デザイン

デザインというのは、ある不幸な状況のときに必要とされる。しかしもともと不幸な状況にあるのだから、その不幸な状況を改善できなかったとして、デザインのせいにするのは酷というものだろうと思った。そう、よくあるパターンとしては、デザイナーの独りよがりであったり、デザイナーの自己満足のためにデザインが悪いのだろうと思ってしまうということ。しかし、必ずしもそうではない。

たとえばある間取りの悪いテナントがあったとする。形も間口も悪くてどうがんばって洗い場やカウンターを配置しても客を効率的にさばけないとする。デザインしようがない。
しかしそんなときでも「デザインが悪い」と言われることが多い。デザインはかわいそうだ。

たとえばある限られた予算の中である公共交通機関ができるだけ乗客を増やしつつ障害者にも配慮した車両を作ろうとするだろう。そんなときに条件を満たそうとしてちょっとした配慮の不足があるとたちまちそれは「デザインのミス」として観察されてしまう。デザインはかわいそうだ。

しかし、往々にして、我々からみていると、とくに不幸な状況でもないのに、デザインがしゃしゃりでてきて、状況を不幸にしているように見えることもある。たぶん錯覚なのだろう。

資金が潤沢にあるようにみえてデザインが悪いのは、デザインが悪いのではなくてたぶん何かの政治的理由なのだろう。なにしろ金がうごけば動くほど世の中は妥協の産物となるものだ。やはりデザインのせいにされてはかわいそうなのだろう。

デザイナーはマネージメントができて戦略的な予測もできて、かつ市場調査もできなくてはならないが、そんな完璧な人材は、どんな業種にもめったにいない。デザイナーはやはりかわいそうだ。ある意味 SE くらいかわいそうだ、とおもえばわかりやすい。

そもそもアレとかアレとかアレとか、とてつもなく人間に不親切な設計とか、別段、デザイナーのせいではなくて、複数の候補を用意して、それを選んだクライアントがセンスがないせいかもしれない。たぶんだが、デザイナーは、センスの良いデザインではなく、コンペでクライアントに選ばれやすいデザインをする傾向にあるだろう。そうこうするうちにデザイナーはますますそういうデザインをするようになり、世の中はそういうデザインで満ちあふれることになろう。まあ、政治家と国民の関係にも似ているよな。あるいはマスコミと国民の関係と言っても同じだが。

デザイナーは同時にアーティストであったりする。しかし基本的にデザインとは自分を殺すことであり、アートとは自己主張することであって、あい矛盾する。しかしなぜか世の中ではアート&デザインなどといって、この二つは混同されている。いやおそらく同時に二つの属性が必要とされるのだろう。やはり不幸だ。それについて十分に説明されていない状況も不幸すぎる。

昔バブルの頃は、低学歴だがお金持ちという人と、高学歴だが貧乏という人がいた。なんか矛盾しているようだが、こういう社会は非常に安定している。ようするに世の中景気が良くて勉強しなくても進学しなくても日銭がいくらでも稼げるわけ。ばかばかしくて何年もかけて勉強しない。はてはフリーターみたいな人たちも出てきた。そりゃそうだ。まじめに勉強したり、正社員としてしばられなくても、生きていけるんならみんなフリーターになる。しかし今は低学歴だと低収入、高学歴だと高収入という、当たり前なんだが、非常に危険な社会になってしまったよな。

だがしかし、そもそも、景気の変動の影響を受けやすいリスクの大きい仕事に就いた人と、景気の変動を受けにくい手堅い職に就いた人といるわけだから、景気の良いときに我慢する人と、景気の悪いときに我慢する人がいるのも当然のことだよな。

モーニングのアレとか読むと確かに大学進学率が上がって大学生が異常に増えた。大卒の採用人数も増えている。しかし大学生が多すぎるので、就職内定率は下がる。不況で新卒が採れないという以前に大学生が多すぎるから内定率が下がっている。もし大学生の数が20年前と同じなら内定率はもっと高いのだろう。

大学生は増えたかもしれないが、少子化で新成人は減ってきているはずで、じゃあこの先どうなるかといえば、団塊の世代が退職したあとは逆に新卒は足りなくなる。そもそも労働人口自体が足りなくなる。あと五年くらいだろうか。多少不況だろうと就職はできるようになろう。で、失業率が下がれば賃金も上がるし景気も良くならざるを得ない。そうこう考えればいま就職ができないとか不況がどうこうということをあまり深刻に考えても仕方ないのではないか。ただ今の状況だけ見て、企業の奴隷みたいな人材を作り続けるのはやめた方がよい。むしろやらなきゃいけないことは逆。

世の中には正しいか正しくないかの基準が明確には決まってないのにどちらかに決着を付けなくてはならないことがある。商売や営業などもそうだし、企画もそうだし、裁判もそうだし、倫理や文芸批評もそうだろう。とにかく人文系はたいていそうだ。これが工学系だと、定量化とかいう手法を使うわけだが、文系だと延々と時間をかけて立法とか法令の成文化とか判例の蓄積とかなんだかんだかけてやっている。答えがないんだからそうやってやっていくしかないのだろう。それはそれで良いとして、センター試験などの大学入試の問題も文系の問題はたいていそうだということだ。もっとも確からしいものを選べといわれてもどれも正しくどれも正しくないように見える。そういう答えが判然と決まってない問題を大学入試に出して良いのか。あるいは大学入試の頃からそのような感覚を磨かねばならないのか。出題ミスかどうかの判断はどこでされるのか。

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