帯状疱疹

変な赤いぶつぶつが出来たので皮膚科に行ったら、帯状疱疹という病気だと診断された。子供の頃に罹った水疱瘡のウィルスが体の中に潜伏していて、加齢によって体が弱ってくると活性化するらしい。50才以上の人に多いという。6、7人に1人くらい発症するという。

不思議なことに体の片側にしかできものができない。ウィルスが神経の奥の方をおかすからだという。神経は脊髄を中心に体の外側に向かって伸びている。その途中がウィルスにやられるとその下流が皮膚まで達してできものになるらしい。食あたりでリンパがやられたのかと思ったが全然違った。寝違えみたいな腰痛が伴う。風邪引いたときのふしぶしの痛みとも似ている。

ちゃんと治療しないと神経痛が残るそうである。なるほど神経が痛むというのはこういうものなのだ。痛みが体のあちこちに移る感じだ。肌をなでるとひりひりする。必ずしも強い痛みではないが、不快だ。

酒も飲んではいけないらしい。年を取るというのはほんとに面倒だ。

百人一首というのは要するに歌を学ぶのには適してない

自分でも定家までの歌人を100人選ぼうとしているのだが、私の好みのせいもあるかもしれないが、平安時代だけだと50人も選べない。奈良時代を入れても全然足りない。素戔嗚尊からずーっと入れて70人くらいにしかならない。江戸時代まで入れれば簡単に100人になるがそれでは百人一首をまねたことにはならない気がする。

藤原公任とか源俊頼なんかはあんまり興味ないんだよね。わざわざ取り上げる必要があるのかという。当時の一流歌人だったのは間違いないんだけど。

百人選んでそれぞれ一首ずつというのは、まあ、歴史の勉強にはなるかもしれない。和歌の歴史を学ぶという意味会いはあるかもしれない。だが歌を学ぶのには不毛な作業だ。

読み人知らずの歌を採れないのもかなり痛い。

和歌を学びたければ、たとえば西行が好きなら西行の歌ばかり学べばよい。西行に飽きたら俊成とか。西行と俊成の比較とか。人に好き嫌いがあるのは自然だ。それをせずに、ただ百人並べてみるというのはおそらくはもともと歌のわからん人のやること。歌を楽しんでいるというよりは、それこそカルタのように歌人を並べて遊んでいるだけなのだ。要するに百人一首はただのカルタだというごく当たり前の結論に達する。まったく面白くもなんともない結論だ。ブロマイド集めたり、ポケモンとか妖怪ウォッチとか、そういう趣味と何の違いもない。

源頼朝と源頼政、花山院は入れたいよなあ。頼朝は完全な趣味として、花山院や頼政はなぜ百人一首から漏れねばならぬのかがわからん。どちらも藤原氏によほど恨まれてたとかではないか。

指月殿

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以前に修善寺温泉というのですでに書いたのだが、京都旅行をして気になったので少し加筆する。

伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、もし当時創建のままだとすると鎌倉初期。当然国宝になってなくてはならない。それ以前に拝観料払わないと見れないだろう。

壁は古色蒼然としているがやたらとお札が貼られている。屋根が綺麗すぎるから葺き替えだろうし、ガラス戸は当然最近付けられたものだ。もとは経堂だったというが、そのお経はみんな焼けてしまったというし、お経が焼けるくらいだから経堂も一緒に焼けたのに違いない。

伊豆最古の木造建築、というのは、もしかすると当たってるかもしれない。ちなみに今の修善寺本堂は明治時代の再建。それよか韮山反射炉のほうが古いわな。

※追記。これ、実はかなり新しいものではないか。ガラス戸が最初からついていたとすれば古くて大正、明治末期くらいだろう。伊豆最古の木造建築というのを信じるとすれば江戸末期くらいのものか。

京都

京都には十ヶ月ほど住んだことがあるのでだいたい土地勘はあるのだが、普段あまり近寄らない清水寺に出かけてみて最悪だと思った。五条から歩いて登ろうとすると歩道は狭いし車は多いし、途中で引き返した。本堂は国宝らしいが、家光の時代の再建だ。せいぜい重要文化財止まりではないのか。京都は古そうに見えて徳川の世になってから再建されたものが多い。仁和寺なんかは日露戦争より後に修復された。そういうものをいちいち国宝にしててはきりがない。清水寺が国宝なら根津神社だって国宝ではないか。

京都で平安時代から残っているものは案外少ない。法住寺の三十三間堂は古い。あれは清盛が後白河のために建ててやったものだから、正真正銘平安時代だ(※追記。火災で焼失し鎌倉時代1266年に再建されたもの)。他になんか残っているかというと思いつかない。

銀閣寺は義政の頃から残っているから、古い。確かに国宝だ。他にも竜安寺石庭など室町時代のものはいくつかあるようだ。

それはそうと、伊豆修善寺に政子が頼家のために建ててやったという指月殿というのがあるんだが、もし当時のままだとすると鎌倉初期。当然国宝になってなくてはならないのだが、あまり有名でもない。壁は古色蒼然としているが、屋根が綺麗すぎるから葺き替えかもしれん。国宝になってないということはだいぶ改築されたのではなかろうか(※追記。多分ごく最近建てられたものだろう)。

京都の話に戻ると、修学旅行生は、嵐山、映画村、龍安寺、金閣寺、大徳寺、北野天満宮、二条城、三十三間堂、銀閣寺、哲学の道、清水寺、などを回るようだ。まあそのことにいちいち文句を言う気はないのだが、京都が文化遺産になった根拠の一つとして、平安遷都以前からの由緒がある上賀茂神社をなぜ見ないのかと思う。いや、上賀茂神社に中学生や高校生がわらわら来られても困るわけだが、修学旅行生はほんとの京都を見ていないことになると思うなあ。

