホを割って買い換えてあげなくちゃいけないかもしれない。

それでまあうちは諸般の事情で au 縛りなのだが、
連絡先はなんとか復旧できた。
au のバックアップと google のバックアップの二つがあって、
au の au cloud かなんかに同期がとれていたらしくて、
friends note というやつを使って最近までの連絡先がほぼ完全に復旧できた。
au id ってところで連絡先は管理できるみたいなんでこれからはも少し活用していく。

というわけで auブックパスとの付き合いはそろそろ1年になるが、
未だに読み放題を解約できずにいるのはそれなりに活用しているからだ。
最初は手塚治虫の作品があれもこれも読み放題なので、それだけで満足していたのだが、
だんだん飽きてきた。全作品が読めるのではない。
私の知る限りでも「海のトリトン」が無い。
kindle版はあるのでそちらを買うことにしたのだが。

手塚治虫は短編に良いものが多く、
連載ものはあまりぱっとしない。
トリトンは例外的にやや長いけども面白いと思う。

歌学概論

源俊頼とか六条清輔とか藤原定家とか後鳥羽院とか本居宣長とか香川景樹とか萩原朔太郎とか正岡子規とか丸谷才一とかいろんな人の歌論を読んでいるのだが、
こんな風に中世から現代までの和歌を論じたもの、
和歌概論とでもいうか、
そういうものを書いたり研究したりした人はいるのだろうか。
もちろん戦前にはいた。
佐佐木信綱とか。
萩原朔太郎も優れた「研究者」だった。
正岡子規はたぶんあまり和歌のことはわかってない。

現代でも、たとえば京極派の研究では岩佐美代子が傑出している。
藤原公任や源俊頼、六条清輔あたりを重点的に研究している人はいる。
テーマを絞れば優れた研究はいくらでもあるが、通史というか概論というのがどうもない。
いや、あると言えばある。万葉集があり、古今集があり、新古今があって、応仁の乱で勅撰集は断絶したとか。
百人一首があって、近代短歌や現代短歌がある、というような概論ならある。
私が言いたいのはそういうことではない。
わかりやすい対立軸で言えば香川景樹の歌論に対して正岡子規はどのように反駁し、
その両者の意見のどちらがどんな風に優れているかどうか、などという議論。
賀茂真淵や田安宗武の歌論に対して丸谷才一がいろいろ批判しているが、それはどうなのかとか。
本居宣長と上田秋成の論争は有名なので良く研究されているようだ。
そういうわかりやすいものもあるが、歌論の比較というのはそういう明確に論争になったものばかりではない。
たとえば本居宣長の歌論について小林秀雄はどうしたこうしたとか。

おそらく今の世の中そんな議論はまったくなされていない。
丸谷才一は孤独だっただろうと思う。
論争する相手が過去にしかいなかったから。

じゃあ自分が書けば良いのだろうか、たとえば「歌学概論」というような本を(笑)
理系の人が間違って買ってしまいそうだな。

古きを慕う

和歌は外来語や漢語に対して排他的であるというが、
実は大和言葉自体に対しても同様だ。
はるさめ、とは言うが、あきさめ、こさめ、きりさめ、などは和歌には使われない。
これらの語が俳句や都々逸に使われるのはまったく問題ないことだ。
なつさめ、ふゆさめなどはそもそもそういう言葉がない。
そのかわり、さみだれ、しぐれなどという言葉がある。
なぜそうなっているかと言っても理由はないのだ。

法律が判例の積み重ねでできているように、
和歌は誰かが急に新しい言葉を作ってもしっくりこない。
和歌が古きを慕うというのは法律の判例主義と同じで、
何百年もかけて少しずつ変わっていくのは良いが、
急激に変えてはいけないといっているのである。
古いものを墨守していても死んでしまう。
その加減が難しい。

明治の人たちはしかし新語や造語をやたらと作った。
和歌にもそれを強要した。破壊的、革命的な変化が許されると信じた。
信じなければ明治維新なんてやってられなかっただろう。
根拠として万葉時代の歌が持ち出された。
万葉の歌は前例主義から自由だったと言いたいのだ。

さみだれをなつさめとかゆふだちと言い換え、しぐれをふゆさめと言い換えることに抵抗がない人はそうすれば良い。
俳句や現代短歌がどうなろうと私は知ったことではない。
私は千年前と互換性のある歌が詠みたい。
いや、違うな、ある時代にしか通用しないような価値観にはしばられたくない、というべきか。
だから私は自分では和歌しか詠まないし、
自分の歌は和歌としか言わない。

後鳥羽院初学の歌

> この頃は 花ももみぢも 枝になし しばしな消えそ 松の白雪

後鳥羽院御製。正治後度百首(1200年末)。新古今。
後鳥羽院の 1200年より前の歌というものは残っていない。
当時満20歳。
和歌の習い立てに定家の

> 見渡せば 花ももみぢも なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ

> 駒とめて 袖打ち払ふ かげもなし 佐野の渡りの 雪の夕暮れ

の影響をもろに受けたものであるのは間違いない。
後鳥羽院に定家が出詠したのも 1200年であり、それ以前に二人に交渉はない。

後鳥羽院の歌に定家の露骨な影響を見るのはしかしこれくらいであり、
後鳥羽院はおそらくまもなく定家の影響を受けることを拒み、
俊成や西行、或いは式子を志向するようになったと思う。
というのは定家の歌はあまりに癖が強いので真似るとすぐにばれるからである。
それでも上の二つの定家の歌の模倣者は多かった。
そういう意味では後鳥羽院はわりとまともな精神の持ち主だったと思う。

