推理小説

なんか最近煮詰まるのでぐだぐだとブログに書くとだ。
私が小説を書くのに一番影響を受けたのは『日本外史』だろうと思う。
その他には『平家物語』とか三遊亭圓生の落語かと思う。
圓生はまあともかくとして、『日本外史』というのはとにかく登場人物が多くて、
いきなり出てきて消えていく。
ときどき義家とか頼朝とか清盛みたいなメインキャラが出てくるのだが、
よく読まないとこの人がこのへんの主人公ですってことがわからないから、
読んでいるうちにああ義家って割と重要?とかって気づく感じ。

『平家物語』もどうでもよい人たちが次から次に出てきてなかなか義経とか頼朝が出てこない。
古典がみんなそうではないが、いわゆる主人公がいないパターン。
現代では群像劇とかっていうのかな。

小説と違って現実世界には主人公はいない。
主人公はこの人で、ヒロインはこの人で、仇役がこの人で、というプロットは、現実世界には存在しない。
では現実世界をそのまんま切り取ったような小説は成立し得ないのか、読者を獲得し得ないのか、
と考えたとき、『平家物語』や『日本外史』なんかは、やっぱ主人公がいるとも、プロットがあるとも言いがたいのに、
かつては多くの読者がいた。
じゃ、そういう文学形態があってもいいはずではないか。

私が書いたものの中では『墨西綺譚』が典型的にそうで、もちろんこれにもプロットはあるのだが、
敢えて言えば、誰がヒロインか当てる推理小説みたいなものになっている。
ミステリーで真犯人当てるようなもの。
あれ、この子がヒロインかなと思わせといて実はやっぱりこっちでした、みたいな。

『安藤レイ』も推理仕立てになっているが、人は誰も死なない。
これもやっぱりヒロインはアンドロイドですねと思わせといて実は別の人でした、みたいな仕掛けになっている。
普通の推理小説ではない。
私はひねくれ者だから、
誰か人が殺されて真犯人を推理する、みたいな話は絶対書かないと思う。
歴史小説で軍人や武士が死ぬのはかまわないけど、
現代の民間人を殺すのは気が乗らない。
『墨西綺譚』ではやむなく一人殺したが、なんとか殺さずに済ますわけにはいかないかと悩んだあげく、
やはり彼には死んでもらわなくてはならないので死んでもらった。
そのくらい自分の話の中で人を殺すことに抵抗がある。

なんでかといえばたぶん私にはそういうのはテレビドラマのシナリオみたいな感じがするからだと思う。

『墨西綺譚』なんてのは、ある意味完全な失敗策で、最初に無駄にたくさんキャラが登場してくるので読者はあきれるだろうと思う。
でもあれはあれでもうほっとくしかない。主人公とヒロインがいて敵役がいるとか、
事件が発生してそれを解決するとか、
父が殺されたから仇をうつとか、
父に捨てられたから復讐するとか、
そういうのは書きたくないんだから仕方ない。
たぶん私は、敢えてそういう定番な王道な話を書こうとすると、ひねりをきかせられなくて窮すると思う。
つまり、誰もまだ使ったことのないプロットは簡単にひねれる。
みんなが使うプロットでひねるとみんなと同じようなひねり方にしかならないから、
そうではないひねり方をしようとがんばるがたいていもう誰かがすでにやっていたりして、疲れる。
だからできるだけ他人とネタのかぶらないことをやりたがる。
そういうことに違いない。

でも最近は割と主人公がわかりやすいように書くようにしているつもりだ。

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