和泉書院の「和歌史」を読んでいるのだが、その中の佐藤恒雄「新古今の時代」など読むと、確かに定家に秀歌が多いと言われればそうかもしれないなと思えてくる。たとえば定家の恋の歌
あぢきなくつらきあらしの声もうしなど夕暮れに待ちならひけむ
かへるさのものとや人のながむらむ待つ夜ながらのありあけの月
なびかじなあまのもしほ火たきそめてけぶりは空にくゆりわぶとも
などは確かに面白いが、しかしこれらはいわゆる定家らしいといわれる歌ではなく、どちらかといえば新古今以前の女流歌人らの歌のようだ。また藤原家隆の
思ふどちそこともしらず行きくれぬ花の宿かせ野辺のうぐひす
などは若者たちが花咲くころの野辺をさまよい歩いて迷子になったので、鴬の鳴く花の木の下にでも野宿しようかというたわいないもので、普通に面白い。定家らしいと言われるのはたとえば初学百首にすでに出てくる
天の原思へばかはる色もなし秋こそ月の光なりけれ
あるいは新古今に採られた
さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫
春の夜の夢の浮き橋とだえして峯にわかるる横雲の空
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ
見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
などだろう。不協和なイメージがコラージュされているので心理的な抵抗が大きい。特に「さむしろ」に「月をかたしく」「宇治の橋姫」などは近現代で言えば中原中也のダダの詩を連想させる。なにか具体的な情景を連想させ感動させるというのでない。こういう「前衛」的な「作品」は近現代では珍しくないのだが、新古今の時代でもおそらくそれを敢えて意図してやったのは定家だけであり、前衛芸術の走りとしてはかなり貴重な存在なのかもしれないとは思う。
思うにこんなおかしな「活動」に定家がふけっていたのは、若かりし日の、新古今編纂当時の一時期だけであり、また定家以外の歌人で同程度はじけていた人もなく、その後も現れなかったのだと思う。
私が定家の歌を好きか嫌いかというとどちらでもない。中原中也の詩が好きかと言われて別にすきでもないのと同じだ。本居宣長も新古今風の歌を好むが定家の前衛的な歌が好きなわけでなく、定家からさらに時代を経たある意味平坦で平凡な歌が好きなので、そこには特に意識はしてないかもしれないが、新古今時代にはなばなしく行われた実験に対する反省のようなものもあっただろう。
定家の前衛活動に一応の公認を与え、世間一般に受容されるに至ったのは後鳥羽院が定家を積極的に評価したからだったわけだが、後鳥羽院も定家を特に重んじたのではなく、当時流行した前衛歌をおもしろがって新古今集に取り入れたというようなものだっただろう。たとえば
ちはやぶる日吉の影ものどかにて波をさまれる四方の海かな
など見てもわかるが、後鳥羽院御製の中に前衛やダダを思わせるような歌は一つも見あたらない。よく探せば詠草に一つか二つはあるのかもしれないが。というあたりが後鳥羽院と定家の関係の、さらに言えば新古今というものの位置づけなのではないか。