皇統の正統性

状況証拠的に見ると大化の改新というものはなかった、と言って良いだろう。中大兄皇子と中臣鎌足が謀り、皇位簒奪をもくろんだ蘇我氏を滅ぼしたことになっている。

皇族と蘇我氏の間で紛争があって、蘇我氏が排除され、孝徳天皇が即位した、という以上の意味はないと思う。

大化の改新は、天武天皇のもとで最初の太政官となった藤原不比等の創作であろう。私が思いついたというより、wikipediaに挙げられている説の中で、私が一番もっともらしいと思うものである。

なんと言えばよかろうか。皇族というか、天皇家というか、王家といおうか。おそらく、天武天皇までは、日本の王というのは、抜き身の武力に基づく勝者以外の何物でもなかっただろう。強い者が王となる。強い一族が王家となる。日本で一番金をもって土地をもったものが王となる。それがなんとなく天照大神の時代までさかのぼることができるが、連綿と続いてきたものなのか、いろんな断続があったものなのか、確かな記録がなくてよくわからない。ただまあ継体天皇以後はだいたい続いているらしい、ということがわかるだけだ。

藤原不比等は、皇統というものをコントロールして、自らを天皇の第一の臣下と位置づけることによって、大陸から輸入した舶来文明を模倣することによって、自分の一族を安定にすることを発明した最初の人だったはずだ。藤原氏が天皇家に対して行ってきたことは結局はそれだ。つまり、万世一系とか皇統というものは、藤原氏によって初めて創作されたのである。天皇が自らそう主張したというよりも、藤原氏が天皇家と外戚関係を結んで自分の地位を確立するために皇統というものを必要としたのである。

力が強いものが天皇になれば良いのならば外戚なんて無意味だ。皇統と外戚は同時にできた。外戚を藤原氏が独占したから他の氏族は枯死してしまった。というより、藤原氏が一族を挙げて守った皇子が皇統ということになってしまう。それ以外の皇子やそれ以外の氏族は死んでしまう。それだけ藤原氏の一族の結束は強かった。当時、政治的に結束できる一族は藤原氏以外いなかった。天皇家にも藤原氏以外の氏族にも、そんな強固な団結なんてものはまるで見られなかった。藤原氏以外の王家や氏族はみな砂のようにばらばらだった。藤原氏に匹敵する結束というものは、のちに在郷武士の間から芽生えてくる。

王家だけを他の氏族より突出させるというマジックを演出したのは藤原氏であった。天皇家はこの時代そんな器用なことはできない。とにかくやたらとたくさん妃を持ってたくさん皇子や皇女を生ませた。皇子は父親に似てみな遊び人でやはりたくさん妃をもってたくさん皇子や皇女を生ませた。まさにカオス。源氏物語の光源氏をみよ。嵯峨天皇や文徳天皇や清和天皇や陽成天皇らの皇子たちを見よ。天皇家が子孫を自分でコントロールできるようになったのは白河天皇になってから。白河天皇は皇太子以外の皇子をみんな出家させてしまう。法親王というやつ。法親王は一生独身。彼一人多少贅沢したところでたかが知れている。皇室財産は自然と本家に集約し、分家は消滅する。皇太子が誰を妃とするかもコントロールできる。つまり外戚をコントロールできる。白河院は天皇家の長老として完全に一家をコントロールする。気づいてみれば当たり前のことだ。なんだ自分でやればできるんじゃないの、ってことは白河天皇になってからで、それ以前はそんな当たり前なことすらやってなかった。

ともかく、奈良平安時代に、外戚と皇統をリンクさせて臣下として権力を握るってことを明確に意識していたのは藤原氏だけだった。天皇家すらそんなことは考えすらしなかった。だから、皇子たちは一致団結することなく、藤原氏によって各個撃破されてしまった。

天武天皇は戦争ばかりやっている人だった。嵯峨天皇はやたらと皇族を増やして分家を作った。清和天皇もかなりむちゃくちゃだ。陽成天皇までの天皇というのは、ただ日本の王様というだけであり、何か具体的に世の中を治めたり、王位継承や皇統というものをコントロールしたという形跡がない。王位継承に介入し、王位というものに権威付けをしたのはもっぱら藤原氏である。

天皇家の皇統に着目して藤原氏がその外戚となって権力をふるったのではない。藤原氏が皇統を発明したのである。その戦略は嵯峨天皇の皇統に介入した藤原冬嗣、その子の良房、その養子の基経らによって確立された。つまり摂関政治というやつだ。藤原氏は天皇家を搾取しつつ、天皇家にとって変わることはしなかった。そのかわり一族を挙げて自分らと血縁関係のある皇子を守り、それ以外の皇子を排除した。そうして実利を得た。この構図はおおよそ道長の時代まで続いた。

白河院はおそらく藤原氏を観察した結果、皇統というものを天皇家が自分で管理すれば藤原氏要らなくね?ということに皇族で初めて気がついた人だっただろう。このとき初めて自分の一家は自分で制御しなくちゃならないという意識が天皇家に生まれたのだ。つまり天皇家は皇統とはどうあるべきかということを外戚の藤原氏から学んだということになる。

それ以前の宇多上皇は白河院ほどではなかったにしろある程度その必要性には気づいていたと思う。宇多上皇は自分の皇子の醍醐天皇に確実に皇位を伝えるために生前に譲位した。平城天皇や嵯峨天皇も上皇になったのだが、そのことをわかってやったのかどうかよくわからない(皇統は決して安定せずコントロールもできてなかったから)。後三条天皇や二条天皇も、取り巻きの下級公卿と組んで藤原氏を排除し、中央集権を目指した形跡がある。この二人は名君であった可能性もあるがその治世はあまりに短すぎた。

藤原氏の次に皇統を管理しようとした臣下は北条氏だった。北条氏は三種の神器に皇位の正統性があると主張した最初である。そんなことは藤原氏は発明してない。藤原氏にとって自分たちの権力の正統性とは、先祖の中臣鎌足と天智天皇が起こした大化の改新というもの、藤原が天皇家の外戚であること、皇統は大事ですよということ、ただそれだけだ。そして藤原氏は自分たちが拠って立つところの大化の改新なるものが、まったくの虚構であることも十分承知していたはずである。

