小林秀雄問題

文科省が読解力を問う国語入試を導入しようとしていて、たとえばこれまでは、小林秀雄の悪文を一部切り取ってきて、そのどうしようもなく論理的に破綻した文章を読ませておいて、その設問に対して間違いから一番遠いものを選べとか、最もあり得なさそうなものを選べとか、そういう馬鹿げた問題だった。ただしこのような問題は官僚や弁護士の事務処理能力を問う問題としてはある程度有効だっただろう。法律の条文と照らして正しいのかただしくないのか。多くの場合正しいと一意には決まらないから、もっとも正しそうなものを選ぶ、より正しく無さそうなものをより分けるという作業が必要になる。実にくだらない。おかげでくだらない文系人間を大量生産することになった。

漢文の問題もひどかった。どれが正しい読み下しかを問う問題があって、明らかに間違っているものもあるが、間違いとは言えないものが複数あり、素直に考えれば正解と思われるものは間違いであり、間違いとは言い切れないものが正解であったりする。その根拠というのは、作問中の他の部分の読み下し方に統一するならば、そのように読み下さなければならないから、だというのだ。漢文の基礎をきっちり学んできた者がひっかかり、漢文についてろくに知らなくても、設問の全体の雰囲気で一番確からしそうなものを選ぶ猿知恵に長けた者が得をする。まさにセンター試験的悪問。これでは、整合性のある読み下しをすることが漢文教育にとって重要だということになってしまう。まったく馬鹿げている。

こんな問題をずっと作り続けて、よくこれまで訴訟にならなかったものだ。

新しい問題は、複数の異なる資料(図、パンフレット、討議など)の組み合わせを提示して、そこから何らかの意見を記述させるという手の込んだものであって、「小林秀雄問題」とは対極にある。いわば企画立案タイプの出題だ。

せいぜいラノベとかBLとか村上春樹くらいしか売れないこの嫌な時代を矯正してもらいたいものだ。

国連の方から来た人

あの、特別報告者の言っていることは、法律家だけあって、自分が国連から委任された範囲ぎりぎりで、ごく当たり前のことを言っている。

共謀罪にプライバシーを侵害するおそれがあることなど、誰にでもわかることだ。テロの捜査がプライバシーを侵害するのはむしろ当たり前ではないか。プライバシーを侵害せずにテロを捜査できるとでもいうのか。アメリカだろうとどこの国でもやっていることだ。
プライバシーを犠牲にしてでもテロを防ごうという趣旨で法律を作ってるわけではないのか。

だからこそこれは巧妙な嫌がらせなのであって、菅官房長官も外務省も怒っているのだ。
怒らずほっとけばよかったのだ。まあ相手にするなら「プライバシーを侵害する可能性がまったく無いわけではないが、総合的に判断して必要で妥当だ」とか適当に答えておけばよかった。

たった一人の「国連のほうから来た人」の書簡が、法案採決の前日に来てマスメディアがここぞとばかりに取り上げる。当然、野党が特別報告者とやらに煽らせているのだ。やいやい騒いでいる政党やメディアの顔ぶれを見れば瞭然だ。国連という肩書きを使った嫌がらせ以外のなにものでもない。国連を政争の具にするのは賢明ではないと思うが。

オリンピックのせいで法案成立を急いでるんだろ。オリンピックなんてやらなきゃいいんだよ。国連とかオリンピックとかそんなものに振り回されなきゃいいだけのことだ。

血糖値を上げないために一度にまとめ食いするのでなく細かく分けて食べると太りにくいなどというが、同じことはアルコールにもいえるのではなかろうか。

3%くらいの濃度の酒を飲んでいれば酩酊したり、二日酔いになったりしない。つまり、肝臓が分解する速度に合わせて酒を飲めば良いということだ。

逆に、急激に血中アルコール濃度が高まると、そこでいろんな障害が発生して、そのダメージは次の日にまで残る。

酒は慌てずゆっくり飲まねばだめだ。

ICD作動

昨日、つけて初めてICDが作動した。

バスに乗ろうと走って、乗って、座っていたらいきなりキャッチボールを取り損ねたみたいな衝撃が左胸にあった。うわっと思わず声が出て、何かぶつかったかとあたりをキョロキョロしてしまった。たぶんICDが作動したんだと思う。

