マイエンフェルト駅は無かった?

ハイディのドイツ語原文を検索しても、Bahnhof Maienfeld というものは出てこない。
Bahnhof という単語は一箇所だけ出てくる。
ドイツ語の Wikipedia を調べていると、どうもマイエンフェルト駅とかラガーツ温泉駅などというものは当時はなかったらしく、最寄り駅としては Bahnhof Landquart というものがあるのみ。
この Landquart というのはマイエンフェルトからライン川をさかのぼって支流がドムレシュクとプレッティガウに分かれる分岐点にある。
ていうかマイエンフェルトというよりはプレッティガウという方が近いと思う。
思うのだが、Maienfeld と Landquart の間に Malans とか Jenins という小さな集落がある。これらがデルフリのモデルなのだろう。
そして、山小屋からデルフリを抜けてLandquart駅に向かったとすれば、Malans が一番デルフリの場所としてはふさわしいように思われる。

Landquart駅が出来たのは1858年だが、このときグラウビュンデン州の州都Churからサンクトガーレン州までライン川沿いに鉄道が延びただけであり、途中 Sargans からチューリッヒまで鉄道が延び、これによってフランクフルトとマイエンフェルトの間が鉄道で結ばれたのは 1875年のことらしい。

ラガーツ温泉ができたのは 1870年のことである。
フランクフルトからお金持ちがラガーツ温泉まで保養にきたというのは鉄道できたのに違いなく、それは1875年から後となる。
となるとハイディがアルムおじさんに預けられたのは1876年以降となり、このときハイディが8才であるから、ハイディの生まれた年はやはり1868年くらい、ということになる。

まあともかくクララのおばあさんは開通したばかりの鉄道でラガーツまで遊びに来ていたというわけだ。
観光客はたぶん、Landquart駅ではなくて Sargans駅からラガーツに馬車か何かで移動したのだろうと思う。


追記: Bahnhof Maienfeld ができたのは 1858年である。

親子泣き別れの場面

アルプスの少女デーテをまた少しいじった。

アルムおじさんはナポリで事業に失敗して妻と息子のトビアスを連れて、イタリア半島を北へ北へと放浪しはじめる。傭兵時代に知り合ったイタリア人たちを頼りながら。しかし、どこも長くは滞在できず、ミラノまでくる。アルムおじさんは妻とトビアスをイタリアに残して自分だけスイスに戻ろうとする。妻もトビアスと一緒にイタリアに残りたいと思った。スイスには行きたくなかった。

アルムおじさんはトビアスに、自分と一緒にスイスに行くか、母と共にイタリアに残るかどっちかにしろと言った。トビアスは親子が離ればなれになるのは嫌だと言った。どちらも選べなかった。翌朝、母は行方をくらましてしまい、トビアスは仕方なくアルムおじさんと一緒にスイスに戻ることにした。

まあちょっとした愁嘆場を付け足してみたくなったというわけだ。

もともとは、トビアスがまだ幼い頃、ナポリに居たころにアルムおじさんは妻と別れて、それから何年かトビアスと一緒にイタリア各地を放浪した、だからトビアスは母の面影を知らない、という話だった。

なんかこの話なかなか収束しないな。

スイス兵の暴動の真実

以前にナポリ傭兵というものを書いたのだが、こちらにスイス傭兵の暴動についての非常に詳しい資料がある。
The Swiss and the Royal House of Naples-Sicily 1735-1861 A Preview on the 150th Anniversary of the Surrender at Gaeta

One late evening in June 1859, the Court, thinking of rebellious Neapolitans, was panic-stricken when hundreds of mutinying Swiss were approaching in a riot. What happened? In 1848 the Swiss Federal Council abolished the Foreign Service but tolerated the contracts with Naples. In 1859, because of her neutrality, Switzerland forbade flying the Swiss flags in Italy. Not all soldiers, however, accepted the removal of the Swiss cross and wanted the King to restore it. A furious General Schumacher went to meet the drunken mutineers and gave orders to wait on the Campo di Marte for the King’s answer. The Queen, fearless as usual, watched the ghostly scene from her balcony. At dawn, after a rioting night, the mutineers were encircled by the loyal Swiss who, as they refused to surrender, gunned them down. After this incident the King made it optional for the Swiss to stay in his service. A lot went home, many stayed.