北条氏はこんどは三種の神器という虚構を創作して、仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てた。今度もまた、皇統というものをコントロールし、皇統のルール付けをしたのは臣下の北条氏であった。天皇もしくは上皇による宣旨以外に、神器の正統性というものが北条氏によって追加されたのである。当時の天皇や上皇が神器は大事だよ、なんて言うはずがない。後白河法皇は神器など無視して後鳥羽天皇を立てたではないか。だが、北条氏にしてやられた天皇は、今度は神器を逆手にとって北条氏に楯突いた。俺は神器を持ってるし譲位もしないよと言ったのは後醍醐天皇である。いや、おそらくはそのブレインであった北畠親房である。神器に権威が生まれたのは北条氏と北畠親房のせいだ。そして神皇正統記は親房のプロパガンダだ。北条氏は自分が作った虚構に縛られて滅亡した。

次に皇統のルールを書き換えようとしたのは足利尊氏である。尊氏は後醍醐天皇から没収した三種の神器の権威によって北朝第一代光厳天皇を立てる。ここまでは北条氏と同じである。北畠親房も困った。権威の源泉と自ら認めた神器をとられちゃったんだから。神皇正統記にもそのへんのことはしどろもどろ。「神器?神器にも権威はあるよ、もちろん」みたいな書き方をしている。

その後、神器は南朝に奪われ、上皇も天皇もみな南朝に連れ去られた。尊氏は、北朝第四代後光厳天皇を、神器もなく、天皇もしくは上皇による宣旨もなしに即位させたのである。廷臣に擁立されて即位した継体天皇の先例に倣う、という理屈しか付けられなかった。説得力ゼロ。いくらなんでも、継体天皇の前例持ち出されても誰も納得しない。このことが北朝にとっては致命的な痛手となる。

北朝第六代後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器と皇位を譲られる。これによって南北朝の合一はなったのであるが、北朝第四代後光厳天皇と第五代後円融天皇には皇統の正統性がない。このことは明治になって蒸し返されて、北朝ではなく南朝が正統であるとされた。北朝すべてに正統性がなかったというよりも、後光厳と後円融に正統性がなかったというべきだ。

ここで勘違いして欲しくないのは、国権というものをマネージメントしていくために皇統というものが必要とされたのであり、万世一系の皇統から国権が派生したのではないということである。国権とは日本の政治的権限の中心をどこにどういう形で定めるかということであり、そのために皇統というものが長い年月をかけてじっくりと形成されてきたのである。イングランド王の王位継承ルールが異様に複雑なのは、イングランド王国の国権がどのように継承されていくかを明確に定める必要があったからである。ルールが不確かだとすぐに国王が複数立って継承戦争がおきてしまう。血統が大切なのではない。継承戦争が起きないようにするために血統がその根拠とされたのである。欧州の継承戦争を良く学ぶと良い。南北朝の騒乱を良く学ぶと良い。そうすれば血統がなぜ重要かわかる。他にとって代わる土地相続の方法論が、当時はなかったのだ。欧州ではキリスト教というファンタジーが血縁をオーバーライドしてくれたがその実効性にも限度があった。ヨーロッパ人もそこまで信心深くもなかった。他にはもう切り札はない。

藤原氏によって王家から大臣や官僚というものが分離され、北条氏によって皇統というものが「血の通わぬ」神器というアイコンに移された。要は、天皇の歴史とは、武家の歴史とは、皇位継承というものが王族の恣意によるものから、政治権力に関わるもの全体のパワーバランスと、合議と、客観的な手続きに移行していくという、至極当然な過程なのだ。

国権に皇統なんて必要ないと言ったとたんに日本の歴史は天智天皇や天武天皇より前にさかのぼってしまう。奈良平安時代に営々と築き上げた王朝の伝統はすべてご破算になる。
強いやつが自分の都合で天皇になればいいといったとたんに継体天皇の時代まで戻ってしまう。さもなくば中国の易姓革命の思想を輸入する必要があっただろう。日本人はそのどれも採用しなかった。自らの国に続く皇統というシステムを現実に即するよう作り替え整えていくことにしたのである。

こうしてみていくと、皇統の正統性は、いつの場合も、天皇や上皇が自ら主張しているというよりは、皇室を擁立する公家や武家がルール作りをし、コントロールしようとしていることがわかるのである。藤原氏は天智天皇までさかのぼった。北条氏は天智天皇より昔の皇室伝来の神器に正統性を求めた。足利氏は仕方なくそれよりもまえの継体天皇までさかのぼって正統性を求めたが結局うまくいかなった。後からルールを追加する者ほど古い神話時代の権威を掘り起こしてこなくてはならなかった。本居宣長の国学はある意味で神話時代を掘り返した北条氏や足利氏などの武家の理論武装に利用されたのである。藤原氏にとって神話時代のことなどどうでもよかったと思う。藤原氏には天智天皇という自分たちだけの偶像がいればそれで十分だったのだ。それ以外の権威を持ち出されても藤原氏には不利なだけだ。

明治維新はさらに神武天皇や天照大神まで皇室の権威をさかのぼろうとする。別に近代人のほうがそれ以前の封建時代の人より信心深いというわけではない。新しい時代ほど、まだ手垢のついていない古い権威を必要としただけのことである。また古い権威を創作するための学問や想像力も、それ以前の時代より発達していた。

藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などは、神武天皇や天照大神がどうこうなどということは考えてもみなかっただろう。どんなものか想像すらできなかったし想像してみる必要性も感じなかった。空想力がそこまでいたらなかったはずだ。家康は自らを東照神君と呼んだ。明らかに天照大神とタメをはろうとしている。家康はまた天台宗にも凝った。かなりやばい人だが要するに宗教も神話もよくわかってはいなかったのだろうと思う。周りの人もやはりわからなかった。誰もわからないからダメだししなかっただけだと思う。

