享和元年上京日記

宣長は十代後半から二十代後半まで、京都遊学のために何度か京都と松坂を往復している。
その後では、寛政二年(1970)、寛政五年(1973)、享和元年(1801)の三回しかないようだ。
寛政二年の上京は、[御遷幸](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/gosenkou.html)、
つまり新築された御所に、天皇が仮御所から帰るところを見物に行ったものと思われる。

宣長晩年の上京は四月十五日賀茂祭から六月初旬祇園祭までの長期間で、知人宅に泊まるというのでなしに、
四条通東洞院の宿に宿泊し、なかなか豪勢な旅だったように思われる。
四月十五日の賀茂祭の日には小沢蘆庵宅をたずねている。
「京みやげ」という記録に

賀茂の祭りを見奉りて 宣長

> 四十とせはよそに過ぎぬる神わざにまたもあふひのけふのたふとさ

蘆庵

> ちはやぶる神のみわざのたふとさになほよろづ世もあふひとを知れ

返し 宣長

> よろづ世も八百万世も君も我もともにあふひのよはひともがな

とある。さらに「鈴屋大人都日記」には、蘆庵の門人の小川布淑が

> めづらしくけふぞあふひのもろかづらもろともにませ八百万世も

と詠んだとある。
これはなかなかの壮観ではなかろうか。

錦小路室町の服部五郎左衛門敏夏(服部敏夏)が四月早々に宣長に入門している。
五月十八日の円山の饗宴はこの人の主催だったというから、京都のお金持ちだったのだろう。
「鈴屋大人都日記」「京みやげ」にもいくつか歌が記録されている。
京都における宣長の重要なパトロンだったに違いない。

「鈴屋大人都日記」

> 敏夏がいざなひきこゆれば、午時ばかりより、泉涌寺にまうで給ひて・・・、かくて未時ばかりに、円山にものしつるに、
人々つどひゐて出迎ふ。そもそも、この円山と言ふは、東山の寺なるを、鰭の広もの狭ものを調じ出づれば、
京人田舎人雅びたるたはれたる、絶えず遊びをものする所なりけり。
けふは敏夏があるじにて残るくまなく心をし用ひければ、まづ南面払ひ開けさせて、日影さすかたには幕引きはへしつらへたれば、
吹く風もことに涼しくなむ、松杉など生ひ茂り、作庭のさまおかしうしなしたり。
すのこより見やれば、京の町々西山かけて見えわたるもえならぬながめなり。

> 香川景樹も出迎へて、御旅ゐにものすべう思ひわたり侍れど、とやかくやとことしげくてなむ、
けふここへものし給ふことを嬉しく思ひ給へて、ふりはへてものし侍り。著し給へる御書どもは、早う見奉りてみかげをかうぶる事少なからず、
いとめでたくなむなど言ふ。
師もなにくれと語らひ給ひ、人々酒のみ歌いののしり、心々に歌をも詠みて、暮れ深く帰り給ふ・・・

「都日記」を書いた石塚龍麿は香川景樹とほぼ同世代で、すでに知り合いでもあったかのような書きぶり。

「享和元年上京日記」同じ箇所

> 今日、服部敏夏のあるじにて、円山に到り、終日饗宴、日暮れて帰る。香川式部、対面。右の人、予、旅宿へ訪ね来たき由かねがね望まるる所、
今日ここへ来訪なり。

宣長は「対面」と言っているので、入門したわけでも教えを受けたわけでもなく、
この若輩の歌人に、一応対等の立場で応対したのだろう。
景樹がすでに宣長の著作を読んで勉強しており、なんとしても面会したいと押しかけてきたという感じがややおもしろい。

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