胃がもたれる

脂っこい外食で胃がもたれる。
自宅でインスタントラーメンとか食べても平気だが、
外食のラーメン屋はアウト。
年を取ったものだなあ。

炭水化物中心にストレスない程度に食べた方がよい。
我慢して食べないとたしかに痩せるのだが、血液検査結果がどんどん悪くなる。
とくにコレステロール値。
痩せてもコレステロール値は逆に上がるのが怖すぎる。

肉自体はなんということもない。
魚も問題なし。

20代、30代はよかった。
40代もまだ新しいことに挑戦することに意味があり得た。
小説を書き始めたのも40代だった。
しかし、保守以外何もしないのが一番楽で効率的なのが50代。
恐ろしい。

地方都市を旅行しても、海外旅行しても、たぶんこれくらい楽しくてこれくらい退屈するだろう、
ってことがだいたいわかってしまう。
中央線沿線を飲み歩けばこのくらい楽しくてこれくらい疲れるだろう、ってこともわかってしまう。
若手を育てたいとかなんか組織を作ったり貢献したいと思ったこともあったが、何の意味もないことを悟った。
CGは嫌いじゃない。
だけど切りが無い。
これくらい作り込めばこれくらい良いものができる、そして自分の才能ならばここまで行くにはこれくらいの努力が必要だということもわかる。
その努力と引き替えに失われる自由な時間がもったいない。
というか、別に自由な時間が欲しいわけではない。
やってる最中に、これは死んだ後まで残る仕事じゃない、と思うとそれ以上やる気がうせる。

50歳までに特に未練がないくらいに人生を楽しんだ、ということにしておくか。

紙の本だが、あっさりと初校ゲラに行くらしい。
単著でしかも自分の和歌が載った本を出すのは初めてなので、
かなりぎりぎりまで自分を追い詰めた。
自分なりに良い本だとは思うが、ものがものだけに、大して売れない可能性が高い。
期待して売れなかったときにがっかりするのが怖い。
定家、後鳥羽院、式子内親王、その他もろもろ新しい知見(笑)をぎゅうぎゅうに詰め込んで300枚弱。
500枚は軽く書いた。1000枚行ってたかもしれんが、それをどんどん削って300枚弱にしたのだ。
多少は反響がなくては困る。

4月30日が50歳の誕生日。
それまでには出るはずだ。
40代最後の記念になるわな。
今も学術書はほとんどが紙の本だ。
いきなり電子媒体では流通しない。
図書館にも置かれない。
図書館においてもらい、定家を調べたくなった人が手にとってくれると良い。
まともかく和歌の本などそれほど売れるものではない。

藤原氏の勉強2

いわゆる大化の改新とか乙巳の変というのは蘇我氏のお家騒動に過ぎないように思える。
主家は滅んだが、蘇我一族が滅んだわけではなく、皇族が力を付けたかというとそういうわけでもなく、
藤原氏の台頭はもう少し後だ。

大化の改新が天智天皇と中臣鎌足によるとしたのは藤原不比等に違いないのだが、
すでに舎人親王によって完成していた日本書紀を不比等や光明皇后らが改変したとすれば足りるのである。
藤原氏は単に文武と聖武の外戚となったが故に権力を手に入れたにすぎない。
皇族や他の氏族のように日本という国を建てて、あるいは国を治めることで権力者になったわけでもない。
白村江の敗北によって日本が中央集権的な律令国家を指向し、それが奈良朝の聖武天皇の治世として結実したわけだが、
そのことにも藤原氏はほとんど関係してない。
天皇家や蘇我氏、その他の有力な氏姓が九州や中国地方から次第に近畿に移ってきたのに対して、
藤原氏は単なる山科土着の豪族で、皇室に絡みついて利を得た存在にすぎない。
というのではあまりにも後ろめたいので、
大化の改新というものの主役になることにしたのだろう。

高倉院御製

新古今に見える高倉院御製四首。

275 瞿麦露滋といふことを

> 白露の 玉もて結へる ませのうちに 光さへ添ふ 常夏の花

「瞿麦」はエゾカワラナデシコ。
「ませ」は「まがき」のこと。

524 紅葉透霧といふことを

> 薄霧の たちまふ山の もみぢ葉は さやかならねど それと見えける

668 上のをのこども暁望山雪といへる心をつかうまつりけるに

> 音羽山 さやかにみする 白雪を 明けぬとつぐる 鳥のこゑかな

1146 題知らず

> つれもなき 人の心は うつせみの むなしきこひに 身をやかへてむ

1163 題知らず

> 今朝よりは いとどおもひを たきまして なげきこりつむ 逢ふ坂の山

まあ、普通だ罠。