国粋主義によって国家が生まれるのではない。産業革命によって近代国家がうまれ、近代国家というのは王室を持つにせよ共和国であるにせよ、国民万能主義であるから、国民の要請によって国粋主義が生まれるのである。国粋主義は往々にして太古の昔の神話を必要とする。近代考古学によって箔付けされた神話を。ヒトラーが「アーリア人がー」と言ったのにも似ている。イタリアルネサンスもキリスト教以前の多神教を必要とした。トルコからギリシャが独立するのにもヘレニズムやそれ以前のギリシャ神話を必要とした。国粋主義者は国粋主義がどのようにして生まれてきたかをしらない。国粋主義者は国粋主義に「酔う」が故に国粋主義の本質が見えぬ。国粋主義とは何かということは覚めた目で見なくてはわからぬ。本居宣長の理論も、日本に産業革命がおき、近代国家が成立したから必要とされたのである。国学という国粋主義が発展して国民国家ができたのではない。国民国家ができたから国粋主義が必要になったのである。たぶん日本の国をありがたがっている人たちはなぜ日本という国がありがたいのかよくわかってない。天皇をありがたがってる人たちも、ほぼ誰も天皇を知らない。天皇を知るには藤原氏や北条氏や足利氏を知る必要がある。南北朝の歴史を知る必要がある。しかし日本人のほとんどは南北朝音痴なのだ。歴史はつねに緩慢に連続的に進化していく。あるとき急に完成した形で生まれるのではない。急に過渡的に突然変異したように見えても、そう見えるのにはしばしば何か見落としがあるのだ。ちゃんと調べれば連続性はあるものだ。些細で不確かなものが、次第に明確でしっかりしたものに成長していくのだ。日本はその歴史を一応独力で今日まで、地道に地道に、積み重ねてきた。しかしその長い長い過程をきちんと連続して観察し理解するのは一般人には無理だ。だから学者が要領よく整理して見せてやらねばならぬ。しかし現代の学者は通史というものが苦手であり、日本史なら日本史、世界史なら世界史。その中の特定の時代しかやらない。完全にたこつぼにはまってる。司馬遼太郎の如きは幕末維新と戦国時代しかやらない。歴史のつまみ食い。これでは歴史はわからない。

明治天皇や昭和天皇も、また敗戦当時の右翼(山本七平の言説を見よ)らもみな、いわゆる「天皇制」というものが一種のファンタジー(虚構)であることは十分承知していた。従って、人間宣言というものがあのような形で出た。その内容は極めて妥当なものだった。昭和天皇は「天皇制」にまとわる虚飾を捨て去りたかった。

朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス
(We stand by the people and We wish always to share with them in their moments of joys and sorrows)。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ (The ties between Us and Our people have always stood upon mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths)。

朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
(We expect Our people to join Us in all exertions looking to accomplishment of this great undertaking with an indomitable spirit)。

これが天皇と日本国民の間で新たに結ばれた契約であって、またしても敗戦とGHQという外圧によるものであったのは皮肉であるが、皇統のルールが更改(再認識)されて、明文化されたのだ。しかるに右翼はこの人間宣言を認めず過去のファンタジーに固執し、左翼は鬼の首を取ったように勝ち誇って「天皇制」という右翼を攻撃するための偶像を捏造しようとし、今日に至っているのである。

京町屋

豪雨の関東を脱出してなぜか京都にいた。雨も降ったが割と晴れていた。普通のホテルではなくて町屋一棟借りて住んでみたのだが、町屋というのはいわゆる一軒家ではない。棟割り長屋、つまりテラスハウスであって、長屋でないとしても、隣の建物と完全に密着して建てられているから防音というものがない。実際隣のうちの声など聞こえてくる。上下左右が他人のうちである賃貸マンションよりは少しましかもしれないが、やはり全然落ち着かない。そのうえ下水臭かったり、蚊が入ってきたりしてかなりやばい。まだ六月の初めだからよかったが夏に借りたらどうなっていたのだろう。よく見ると京都にはまだまだ町屋建築がたくさん残っているようだが、空襲がなかったおかげだろうが、いまさら私はこんなところには住みたくないなと思った。

日本建築はすばらしいとは思う。銀閣寺東求堂なんかには実際住んでみたいと思う。それは庭付き戸建てだからである。町屋は所詮賃貸長屋である。あれをわざわざ良いというのはどうかと思う。東求堂にしてもエアコンは効かないし虫は入るだろう。私の子供の頃ならともかく今は逃げ出すかもしれん。特に夏や冬。

六人、いや、下手すりゃ十人くらいはなんとか泊まれるからそういう大人数で行くのには良いかもしれん。例えば女が二階に、男が一階に、シェアハウスみたいにして泊まれば案外割安ではなかろうか。

だがまあこれからは自分は四条とか七条あたりの普通のビジネスホテルに泊まると思うわ。

左翼は良い仕事をした。

私は高校生の頃、日本史ではなくて世界史をとったのだが、それは、日本史というのは世界史が理解できないような馬鹿が取る科目だと思ったからだ。世界史もわからないのにどうして日本史がわかるのだろう。日本史というのはローカルで、閉鎖的で、つまらぬ学問だと思った。語呂合わせで年号を覚える勉強に思えた。或いは戦国オタクや幕末オタクがやる科目だと思った。三十年前は明らかにそうだったし今でもだいたい同じだ。古文や漢文は面白かったから古文II、漢文IIまで取った。古典は嫌いではなかった。しかし日本史は嫌いだった。

私が文系を馬鹿にして理系に進んだのもだいたい同じ理由であった。文系なんてどうせ大学四年在学しててろくに勉強なぞしないのだから行くだけ無駄だと、普通の感覚の人間なら思うだろう(しかし世の中は文系がマジョリティなのだから、一般社会では彼らが普通なのだろう。人間社会で馬鹿がマジョリティなのは別に驚くべきことではない)。