初めての経験だった。この5年間、一度も作動しなかった。ICDが作動すると気絶するとか倒れるとか言われていたのだが、私の場合全然正気だった。たぶん拍動が早くなりすぎて心室細動と間違って誤作動したのだと思う。退院して今まで一度も心室細動は記録されていない(ICDが記録している)ので、まあ今回のも心室細動ではあるまい。

四月にICD検査があるのでそのときまあどんなだったかわかる。ICDが作動したらすぐ病院に来いと言われた気もするが、どうなのか。

近親婚

縄文人のセックスを笑うな

うーん。まず、古代には近親婚は普通だったはずだ。

エジプトやペルシャの王族なんて兄弟姉妹で普通に結婚している。

古代日本でも神話なんかみるとそうだったように思われる。

生物学的に見ても、近親婚は普通だ。

でまあ、近親婚の弊害というのは、王族みたいに先祖代々近親婚を続けるような場合に起こる、つまり、家系図のような先祖の記録をもっている家系で起きるのであり、例えばハプスブルク家みたいにもうずーっといとこどうしで結婚しているような場合に起こるのであって、普通の家だと、数代遡ればもう誰が親だからわからなくなるから、血統が近くなりすぎる弊害が実際に起こるとは思えない。

フロイトなんかが考察してるけど、ハーレムを形成する場合、つまり一人の男が多数の女を独占する状況では、女子はハーレムに留まり、男子は強制的に独り立ちさせられる。それがイクソガミー(外婚制)、トーテミズムの起源だとフロイトは言っていて、もしそうだとすれば、イクソガミーはもともと近親婚を前提としているのである。

あと、縄文時代のほうが栄養状態が悪い、というのは明らかに間違った前提だ。縄文人のほうが体格も良いし身長も高い。農業に頼らず、狩猟で肉食メインだった証拠だ。だから、女子は初潮がきたらすぐにセックスして妊娠し子供を産んだはずだ。

空調うるさい

通勤というものがいやで、特にラッシュ時の通勤が嫌でたまらない。ラッシュ時に通勤しないですむように、また通勤回数を減らすために、もう少し頻繁に職場に泊まろうと考えている。

ところで職場に泊まるときにときどき配管が異様にうるさい。天井板がはまってなくて配管が剥きだしなのだが、施設の人に苦情をいったら、それは熱交換器というものであるという。

この熱交換器というもの、暖房のときと冷房のときで熱媒体(冷房のときは冷媒)を交換するのだという。熱媒体を暖房のときと冷房のときで別の液体に交換することによって節電になるというわけらしい。その熱媒体を交換するときに配管で耐えがたい騒音が出る。
でまあ、いろいろ試してみると、24時間ずっと暖房を入れっぱなしにしていればこの媒体の入れ替えが発生しないので、そうとう快適になることがわかった。廊下で盛んに音がしているときも、居室の中は音がしない。でも、暖房を切るとまたなりだすわけです。

なんでそれがわかったかといえば、今日は一日中寒かったので一日中暖房を入れていたら、一度も熱交換器が騒音を出さなかったからなんですよね。なので居室にいるときは24時間ずっと暖房を入れることにします。

まあ、いわゆる室内機のファンの音も、比較的にうるさくないとはいえるが、うるさいっちゃうるさいので、寝るときは切りたいのだが、それもできない。

それにしても、誰もいなくて、空調を使ってないときにも、この媒体の入れ替えというのは発生しているらしいんだが、こいつ「アホなのか?」と思ってしまう。ほんとに節電になっているのだろすか。思うのだが、もしかすると、運転切り替えではなくて、室温の高い低いによって、「自動的」に媒体を入れ替えているのではなかろうか。だから室温が高くなりすぎると、冷房用の媒体に切り替えるとか、室温が低くなりすぎると、暖房用の媒体に切り替えるとか、そんなあほなことをやっているのではないのか。夏はずっと冷房の媒体を入れ、冬はずっと暖房の媒体をいれておけばよいではないか。そのくらい集中管理でできないのか?それとももしかすると、すでに暖房の媒体が入っているのに、暖房を切ったり入れたりするたびに媒体を入れ直そうとしているのだろうか。そんな馬鹿じゃないと信じたいが。

世の中いろいろ要らないものが多すぎる。特に電力系。ガスはそんなうるさいやつはない気がするのだが。やっぱ電気じゃなくてガスを使いたいが、もう年寄りなのでガスは怖い。将来的にはキッチン周りは電化すると思う。でも風呂と暖房はガスで良い気がします。エコキュートとか深夜電力とか嫌い。

