[半七捕物帳 三河万歳](http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/997_14994.html)
に屋敷万歳や町万歳、出入り万歳、乞食万歳、
などという言葉が出てくるが、
普通の国語辞典や古語辞典を見ても意味が通じない。
ネットを検索してみると、
正月に武家屋敷や町屋などを回って、悪鬼を祓い福をもたらす芸のようなもの、
千秋万歳というのが正式らしい。
[コトバンク](http://kotobank.jp/)
> まんざい【万歳】
> 民俗芸能。祝福芸,門付芸の一つ。正月に家々の座敷や門口で予祝の祝言を述べたてるもので,〈千秋万歳(せんずまんざい)〉の末流と考えられる。平安時代後期成立の《新猿楽記》には〈千秋万歳之酒禱〉と見え,千秋万歳はこのころすでに職能として存在していたと思われる。鎌倉時代以降には宮中をはじめ寺社,武家などの権門を訪れるようになり,室町時代の中ごろには一般の民家にも門付してまわるようになった(《臥雲日件録》)。
> せんずまんざい【千秋万歳】
>〈せんじゅまんざい〉とも読む。正月の祝福芸能の一つ。また,それを業とする者をさす場合もある。鎌倉期では《明月記》《勘仲記》などにその参入の記事がみえる。《名語記》によると散所法師が初子の日に家々を訪ねて行う祝言芸で,それによって禄物を得たという。室町期に入ると,声聞師が正月に禁裏(5日),公方邸(7日)をはじめ,諸家に赴いて,千秋万歳を演じ,曲舞を舞った記録が多い。
岩波古語辞典
> 年の初め、家々を訪れて、家門・寿命の長久を祝い、歌舞を演じて回った下級の法師・陰陽師。
> 今日万歳参啓、祝言、退出。
> 一種の乞食輩、歳首に人家に到り祝言を歌ふ、世に之を万歳と号す
万歳はマンザイとも読み、漫才に通じるという。
もともと漫才は正月にやるおめでたい芸能だったのかもしれず、
今の正月三ヶ日のテレビ番組にその痕跡があるといえるのかもしれない。
尾張万歳というものもあるらしく、三河万歳とか、もともとあの辺りから回ってくる渡り芸人的なもの、
もしかすると熱田神宮や伊勢神宮なんかに属する祝(はふり)や巫女(かむなぎ)などの渡りの神職とか、山伏などと関係するものなのかもしれない。
『半七捕物帳』は関東大震災以前に書かれた時代小説なので(※連載後半は違う)、東京にも江戸の町並みがほぼそのまま残っていただろうし、
作者の岡本綺堂も、江戸時代の生き証人から直接話を聞くことができたのだろう。
江戸時代のことをうだうだ書いている私にとっては、当時の江戸の雰囲気が感じられる、非常に貴重なものだ。
明治維新からまだ50年弱しかたってない。
彼にとっての江戸は、私にとっての昭和30年代みたいなものなわけだ。
野村胡堂は、文藝春秋から「岡本綺堂の半七捕物帳のようなものを」と依頼され、『銭形平次』を書いたという。
昭和の戦前戦後に渡って書かれたものだ。
『新選組始末記』は昭和の初め。
『鬼平犯科帳』ともなると完全に戦後だ。
このへんになるともうあまり役に立たない。
永井荷風の作も、役に立つような立たないような。
もっと江戸や明治の小説をきちんと読まねばな。
> 「どうだ、半七。けさの行き倒れは、何者だと思う。あんな因果者を抱えているのをみると、香具師やしの仲間かな」と、弥兵衛は云った。
> 「さあ、手のひらの硬い工合ぐあいがどうも才蔵じゃねえかと思いますが……」
> 「むう。おれもそう思わねえでもなかったが、香具師ならば理窟が付く。やあぽんぽんの才蔵じゃあ、どうも平仄が合わねえじゃあねえか」
> 「ごもっともです」と、半七も考えていた。「しかし旦那の前ですが、その平仄の合わねえところに何か旨味があるんじゃありますまいか。ともかくもちっと洗いあげてみましょう」
「平仄が合わない」こんな使い方するんだな。
才蔵。
> 雑芸人の名称。千秋万歳や万歳はふつう2人一組で演じられ,一方を太夫,一方を才蔵と称する。
万歳は太夫と才蔵の掛合が基本で,太夫は烏帽子,直垂(または素襖)姿,才蔵は投頭巾(大黒頭巾)に裁着姿が一般的である。シテ役の太夫は扇子を持って千代万歳の祝言を言い立て,才蔵はワキ役で太夫の語りの間をぬって相槌を打ち,鼓を打ち鳴らし,囃したり,歌ったりしながらモドキの役割と滑稽な三枚目を演じる。
> 正月の万歳に小鼓を打ちながら大夫の相手をして人を笑わせる役
> 才蔵は飲みかねまじき面っ付
「やあぽんぽんの才蔵」とは、よくわからんが、要するに太鼓叩きの芸人、とでもいう意味か。
悪質な香具師に因果者師というのがいて、身障者を見世物にして、
「親の因果が子に報い」などとやったらしい。
なので、香具師が子供を抱えて行き倒れしたなら平仄が合う、太鼓持ちだとちとおかしい、そう言いたいわけだ。
で実際この子供は生まれつき犬歯が生えた鬼っ子で・・・。
なんかむずいな。