こんな世の中のために仕事をするのが苦痛だ

最近はまいばすけっともそんなに安くはなくなってきた。カルローズ米も売ってないし、なんだろう。飲食業界で買い漁ってて小売りには回ってこない感じかな。今年の新米ばかり売られていて古米が売られてない。もしくは売り切れている。別に新米が食べたいわけではないし、ブランド米が食べたいわけでもない。しかし例の赤富士のいつものお米も高止まりしてるから、とにかく米が足りてないんだろうな。というか、トイレットペーパーとかマスクの時と同じで、みんな安いときに買い溜めしてるから余計に物が流れてないんだと思う。

新米やブランド米が高いのはそれはそれで良いとして、私は食べたいとも思わないし、買わないだけだ。安いベトナム米や台湾米やカリフォルニア米や古米が売られていれば買いたいのだがそれが無い。

まいばすけっとだが、安いオリジナルブランドのカップ麺は棚の下のほうにちょっとしか置いてなくて、日清のバカ高いカップヌードルばかりたくさん並んでいる。単価が安い商品を置きたがらなくなったんだな。結局カップ麺や袋麺も、マルエツとか普通のスーパーで買うことになる。

最近の値上がりはしかしやばいな。ちょっと昼飯食おうとすると500円以下では食えない。私は蕎麦かそうめんをゆでて食べることが多いのだが、それだと100円くらいで済むよな。

最近は食べたいものも行きたい店もなくなってきた。昔は毎日外飲みして飲み歩いていたのだが、1年ほど浅草暮らしを体験してみて、およそ自分がやりたいことをやりつくし、自分が見たい世界を見尽くした感じがしてきた。これ以上もう何もない気がしてきた。体力がなくなってきて、食欲はまだあるが、食べると無駄に太って体が重くなるだけなのでもう食べたくない。上野の博物館巡りももういいかげん飽きた。

職場がある中野から浅草まで、丸ノ内線や銀座線、あるいは大江戸線を使って移動するのもだんだん嫌になってきた。小田急線と同じですべての交通機関がうっとうしい。私はもはやこの東京というところに住むのが耐えがたくなってきているのだと思う。

windows や microsoft word なんかを使うのが嫌だ。「おはようございます」と挨拶されるのがとにかく嫌だ。今書いているものは word で書いているから仕方ないけれど、できるだけ早く word を使わない執筆環境にしたい。

adobe の photoshop なんかにも nano banana pro なんかがしゃしゃり出てきて、私ももう英文なんかは AIに書いてもらおうと最初から諦めている。あの漫画とかイラストとか音楽なんか、要するに、一般大衆が求めていて満足しているものなんてのは、AIがスクレイピングして再生産したもので十分なのだ。何の新しさもない情報がぐるぐるぐるぐる循環していてその中で、池の鯉が口をぱくぱくさせるように、人間も生きているだけなのだ。そういうところの外で何か新しい仕事をしようとしても誰も新しさに気付いてくれない。社会の中で循環している情報しか結局人間は認知できないのだ。社会の外で新しく生まれた情報は、そのままでは誰も摂取できないのだ。

新しい研究をして論文を書いたとしよう。そうすると何が起きるかと言えば、人はその新しい手法に既存の手法を投影して価値を計ろうとするから、新しさが見えず、古さだけが見えてしまう。新しいものは彼らには見えないのだ。だから書いてあっても書かれていないことになってしまう。私が考えたことを彼の枠に嵌めて判断しようとするから枠からはみでた部分は全部無駄になる。実にもったいない。何が新しいかということを理解させるのは非常に困難であるし、そんなことのために努力したくない。努力しなきゃ飯が食えないという状況なら努力するかもしれないが、そんなことしなくても飯は食えるとなればわざわざやりたくない。

だからただ単に新しいことをしましたよと言って論文を書いてもそれが掲載されることはない。新しくもなんともないことをさも新しいかのように書いた論文のほうが受理される可能性が高い。そしてその論文の中に本当に新しいことも混ぜて書いておくと、10年後、20年後にやっとその論文の真価を世間が再発見するというわけだ。

実に馬鹿馬鹿しい世の中だ。こんな世の中のために仕事をするのが苦痛だ。

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