水尾の里と小野の里

清和天皇と惟喬親王の扱われ方というのは良く似ている。二人は文徳天皇の皇子で、異母兄弟なのだが、二人ともほぼ同じころに宮廷を追いだされて、山の中に幽閉された。惟喬親王は貞観14年(872年)、京都の東、比叡山中の小野の里に。清和天皇は元慶3年(879年)5月、京都の西、嵯峨野の山中・水尾の里に。まあ要するに、藤原基経高子兄妹によって、傀儡陽成天皇を立てて、要らなくなったから追放されたのだ。

ひどい話だなと思っていた。

でもまあよくよく考えるに、惟喬親王も清和天皇も生活も経済力も外戚に丸抱えされていたわけである。天皇や親王が個人所有している資産というものが、この時代にはなかった。飛鳥・奈良時代にはあったんだろうが、律令国家というものを作って、官僚組織を作って、中央独裁にした結果、天皇個人の財産と国家の財産というものの区別がなくなり、国家から切り離された天皇個人の財産というものがなくなった。桓武天皇とか嵯峨天皇のころにそうなっちゃった。

それで日本では、通い婚、婿取り婚の伝統があるから、本卦還りしてしまって、天皇は嫁さんの実家の経済力に頼らざるを得なくなった。摂関政治の本質はそこだよな。

摂家の陰謀で、清和天皇と惟喬親王は追放された、というよりは、二人とも隠居後の資産なんて何ももってなかったから、京都近郊の山の中を開拓して、水尾の里と小野の里というものを作って、そこに住民も移住させて、死ぬまで生きていけるようにした。ようは老後のための年金として水尾の里と小野の里が与えられたのだろう。今も山の中に老人ホーム作ったりしてるがあれと同じ。そんなふうに思えてきた。別に幽閉されたというわけではなかったようだ。京都近郊をうろうろしてた。

惟喬親王は宮中を追いだされて25年後に54才で死んだ。まあまあ長生きしたほうだ。

清和天皇は貞観18年(876年)突然譲位。まあ、失脚したんだわな。そして3年後、出家して水尾に入り、翌年あっという間に、30才で死んでしまった。よっぽど嫁さんに嫌われてたみたい。あんまり指摘されることはないのだが、清和天皇ってかわいそうなひとだったんだなってことに新井白石は気付いていた。たぶん。

で、似たような状況が後三条天皇までは続いた。だから、花山院みたいな悲惨な上皇もいた。皇太子や天皇の間はちやほやされるが上皇になったらもう見捨てられちゃうみたいな(時代は違うが後鳥羽院にもなんとなくそのけがある)。白河天皇は、その反省から、天皇家が自分で資産を持つようにしたわけよね。そうして、外戚の資産に頼らなくて済むようにした。それがまあ白河院が目指した院政というものだわな。

日本人が知らない村上春樹

何が言いたいのかさっぱりわからない本だ。ましかし、少しだけ面白い箇所もあるから引用してみる。日本在住のスイス人の作家が書いた文章。

複雑だったり、抽象的だったりする。新たな文体の冒険も随所に見られる。しかし本質的にはやはりなじみやすいし、感情移入しやすいし。全編でないにせよ、また錯覚と分かっても、誰にでもある程度まねできる日本語だという感覚を抱かせる。

アメリカ文学の影響をうけた村上の文体を翻訳調と見る人もいるらしい。しかし、25年ほど日本の小説を読みあさってきた僕はそう感じない。

彼の日本語が僕にとって理解しやすいのは決して翻訳調だからではない。翻訳調なら、文体の不自然さのためきっとかすかな混乱と違和感を覚えるだろう。・・・あくまで彼の日本語は、僕が昔から慣れ親しんできた芳しい日本文学の中にあり、唯一無二の旋律を奏でている。例えば今回の作品で言えば、こんな表現だ。

「吹く風の感触や、流れる水音や、雲間から差す光の気配や、季節の花の色合いも、以前とは違ったものとして感じられる」

平明な文体は決して平板な文体ではない。綿密に言葉を選び、その並べ方に工夫を凝らす村上は、平淡な文章から極めて洗練された言い回しまで、実に色彩豊かな日本語の世界を僕らに提示してくれる。

