実朝と頼朝

「吾妻鏡」。

> 元久二年・九月二日

> 乙酉 藤兵衛尉朝親、自京都下著。持參新古今和歌集、是通具、有家、定家、々隆、雅經等朝臣、奉勅定、於和歌所、去三月十六日撰進之。
同四月奏覽。
未被行竟宴。又無披露之儀。而將軍家、令好和語給之上、故右大將軍御詠、被撰入之由、就聞食、頻雖有御覽之志、態不及被尋申。
而朝親、適属定家朝臣、嗜當道。即列此集作者〈讀人不知〉之間、廻計略可書進之由、被仰含之處、依朝雅、重忠等事。
都鄙不靜之故、于今遅引〈云云〉

正確な現代語訳はよくわからんのだが、
源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経らが勅定を奉じて和歌所において、1206年3月26日に新古今和歌集を選進し、
4月に後鳥羽上皇に奏覽したが、未だに披露されてなかった。
しかし実朝は、和歌を好む上に、頼朝の歌が選ばれているとのことを聞いて、しきりにみたいと思っていたが、
見ることができずにいた。
そこで実朝の家臣で、藤原定家の弟子・内藤知親に頼んで京都から新古今和歌集をもってこさせ、9月2日に到着した。
とまあそんなところか。

実朝14才。
将軍になって2年目。
頼朝の死後7年目。
ここで、注目すべきは、実朝は父頼朝の歌が新古今集に採られているから読みたいといったというところで、
実朝が頼朝から何かの形で和歌の影響を受けていたのではないかと思わせる。

うーむ。
やはり実朝は二所詣以外どこにも出かけなかったわけだな。
鎌倉から箱根、三嶋、熱海まで。

太宰治「右大臣実朝」:

> この建暦二年の頃には、まだまだ人の心も、なごやかに睦み合ひ、上のお好みになるところ、下も無邪気にそれを習ひ、れいのお歌も、はじめのうちこそ東国武士の硬骨から、頗るけむつたく思ひ、相州さまなど遠まはしに御注意申し上げたものでございましたが、この頃にいたつては、まづ入道広元さま、相州さまの御弟君武州時房さま、御長子泰時さま、それから三浦の義村さま、結城の三郎朝光さま、和田の朝盛さま、内藤知親さま、東の重胤さまなどといふ猛将お武骨の面々が、いつのまにやらいつぱしのお歌人になり澄まし、仔細らしく三十一文字を案じて、赤焼けた太いお首をひねりながら御廊下をお歩きになつて居られるお姿などわけもなく微笑しい感じがいたしました。なんでもかでもお歌さへ作れば、よほどの過失があつても、おゆるし下さるさうだなどといふ物欲しげなお気持から、三十一文字を習ひはじめる御家人衆も多く出て来て、御ところのお歌会はお盛んになる一方で、またこのとしには非常に大がかりの絵合せも興行され、お奥の女房、近習にまじつて、れいの猛将御歌人連もそろつて御参加なされ、かへつて武骨の朝光さまのお絵が抜群の御勝利を得られたなどの大番狂せもございまして、さうして数日後にはその絵合せに負けたお方たちから御馳走が出まして御酒宴になり、遊女を御ところにお召しになつて舞へ歌への大陽気で末座の私たちまで芸を強ひられ、真に駘蕩たるものがございました。

建暦二年は実朝ちょうど二十歳。
いったい、吾妻鏡のどこをどう読めばこう解釈できるかは知らんが、まあそういうこともあったのかもしれん。

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