今から思えばだが、江戸時代の文人が到達した日本史というものはそれなりにレベルは高く、成熟したものだった。その思想は十分に明治維新に耐えた。少なくともドイツやイタリアで起きた市民革命と同レベルの水準にあった。しかし次第に陳腐化した。敗戦によってそれまでの日本史は否定された。過去の遺物ということになった。左翼につけいるすきを与えた。左翼は日本史をさんざんおもちゃにし、切り刻み、解体した。おかげで右翼の気づかない、敢えていじらないところもいじった。日本史はそれでそれなりに戦後進歩したのだが、しかし左翼思想によって明らかにおかしな方向へねじ曲げられ、粉飾された。

左翼(革新)の仕事には見るべきものもあり、右翼(保守)の一部もその意義に気付き、自分たちの理論武装に取り入れようとする動きもある。現代的な保守思想というものも生まれつつあるのを感じる。しかし多くのネトウヨを含む右翼は、未だに戦前の、場合によっては江戸時代とか神皇正統記の頃の理論を使おうとする。それでは左翼の思うつぼである。坂本龍馬を偉人だと思う連中と同じで、何の役にも立たない。それだからある程度もののわかる若者は右翼や日本史を馬鹿にして学ばないのだ。左翼はこれまでかなり敵失に助けられてきたのだ。もちろん私は左翼が大嫌いだ。三十年前から嫌いだった。私は右翼のふがいなさに悔しくて仕方なかった。右翼はなんて頼りないんだろう。馬鹿ばかりで。日教組みたいな左翼連中をのさばらせて。朝日新聞みたいなやつに勝手ほうだいなこといわせて。高校には右の教員もいたし左の教員もいた。右の教員は合気道をやっていた。精神論者だった。なんのロジックも身につけてなかった。これじゃダメだと思った。

古文Iの教員はただの粗暴な馬鹿だった。古文IIは合気道。しかし、古典文法はなぜか英文法の教師が教えていた。わりとまともな教師だった。そりゃそうだろう。英語のわからんやつに古文が教えられるわけがない。

日本史というのは私は研究するに値しない学問だと思ってきた。しかし和歌を詠み、和歌好きがこうじて小説を書くようになって、いろいろ調べるうちに、面白いところもあるなと思い始めた (何度も言うが世界史はもともと好きだった)。高校までに習う日本史というのはほとんどすべてでたらめであり、それを一つ一つ直していく作業がなかなか面白いと思い始めたのである。日本史ほどつまらぬ学問はないというのは小林秀雄も言っている通りだ。もともとつまらないのではない。誰のせいかはしらないが、あれほど面白い学問をあれほどつまらなくした何者かがいるのである。私も小林秀雄にまったく同感だ。

今の日本史は救いようがない。今のネトウヨの99%は救いようがない。だからあそこまで左翼が力を持ち得たのだ。しかし左翼の理論も今や古色蒼然としてきた。いかなる学問も日進月歩である。時代とともに理論は新しくなる。過去の理論は新しい理論によって淘汰される。自然科学だけではない。人文科学も長い目でみるとそうだ (論文誌は伝統的に紙メディアでなきゃいけないとかいうやつがいる。学問と紙媒体に何の関係がある?)。かれらもそろそろ過去の栄光にあぐらをかき、その進歩に取り残されつつある。彼らは西欧の洗練された理論を輸入して日本史を小馬鹿にした。馬鹿にされて当然でもあったが、しかし、日本史そのものは、ちゃんと調べれば、研究するに十分足る学問である。それを立証するのが、私が死ぬまでにやっておかなきゃならない仕事の一つだ。

いまの神社の神主はろくに説教もできない。ただ神話の解釈をテープレコーダのように話し、祝詞をぺらぺらっとしゃべるだけ。Wikipedia未満。それでいいと誰が決めたのだろう。神道に現代的で洗練された理論や思想が要らないと誰が決めたのだろう。また、神道理論が平田篤胤のような空理空論になってしまうのはなぜなのだ。もう少しなんとかしようよ。

道元 永平広録 巻十 偈頌

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最近このブログで山居がよく読まれているようだが、これは、tanaka0903と名乗る前から書いていたWeb日記に載せた記事で、2001年のものであるから、かなり古い。どんな人がどういう具合でこのページにたどり着くのだろうか。興味ぶかい。

最初に書いたのは釣月耕雲慕古風というものなのだが、1996年、このころからWebに日記を書いていたという人は、そうざらにはいないはずである。いわゆる日記猿人の時代だ。

あとで耕雲鉤月などを書いた。2001年と2011年。

それで久しぶりにじいさんの掛け軸を取り出して眺めてみたのだが、今見るとけっこう面白い。こうして写真に撮ってみると余計にわかりやすい。うまい字というより、面白い字だ。全体のバランスがなんか微妙。メリハリがあるというより、気負って勢い余ってる感じだよなあ。当時58才だったはずだ。装丁もかなり本格的でこれはけっこう金かかったはず。

「釣月耕雲」を画像検索するとけっこう出てくる。禅宗、というか茶道ではわりと有名な掛け軸の題材なのだろう。

でまあネットも日々便利になりつつあるので改めて検索してみるといろんなことがわかる。山居の詩は「永平広録」もしくは「永平道元和尚広録」の巻十に収録されている125首の偈頌のうちの一つだという。永平広録、読みたい。アマゾンでも売っているがかなり高い。たぶん曹洞宗系の仏教大学の図書館にでも行けば読めるのだろうが、なんともめんどくさい。

さて他にもいろいろ調べているうちに、「濟顛禪師自畫像 – 神子贊」というものがあるらしいことがわかった。済顛という禅僧の自画像につけた画賛。

遠看不是、近看不像、費盡許多功夫、畫出這般模樣。
兩隻帚眉、但能掃愁;
一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚;
未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。
睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子歸天嶺、釣月耕雲自琢磨。

適当に訳してみると、

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。
寒くてもいつも裸足。
年は取ってないのに白髪。
無頓着。
何事にも気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。
桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。
後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。