彼の小説世界は、誰にとっても分かりやすいものでは決してない。しかし心地よい音声の中を旅する読者は、それを読み解きたいとさらにページをめくる。

そうなのよね。わかりにくいのだが、なじみやすい、自分にも真似できると錯覚させる文体。もっといえば、何か難解な文学を理解したような気分にさせてくれる文体。それは錯覚に過ぎないのだけど、そう読者に思わせることは著者にとって大きなメリットになる。翻訳調というのは確かに一つの風味付けにすぎない。上に引用された言い回しもまた、ごく普通の少女漫画にでてきてもおかしくない。そこがまあ、グリム童話の、魔女が建てたお菓子の家のようなものだと言えなくもない。

次は別の人の文章

ニューヨーク・タイムズの書評家であるジャネット・マズリンが、「1Q84」を「あきれた作品」と酷評した。自ら提示した問題への答えを示しておらず、登場人物の乳房のことばかり書くなどおかしな部分がある

そう。私にもそんなふうに思えるし、逆に、そんなふうなおかしな文章が好きな人が村上春樹を読むのだろう、としか言いようがない。へんなたとえかもしれないが、PPAP は実にくだらないどうでも良い動画だが、世界中の多くの人が視聴した。村上春樹もそんなものなのではないか?

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅰ)

少女漫画のように読みやすいということ、食べ物・音楽・ファッションなど衣食住に関する描写が心地よく感じられること、それからさらに何か得体の知れない薄気味の悪さがある

少女漫画のように読みやすい、というのは、そうかもしれないなと思う。何も難しいことは書いてなく、書いてあってもそれは表面をなぞるだけで中に入っていくわけではない。ただのBGM。たとえば、村上春樹には、第一次大戦と第二次大戦に挟まれたチェコスロバキアの人民が幸せであったかどうかなんてことを深く追求するつもりはないのだ。村上春樹にとってハプスブルク家は中世以来の圧政的・絶対王政的な封建領主であり、ヒトラーは独裁者なのだ。だからその両者から自由であったチェコスロバキアは自由だったはずだ、と言っているだけのことであり、実際に自由だったかどうかを考証するつもりもない。単に世界史的にはそのように教科書に記述されている、それで充分なのだ。ヤナーチェクの音楽がどうだということを語るつもりもない。単にそれらは、読みもしないのに本棚に飾られている革張りの書籍と同じだ。

そして唐突に殺人や自殺やセックスが挿入されるのはまさに少女漫画的展開であり、テレビドラマ的でもある。軽薄すぎる、とさえ言える(私は冒頭いきなり人が死ぬ話が好きになれない。多くのミステリーがそうだが。いきなり事件が起きて、謎解きするだけ。1Q84もある意味そうだ。殺意もとってつけたような場合が多い。殺意は単に、推理に必要とされるヒント、加害者と被害者の関係性としてだけ利用されている。そんなただのパズルみたいな話はいやだ)。

居心地がいいけれど、厨房の奥に底知れない闇があるような、そんな喫茶店

グリムの「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるお菓子の家

人さらいのいるサーカス小屋

着飾った女性たちのいる遊郭

そう、村上春樹は読者に魔法をかけてやろうと待ち構えている。そんな「薄気味の悪さ」は確かに村上春樹の作品の特徴だろうと思う。そうして、そこにやらせを感じて、読むのをやめてしまう人もいるはずだ。私はどちらかと言えばそっちだ。魔法をかけてもらおうとよろこんで身を委ねる人もいるだろう。彼の読者はおそらくこちらのタイプだ。

この小説は本当に恋愛小説といえるのだろうか? 本当に恋愛小説として読まれているのだろうか? 精神病者の観察記録やポルノグラフィーとして読まれている可能性はないのだろうか?

何をもって恋愛小説というかだが、たとえば、氷室冴子の小説が恋愛小説だとすると村上春樹は全然違うと思う。志賀直哉や吉行淳之介や安岡章太郎なんかとは全然違う。谷崎潤一郎とか田山花袋とも違う。どちらかといえば、三島由紀夫や川端康成のそらぞらしさに近いものがあるかもしれない(ちなみに私が書くものは比較的志賀直哉や吉行淳之介に近い、と本人は考えている)。ちなみに宮崎駿の作品には恋愛ものはない。若い男女の非日常があるだけだ。

作者とワタナベ君のみ息が合っていて、女性ばかりが蚊帳の外という感じなのだ。恋愛小説で、作中人物が如何に鈍感であろうとも、作者が鈍感であることは許されない。そのような滑稽さ、苛立たしさを感じるのはわたしだけだろうか。

そう。村上春樹は実はほんとは恋愛なんかしたことないんじゃないかと思いさえする。

村上春樹『ノルウェイの森』の薄気味の悪さ(Ⅱ)

村上春樹という男は、触ったもの全てに自分の臭いをこすりつける性癖がある。作品の中で、ある世界観を物語るためだけに一面的に引用されたこれらは、食い散らされて、本来の持ち味を、意味合いを、香りを、輝きを失わざるをえない。何という惨憺たる光景であることか!

