科挙

某つぶやきでエキサイトしてしまったのだが(あれは「もう寝ます」とか言ってやめるべきだっただろうか)、
もともと考えていたことは別のところにあって、中国が、アヘン戦争以来、西欧列強にぼこぼこにやられて、
とうとう科挙というものが廃止されて、西洋の学問体系や教育制度が採り入れられた。
そのとき、政治家や軍人を登用するのに詩人の素養を試験するのはおかしいうんぬん、だから中国は負けたのだということが言われるようになった。
中国では高級官僚は詩が作れた。
日本でも貴族は和歌をたしなんだ。
東アジアではずっと支配者階級、特権階級が詩歌を文学的な教養の基礎においてきた。
だが今はそんな教育はしない。
そんな教育はすでに否定されてしまった。

もし政治家や官僚や軍人やあるいは思想家が歌を詠むと弱くなるとか、
歌詠みの素養は政治とは関係ないとか、
歌詠みは国を滅ぼすとかいうとしたら、その反例はいくらでもあげることができる。
足利高氏、吉田松陰、頼山陽・・・。

つまり今の世の中は、政治家や官僚を養成するのに、西洋の法学とか経済学とかを大学で教えるのが当たり前なんだが、
なぜ国語ではいかんのか、国語の中でも詩歌ではいかんのか、大学入試に歌を詠むということがなぜないのか、
小論文ならあるのになぜ詠歌はないのか、なぜ国語教育は、
かつてのようではないのか、ということをつらつらと考えていたのだ。

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