「帚眉」だが、人相の用語らしく、いろんな眉の形の一つらしい。検索してみると、図があった。能面。まだまだ知らないことがたくさんあるんだなあと思う。たぶん箒のように開いた眉毛という意味だ。「兩隻」もわかりにくい言葉で、「隻眼」と言えば片目のこと。屏風に「右隻」「左隻」「両隻」などという言葉があるようだ。いずれにしても、人相や絵などを表現するための用語で、左右一対の両方、という意味だろう。「倒騎」。これも画像検索してみるとわかるが、後ろ向きに馬やロバに乗ることを言う。

さてこの済顛、済公あるいは道済とは、1148年に生まれ、1209年に死んだ伝説的な僧で、
日本で言えば一休のような瘋癲の破戒僧であったようだ。道元が南宋に渡ったのは1223年のことなので、済顛の詩句を、自分の詩に取り入れた、ということになる。確かに「釣月耕雲」だけ人から借りてきた禅問答風なにおいがする。後は読めばわかる平易な句だ。「釣月耕雲」と「慕古風」のアンバランスな組み合わせから奇妙な抒情が生まれている、と言えるか。そこが味なのか。

済顛は肉も食い、酒も飲んだので、「釣月」とはやはり月の光の下で釣りをすることを本来は意味したかもしれない。道元が魚釣りをして食べたかどうかまではわからん。臨済にしてもそうだが、禅僧にはおかしなやつがたくさんいる。道元ももしかするとその同輩であったかもしれんよ。

ははあ。菅茶山に「宿釣月楼」という詩がある。

湖樓月淨夜無蚊

忘却山行困暑氛

宿鷺不驚人對語

跳魚有響水生紋

湖のほとりの「釣月楼」は月が浄らかで夜の蚊もいない。
山登りで暑さに苦しんだのも忘れてしまう。
棲み着いたサギは人が話しても驚かず、
魚がはねる音が響き、水紋が生じる。

なかなか良い詩だな。「氛」がわかりにくいが「雰」とだいたい同じ。「蚊」や「紋」と韻を踏むためにわざと使われているのだろう。「雰」でも韻は踏める。平仄は完璧と言って良いのではないか。さすが菅茶山。

天皇とは何かという問題

いろんな本を読んでいるのだが、なぜ武家政権は天皇家にとって代わらなかったのかとか、なぜ足利幕府は京都にあったかとか、肝心なところがわかってないと思うし、それゆえにやはり室町時代というのはぼんやりと訳がわからず、著書はあっても何がものすごくつまらないものになってしまっているようにおもう。

尊氏には二人の兄弟があった。直義、直冬である。二人とも尊氏に逆らって、別の天皇を立てようとした。尊氏自身が後醍醐天皇と代わる北朝の天皇を立てた。なぜわざわざ天皇を立てる必要があるのか。自分が日本国王になってしまえばいいじゃないか。中国や朝鮮などのようになぜ王朝交代が起きないのだろうか。なぜ信長の時代にも天皇はある程度主体的な役割を演じえたのか。さらに言えば、なぜ江戸時代ですら、天皇の権威は残ったのか。

誰も明確な答えを与えてくれないので、私は自分でこの問題をずっと考えてきた。

「治天の君」?馬鹿をいっちゃいけない。なんだそのおまじないは。

貴族社会や中世の社会では権威を求めたから?神話?「永遠の過去が持つ権威」?それも違う。そんな迷信深さによって天皇が残ったのではない。

およそ同じような政治形態を、神聖ローマ皇帝とローマ教皇、或いは東ローマ皇帝と正教会にみることができる。私が日本史と同時にヨーロッパ史の小説を書くのにはちゃんと理由がある。天皇とは何か?武士とは何か、ということを考えるのに便利だからだ。

皇帝は武力を背景に勝手に皇帝になることができる。その皇帝を皇帝Aとしよう。このとき教皇は、全然別の人間に戴冠してこちらこそ真の皇帝であると宣言することができる。
こちらの皇帝を皇帝Bとしよう。皇帝Aが皇帝Bより圧倒的に武力で勝っていたら、みんな皇帝Aの側につくだろう。しかし皇帝A以外のすべての武力を結集すれば皇帝Aを倒せる可能性がある場合には、多くの者が皇帝Bを擁立して皇帝Aと戦うだろう。今は弱いがそのうち強くなる、大化けするかもしれない。そんなばくち、いやいや先行投資が人は大好きなのだ。皇帝Aはそのとき対抗手段として教皇Aを立てて元の教皇Bを追放する。このようにしてあたかも二大政党制のように、複数の皇帝と教皇が対峙するのである。

キリスト教が普及したのは、キリスト教徒が政治的団結力を持っていたので、彼らを味方につけないと皇帝の地位を保てないからだ。キリスト教徒は迫害によって強固に団結するが、多神教徒はちりぢりばらばらになる。政治的に無力だ。故に、古き良き多神教はキリスト教に負けた。キリスト教徒は教会という強い政治組織を発明した。庶民が政治に介入するために考え出した最初の発明だ(産業革命によって無産階級が団結したのに似ている。一つの属性が与えられることによって圧倒的多数の弱者が一つのコミュニティを構成し、強者に勝つ)。今だって宗教団体に由来する政党はいくらでもある。ドイツなんか典型的だが、日本にもある。アメリカの政党も本質的には同じこと。イスラムなんてそのものずばり。一神教と政治は親和性が高い。信教の自由の意味が日本人にはわかってない。

皇帝はキリスト教を国教とすることによって地位を保った。キリスト教徒の首長たる教皇と妥協した。

日本でも同じだ。北条氏の時代。南北朝、室町、徳川時代ずっとそうだ。尊氏は少しだけ力が強かったが、反尊氏勢力が天皇を中心に結束したから、尊氏は負けかけた。しかし尊氏が別の天皇を立てたので結局武家勢力は尊氏一本で結束して、武家と相性の悪い後醍醐天皇を見捨てた。