そう。1Q84のヤナーチェクもまさにそう。別に何の必然性もない。

いきなりファンタジー

思うに、エヴァはいきなり使徒が襲来して、進撃の巨人ではある日いきなり巨人が人間を食べ始める。あるいは、目が覚めたら見ず知らずの他人と密室の中にいたとか。

ゼビウスも、あれは売れたからあとからノベライズしただけで最初からプロットがあったわけではあるまい。最初からあったか後付けかはともかくそういうものを世界観と言うらしい。ゲームという分野の中でそれをやったのはゼビウスが最初だろう。だから、ゲーム以外の分野にも適用範囲を拡げて、ゼビウス方式とでも名付けると良いかもしれない。とりあえずなんか食いつきの良い作品を作ってヒットさせる。ヒットしてからディテイルや続編や関連グッズや世界観なんかを作る。

初代のガンダムは最初からきちんとプロットが出来ていた。人類の歴史の必然の上で戦争が起きて中立国のサイド7にも飛び火したという設定になっている。しかし主人公のアムロは第一話でいきなり戦闘が始まりいきなりモビルスーツに乗ることになる。周りの状況はともかくとして、主人公はいきなり未知の世界に投げ込まれるのである。

やはりプロローグというものはある程度、いきなり読者を、視聴者を作品の世界の中に投げ込まなくてはならないから、突然イベントが発生して、そのイベントがどうなるか、なぜ起きたのか、興味を持たせるためにある程度未知のままにしておかねばならない。

だが凡百の作品はそこまでお膳立てをしているのではない。めんどくさいからいきなり架空の世界に転生したことにする。つまりはご都合主義で済ませる。

或いはストーリーを考えたり記述するのがめんどくさいので、世界観だけ一生懸命に凝る。世界観という言葉が生まれたのはストーリーと世界観が分離した証拠であり、それは作者や読者がストーリーか世界観のどちらかにより関心を持つようになり、もういっぽうをめんどくさがるようになった、ないがしろにするようになったからである。

カフカの変身などがいきなり転生ものの古典と言っても良いかもしれないが、あれはまあ、当時いきなり転生するってことがすごく珍しいストーリーとして成立し得たってことと、世の中がいきなり様変わりすることが現実世界でも起きてたからそのメタファーでもあったのだろう。今の世の中はどちらかといえば現実がいきなり変わることなど期待できず、現実から逃避したいから転生するわけである。現実というややこしくめんどくさいものと格闘するのがいやだからファンタジーに逃げる。その「現実めんどくせえな」という匂いがしただけで私はそれを読むのがいやになる。いやになるというか、作者の勝手な妄想世界に付き合わされるのは時間の無駄だという気になる。

実際ストーリーと世界観にまるごとくいついて全体を咀嚼し消化するのはけっこうな労力だ。だからパーツに切り分けて鑑賞する。そういう流れが生まれてもしかたない。例えば太田道灌というたった一人の人を知るにも南北朝を知り、室町、戦国を知り、鎌倉や川越や江戸城を知らなくてはならない。道灌が落とした数十の関東の古城と敵将を知らねばならない。その上、和歌も知らねばならない。たぶんほとんどの人は疲労困憊すると思う。だからこそ私には太田道灌が書くに値する魅力的なキャラに見えるが、読者にわからせるのはほぼ諦めている、と言っても良い。

私の場合、実在の世界に完全に埋没したストーリーを書くから世界観というのは現実そのもの、歴史そのものであるけれど、しかし私が書く歴史小説は私が発見した、あるいは再発見した歴史を書くのだから、私の考えた世界観と言えなくもない。ハルパロスやアルトニスやエウドキアなどは実在のキャラではあるが、まだ誰も書いてないから手垢がついてない、私が創ったキャラだということになる。ほんとはエウメネスもそのはずだったのだが、漫画がすでにあったし、そもそもプルタルコスでは英雄として描かれていたのだった。

富野由悠季は現実から逃避したいからではなくて現実そのものを、自分の歴史観と世界観で描きたいのだが、現実そのものを子供向けロボットアニメで描いてはシャレにならないので仕方なく虚構を使ったのである。だからああいう作品になった。