思うに、エヴァはいきなり使徒が襲来して、進撃の巨人ではある日いきなり巨人が人間を食べ始める。あるいは、目が覚めたら見ず知らずの他人と密室の中にいたとか。
ゼビウスも、あれは売れたからあとからノベライズしただけで最初からプロットがあったわけではあるまい。最初からあったか後付けかはともかくそういうものを世界観と言うらしい。ゲームという分野の中でそれをやったのはゼビウスが最初だろう。だから、ゲーム以外の分野にも適用範囲を拡げて、ゼビウス方式とでも名付けると良いかもしれない。とりあえずなんか食いつきの良い作品を作ってヒットさせる。ヒットしてからディテイルや続編や関連グッズや世界観なんかを作る。
初代のガンダムは最初からきちんとプロットが出来ていた。人類の歴史の必然の上で戦争が起きて中立国のサイド7にも飛び火したという設定になっている。しかし主人公のアムロは第一話でいきなり戦闘が始まりいきなりモビルスーツに乗ることになる。周りの状況はともかくとして、主人公はいきなり未知の世界に投げ込まれるのである。
やはりプロローグというものはある程度、いきなり読者を、視聴者を作品の世界の中に投げ込まなくてはならないから、突然イベントが発生して、そのイベントがどうなるか、なぜ起きたのか、興味を持たせるためにある程度未知のままにしておかねばならない。
だが凡百の作品はそこまでお膳立てをしているのではない。めんどくさいからいきなり架空の世界に転生したことにする。つまりはご都合主義で済ませる。
或いはストーリーを考えたり記述するのがめんどくさいので、世界観だけ一生懸命に凝る。世界観という言葉が生まれたのはストーリーと世界観が分離した証拠であり、それは作者や読者がストーリーか世界観のどちらかにより関心を持つようになり、もういっぽうをめんどくさがるようになった、ないがしろにするようになったからである。
カフカの変身などがいきなり転生ものの古典と言っても良いかもしれないが、あれはまあ、当時いきなり転生するってことがすごく珍しいストーリーとして成立し得たってことと、世の中がいきなり様変わりすることが現実世界でも起きてたからそのメタファーでもあったのだろう。今の世の中はどちらかといえば現実がいきなり変わることなど期待できず、現実から逃避したいから転生するわけである。現実というややこしくめんどくさいものと格闘するのがいやだからファンタジーに逃げる。その「現実めんどくせえな」という匂いがしただけで私はそれを読むのがいやになる。いやになるというか、作者の勝手な妄想世界に付き合わされるのは時間の無駄だという気になる。
実際ストーリーと世界観にまるごとくいついて全体を咀嚼し消化するのはけっこうな労力だ。だからパーツに切り分けて鑑賞する。そういう流れが生まれてもしかたない。例えば太田道灌というたった一人の人を知るにも南北朝を知り、室町、戦国を知り、鎌倉や川越や江戸城を知らなくてはならない。道灌が落とした数十の関東の古城と敵将を知らねばならない。その上、和歌も知らねばならない。たぶんほとんどの人は疲労困憊すると思う。だからこそ私には太田道灌が書くに値する魅力的なキャラに見えるが、読者にわからせるのはほぼ諦めている、と言っても良い。
私の場合、実在の世界に完全に埋没したストーリーを書くから世界観というのは現実そのもの、歴史そのものであるけれど、しかし私が書く歴史小説は私が発見した、あるいは再発見した歴史を書くのだから、私の考えた世界観と言えなくもない。ハルパロスやアルトニスやエウドキアなどは実在のキャラではあるが、まだ誰も書いてないから手垢がついてない、私が創ったキャラだということになる。ほんとはエウメネスもそのはずだったのだが、漫画がすでにあったし、そもそもプルタルコスでは英雄として描かれていたのだった。
富野由悠季は現実から逃避したいからではなくて現実そのものを、自分の歴史観と世界観で描きたいのだが、現実そのものを子供向けロボットアニメで描いてはシャレにならないので仕方なく虚構を使ったのである。だからああいう作品になった。