直義、直冬もまた南朝の天皇を立てて尊氏に対抗しようとした。武家政権は一つにまとまっていないと意味がない。どこにまとまればよいかわからぬときには複数の天皇がたつ。義満が皇統を統一した。だがもし義満が自分が天皇だと言い張ると(そんなことを義満が言うはずもないが仮に)、反義満勢力がどこかから天皇を立てて対抗するだろう。細川や畠山ももとをたどれば足利氏だが、直義、直冬ですら反逆するのだから足利氏は決して一枚岩ではない。足利といえば鎌倉公方もいる。それらの反義満勢力が結束すれば義満はもたない。義満の子義教も赤松氏に暗殺されたではないか。室町将軍とはそのくらい脆弱だ。応仁の乱のときですら後南朝の天皇が立てられようとした。足利氏がばらばらというよりも、武士というのは、誰を担ごうかと日和見するのだ。室町将軍より鎌倉公方が都合が良いと思えば、そうする。つまり天皇がとか足利がとかいう以前の問題、人間本来の権力闘争がそういう状況を生み出すのである。

「義満は天皇を廃してみずから治天の君になろうとした」などという、金閣寺に目がくらんだ馬鹿もいる。理論的に突き詰めていけば100%あり得ない。馬鹿を簡単に見分けられてよい。便利な馬鹿発見器。

同様のことは北条氏の時代にも言えるし、徳川幕府でも言える。徳川幕府は結局天皇を取り込んだ薩長同盟によって倒されたではないか。というか、徳川幕府はうまく作られていた分もろかった。デザインがなまじうまかっただけに、そのデザインの不備を突かれたので、あっさり諦めた。旗本八万騎。うだうだ抵抗しなかった。そんなところか。

つまりは天皇が偉いのではない。特定のどの天皇が偉いとかいうのではない。武家政権は天皇という権威をコントロールしなくてはならない。皇統をコントロールできない武家政権などあり得ない。徳川幕府はある意味理想的な形で天皇家をコントロールしたわけだが、もしコントロールできてなければ外様大名連合が天皇を擁して徳川を討っただろう。

一番わかりやすいのはやはり尊氏、直義、直冬の闘争だろうと思う。だれが武家の棟梁となるか。とりあえず足利を担ごう。足利以外は論外。特に後醍醐天皇はダメ。しかし、足利の誰を担ぐか。尊氏、直義、直冬。特に決め手はない。強いやつ?違う。みんなが味方する棟梁が強い棟梁だ。強い棟梁だからみんなが味方するのではない。みんなを味方に付けるには大義名分が必要だ。天皇の権威をコントロールできる者が結局味方をたくさん付けて強くなれる。国家レベルの軍事的独裁権を持てる。人望?徳?まあそういう言い方をすることもある。人と物と金を集める才能のことだわな。足利時代には武家は離合集散。徳川時代にはも少し統制とれてきた。というかみんなも少し慎重になり、その分世の中息苦しくなった。だがおかげで二百年以上平和が維持された。南北朝がわからなければ天皇はわからない。徳川氏に比べると足利氏の幕府はナイーブなのでわかりやすい。徳川幕府よりも足利幕府のほうがわかりやすい?まあある意味ではそうだ。徳川は宗家や御三家や御三卿、松平家どうしで争ったりしなかった。すごく仲良しだった(表向きは)。権力闘争とは何かということを、徳川幕府を観察して理解するのは割と難しいと思う。足利幕府が素手で殴り合っているのに対して、徳川幕府は目で殺している。

継体天皇の例に倣って後光厳天皇を立てとか、馬鹿も休み休み言えと思う。そんな些末なことにこだわるからますます天皇がわからなくなる。継体天皇とか三種の神器というのは武士が苦し紛れに掘り返してきた後付けの理屈に過ぎない。自前の天皇を擁立したいが適当な天皇がいない。仕方ないので上皇の権威だけで即位させたのが後鳥羽天皇。神器も今上帝(安徳天皇)も平氏が西海に連れ出して、ただ後白河法皇だけが逃げ遅れて京都にいた。このとき院宣の正統性が確立した。神器はあるけど上皇がいないので普通の皇族を上皇に仕立てあげてその院宣によって即位させたのが後堀河天皇。このとき神器にも正統性があることになった。つまり神器の権威が生まれたのは承久の乱以来ってこと。そんなに古い話ではない。たぶん桓武天皇も嵯峨天皇も、神器なんてどうでもよかったと思う。彼らに大事なものは律令制。きちんとした、立法・行政組織に基づく国家体制だよ。古い神話的権威や家父長制は葬り去りたかったはず。神器の呪術的権威を創作したのは、紛れもない、北条氏。迷信深かったからでも、時代錯誤だったからでもない。そうする必要があったからそうしただけ。

神器もないし天皇も上皇もみんな拉致されていない、何にもないのに後光厳天皇は即位した。このとき持ち出されたのが継体天皇の前例。もちろん継体天皇のことなんてみんなもうとっくに忘れかけていたが、そんなものまで持ち出さないといけない非常事態。天皇が実際に即位してしまうとそれが前例になってしまう。いやいやもう天皇になってしまったからにはそれが前例でなくてはみんなが困る。やっぱり間違ってましたじゃ済まされない。絶対正しいことにしなきゃなんない。何がなんでも。

普通に考えて継体天皇に特別な正統性などない。当時の天皇に皇統などという考え方があったはずがない。皇統という発想が定着したのは天武・天智天皇以来。それ以前の実力主義の時代の皇位継承ルールを持ち出すこと自体がナンセンスである。皇位継承なんて誰でも良い、強いやつがなればいいと言ってるのに過ぎないのだから。

でまあ尊氏が後醍醐天皇に対抗して北朝の光厳天皇を立てたのは、まだ正統性があった。
もともと持明院と大覚寺で皇統が割れてたから。しかし、後光厳天皇はいくらなんでもNGでしょ、ってことになる。だから義満は南北朝をどうしても統一しなきゃならなかった。
明治になって、北朝全体が否定されたのではなかったと思う。後光厳天皇以後の北朝がどうしようもなく正統性が脆弱だったから、南朝が正統ってことにしたのではなかったか。だから後光厳天皇は今ではノーカウントということになっている。やっぱり継体天皇までさかのぼっちゃいけないってことなんだよ。