つまり、スイス連邦は1848年から傭兵の契約を廃止していたが、両シチリア王国に関しては依然として認めていた。1859年に両シチリア王国は中立性を示すためにスイス国旗の掲揚を禁じた。一部のスイス兵はスイス国旗掲揚を求めた。スイスのルツェルン出身の将軍、フェリックス・フォン・シューマッハー男爵は、酔っ払って暴動を起こした兵士たちに怒り狂い、マルテ広場で王の返事を待てと命令した。翌朝、降伏を拒んだ暴徒たちは王に忠誠を誓うスイス兵たちに取り囲まれて銃撃された。この事件の後、王はスイス兵たちに兵役にとどまるかどうか自由にさせた。多くは去ったが、多くは残った。

フランチェスコ2世 (両シチリア王)

軍備面では長年にわたって国王の親衛隊を務めてきたスイス人傭兵隊の大規模な暴動が発生している。フランチェスコ2世は傭兵隊に待遇の改善を約束して彼らをなだめた後、軍に命じてスイス兵を皆殺しにした。暴動を鎮圧するとフランチェスコ2世はスイス傭兵隊の廃止を宣言した。

この記述は非常に間違っていて、誤解を与える。英語版の

a part of the Swiss Guard mutinied, and while the king mollified them by promising to redress their grievances, General Alessandro Nunziante gathered his troops, who surrounded the mutineers and shot them down. The incident resulted in the disbanding of the whole Swiss Guard, at the time the strongest bulwark of the Bourbon dynasty.

も、実状を正確に言い表しているとは言いがたい。スイス兵は長年両シチリア王国に忠実に仕えており、その中には将軍になったものや、男爵1に叙任されたものさえいた。つまりナポリに永住して貴族になったものすらいたということだろう。暴徒となったスイス兵を他の忠実なスイス兵たちが銃撃して鎮圧した、というのが正しい。

追記: ウィキペディアの記事で当該箇所はすでに削除されたか編集されているようだ。

ナポリ傭兵

wikipedia で両シチリア王国最後の君主「フランチェスコ二世」を読んでいると、ガリバルディがシチリアに上陸する前に、

軍備面では長年にわたって国王の親衛隊を務めてきたスイス人傭兵隊の大規模な暴動が発生している。フランチェスコ2世は傭兵隊に待遇の改善を約束して彼らをなだめた後、軍に命じてスイス兵を皆殺しにした。暴動を鎮圧するとフランチェスコ2世はスイス傭兵隊の廃止を宣言した。

と書かれている。つまり、スイス傭兵は長らく両シチリア王国の親衛隊として雇われていたが、フランチェスコ二世はその待遇改善を拒んで皆殺しにし、スイス傭兵を廃止した、となる。

ということは、アルムおじさんはそれ以前にやはり直接ナポリで傭兵になった可能性が高い、ということか。あるいはフランチェスコ二世の虐殺の生き残りなのかもしれない。うーむ。そういう話にした方が面白かったかなあ。

ナポリのブルボン家はイタリア語でボルボーネ家というらしい。

英語版 wikipedia だと、

On 7 June (1859) a part of the Swiss Guard mutinied, and while the king mollified them by promising to redress their grievances, General Alessandro Nunziante gathered his troops, who surrounded the mutineers and shot them down. The incident resulted in the disbanding of the whole Swiss Guard, at the time the strongest bulwark of the Bourbon dynasty.

ということは、6月4日のマジェンタの戦いと、24日のソルフェリーノの戦いの間くらいに、反乱を起こしたスイス親衛隊の一部が撃ち殺され、それが傭兵隊全部の解隊という結果となった、ということになる。また、当時、スイス傭兵がブルボン家最大の防波堤になっていた、とも書いてある。

スイス傭兵はローマ教皇やフランス王の近衛兵にもなっているから、どちらかといえば小規模な常備軍として雇用されることが多く、戦争のような大規模な臨時徴収には、そもそも向かないし、雇用もされなかったのかもしれん。ともかくガリバルディがシチリアに来た頃にはスイス傭兵はナポリにはいなかったということよね。

Swiss Guard など見ると、ナポレオンがスペインやロシア遠征にスイス傭兵を雇ったとある。1830年に再びチュイルリー宮殿が襲撃されたとき、スイスの近衛兵は、二度目の虐殺(一度目はルイ十六世の時)を恐れて姿をくらましたため、以後近衛兵として雇われることはなかった、とある。

また、フランス外人部隊(French Foreign Legion, Légion Etrangère) など読むと、

The Foreign Legion acquitted itself particularly well against the Austrians at the battle of Magenta (4 June 1859) and at the Battle of Solferino (24 June).

などと書いてあって、ソルフェリーノの戦いに外人部隊が投入され善戦したらしいことがわかるし、アンリ・デュナンが見聞しているから、その中にスイス傭兵がいなかったとはいえない。

しかし、やはり、ナポリで直接傭兵になった、という話の方がすんなりくるし、なんか面白そうでもあるんだよなあ。