やはりフローニで脚注使おうとするとフリーズ。
なんなんだこのバグ。
フローニの表紙絵がアマゾンで差し替わったのを確認してからエウドキアの無料キャンペーンやります。
今話題のキエフやクリミア半島もバシレイオス二世ネタとかで出てくるよ。
だから読んでください。
エウドキアも誰かに挿絵描いてもらいたい。
だけど難しすぎて無理だ罠。
東ローマ皇帝とかセルジューク朝のスルターンとか、コンスタンティノープルとか。
設定資料揃えるだけでたいへんだし描くのはさらに大変。
字だけ書くのは楽でいいんだが。
映像化するとほんとはすごいんだよ、誰か映画化してくれ(他力本願)。
つかもともとセルジューク朝の詩人オマル・ハイヤームが主人公で、
イェルサレム王国のバルドヴィンとか出てきて、
アレクシオスとかエウドキアはほんの脇役の話だったんだが、
書き切れないからそのうち連作みたいな形に分けて書くと思う、気がむいたら。
もし万一エウドキアの続編書いてくれって言う人がいたら。
塩野七生の『十字軍物語』と比べ読みしてほしい。
ダメなら遠慮無く★一つでいいから。
定家の日記『明月記』文暦二年(1235)5月27日に
> 予本自不知書文字事。嵯峨中院障子色紙形、故予可書由彼入道懇切。雖極見苦事憖染筆送之。古来人歌各一首、自天智天皇以来及家隆雅経。
とある以上は、定家による百人一首の原型があって、
その始まりは天智天皇の歌で、終わりが家隆と雅経であったのは、間違いないのだろう。
だがしかし、この時点で後鳥羽院や順徳院の歌が入っている可能性はまずない。
依頼した宇都宮頼綱は鎌倉幕府の御家人であるし、定家がいかに後鳥羽院や順徳院と親しかろうと、
承久の乱で流された廃帝の歌を、
しかも流された後に詠んだと思われる恨み節のような歌を入れるはずもないのである。
定家はそんな義侠心のあるような性格ではない。
また、いろんな人が指摘しているようだが、後鳥羽院、順徳院などの追号が確定したのは定家の死後。
後世の人がおもしろがって入れたのに間違いあるまい。
それでまあ、98首目が藤原家隆で、99と100が後鳥羽院、順徳院なので、
原型は98首しかなかったんじゃないかというのが通説らしいのだが、
おそらくほんとはもっと少なかったんじゃなかろうか。
だがまあ定家という人は天智天皇の「秋の田の」みたいな凡作を敢えて入れるような人であったかもしれず
(別のも少しまともな歌と差し替わっている可能性は低い)、
そのほかの歌も定家が選んだ可能性はなくもない。
しょうがないがやっぱり小倉百人一首は、定家の趣味で選ばれたと考えるしかないのだろう。
ただし、依頼主の宇都宮頼綱の趣味がかなり反映されてはいるだろう。
後から追加や入れ替えはある程度あっただろう。