それで実際には担ぎ出されようとして天皇になれなかった例もあった。そういう場合は正統性がなかったことにされた。どう考えても正統性はないんだけど実際に天皇に即位しちゃったときはそれが正統性に追加されていった。そうやってかなりアバウトに、前例主義的に積み重なっていったのが、天皇や神話の権威に他ならない。つまり天皇が自分で権威付けしたんじゃない。そんなことはあり得ない。天皇を利用する側がどんどん天皇に権威を追加していった。天皇に近い公家の方がむしろ控えめで、伝統主義的。藤原氏なんてせいぜい自分たちの権力が天智天皇までしかさかのぼれないことを知っている。天皇から遠い武家ほど革新的。藤原氏の権威に勝つには天智天皇より昔にさかのぼるしかないわな。
次から次におかしなアイディアが出てきて、ついに天照大神から連綿として権威が存在していたことになった。そんなわけない。明治維新の王政復古というのもようはその再生産の例にすぎない。ある意味今のおかしな学者もその拡大再生産を続けている。天皇が歴史的必然によって、結果論によって徐々に出来てきたってことが理解できないらしい。どうしても最初から完成されていたと思ってしまう。あり得ない。今の女系天皇是非論。やはり天武天皇以前の例を持ち出したって仕方ない。天武天皇以前にはそもそも皇統という概念はなかった。女性か男性か女系か男系かというはっきりした概念もなかったはず。皇統が確立した天武天皇以後の事例に基づいて議論すべきではないのか。そうでないと何でもありになってしまう。でないと足利幕府がやったことと何ら変わりない。その辺り、徳川幕府はじつにうまく裁いている。手抜かり無い。よく研究しているよね。ときどきあやういことはあったけど、ぎりぎり切り抜けてるからなあ。

日本史にも普遍性がある。天皇は日本固有で特殊だからで片付けるからわからなくなる。
世界史の中にヒントはいくらでもあるのに。

中国は面白い。革命のたびに秘密結社や新興宗教が現れ大衆を扇動する。ところが、太平天国の乱のときもそうだが、中国ではキリスト教のように一つの宗教に集束・定着することがない。なぜだかよくわからない。あと、モンゴル帝国のように、軍事力が一人の首長の元に簡単に集中してしまう。これでは王朝が交代せざるを得ない。これもなぜだかわからない。人種が多様だからだろうか。一つの権威が生まれるには、文化や言語や宗教がある程度均質でなくてはならないのではなかろうか。ペルシャもそうだったが、イスラムが出てきてまた様子が変わった。

原勝郎

足利時代を論ず

足利時代が多くの歴史家からして極めて冷淡な待遇を受け、單に王室の式微なりし時代、將た倫常壞頽の時代とのみ目せられて、甚無造作に片付けられて居つたのは、由來久いことである。

すでに戦前から室町時代はそんなふうに見られていたのかとあきれる。

されば若し此時代に特有なる出來事として、後世の研究者の注意を惹いたものがあるとすれば、それは書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

今の財界人も同じことをいう。司馬遼太郎やドナルド・キーンの発明でもない。

換言すれば足利時代史の眞相といふものが未だ充分に發揮せられて居なかつたと云つてよい。

これまでも室町時代は何度も発見され、何度も誤解され、何度も忘れ去られたのだろう。

史學上久しく荒蕪地となつて居つた足利時代

ひどいな(笑)。そんなひどいかな。ていうか何か独自の発見でもあるのかと思い読んでみたが特に何も書かれてなくてあきれた。

東山時代における一縉紳の生活

将軍の幕府は京都へ戻り、世間の有様は再び藤原時代の昔に似かよった経路を辿ることとなった。

幕府が京都に戻ることにより、世の中も平安時代に戻ったと言っているのである。なんと近視眼的な。

群雄割拠の中央集権を妨げたのは、もとより極めて明白なことで、何人といえどもこれを否むものはあるまい。しかしながら藤原時代以前、すなわち群雄割拠のなかったと見なされる時代に、はたして、どれだけの中央集権の実があったろうか。

はたして藤原時代よりも秩序がはなはだしく紊乱しておったであろうか。足利時代の記録によって、京洛の物騒なことを数え立てる人もあるかは知れぬが、京都はその実平安朝時代から物騒な所であったのではないか。かつずっと古い時代の記録に地方群盗の記事の少ないのは、必ずしもその事実上稀少であったという証拠とはならぬ。その時代の記録者が、あるいはこれをありがちのこととして特に書きしるすことをしなかったかも知れない。また時代が次第に降るにしたがって、群盗の記事の記録に多く見ゆるようになるのは、これを今まで少なかったものの増加したがためと解するよりも、かえりて社会の秩序が立ちかけて、擾乱者が目立ってきた、ないしは秩序を欲する念が、一般に盛んになってきたためと説明することもできよう。

少しまともなことを言っている。今の時代でも、平成の今より昭和のほうがのどかで犯罪が少なかったなどと本気で信じている老害じいさんがたくさんいるのに比べれば、まともな感覚の持ち主である。ちゃんと統計を取れば、昭和のほうがはるかに犯罪は多かった。明治や江戸時代とさかのぼるほどに多くなるだろう。

約言すれば足利時代は京都が日本の唯一の中心となった点において、藤原時代の文化が多少デカダンに陥ったとはいいながらともかく新たな勢をもって復活した点において、しかしてその文化の伝播力の旺盛にして、前代よりもさらにあまねく都鄙を風靡した点において、日本の歴史上の重大な意義を有する時代であるからして、これを西欧の十四、五世紀におけるルネッサンスに比することもできる。

だーかーらー。室町時代が京都が唯一の日本の中心だった時代だと考えるのがそもそも間違いなんだってば。封建社会なのに中央集権なわけないじゃん。

一縉紳とは三条西実隆のことであるらしい。