勅撰和歌集の謎

投稿者: | 2010年4月7日

勅撰和歌集は、応仁の乱によって世の中が乱れて戦国時代に突入したので中絶し、
江戸期になっても長いブランクと、朝廷の力が衰えてしまったので復活しなかった、
というのが一般的な解釈だと思うのだが、
ほんとうにそうなのだろうか。
後水尾天皇は類題和歌集を勅撰している。
しかしそれは、古今和歌集から新続古今和歌集まで、
ほぼ同様の形態で続いてきた21代の勅撰集とはまったく違うやり方で編纂されている。
後水尾天皇は、勅撰和歌集を編纂しようと思ってできなかったわけではなく、
従来とは違う形で編纂したかっただけなのだと思う。
そもそも後水尾天皇や霊元天皇は、在位も長く、また当時の将軍の綱吉は朝廷に対してかなり甘かったという。
禁中並公家諸法度でも公家は和歌を学ぶことが奨励されている。
決して禁じられたり抑圧されたわけではない。
また、和歌を詠む人は、おそらく、新古今の時代よりも爆発的に増えており、その中には秀歌も少なくはなかった。

では、なぜ後水尾天皇は旧来のやり方で勅撰集を編纂するという方法をとらなかったか
(というかなぜこのような本質的な問いがこれまで国学や歌学でなされてこなかったのか、
の方が面白い問題かもしれんがな)。

一つのヒントは1310年ごろ、つまり鎌倉時代末期に作られ、後に明治時代まで続く類題和歌集群に大きな影響を与えた、
夫木和歌抄だろう。
新勅撰和歌集から続後拾遺和歌集までは鎌倉幕府の北条氏の影響下で、朝廷が細々と勅撰集を編んでいた時代。
玉葉和歌集の勅宣は1293年、当時在位中だった伏見天皇は奏覧時の1312年には上皇になっていて、
上皇による院宣による勅撰集ということに。
その間に業を煮やして(?)夫木和歌抄が成立しているものと思われる。
この玉葉集編纂期間の長さは、持明院・大覚寺両統の政争と連動した京極派と二条派の対立にある。
その後も、選者によっては二条派または京極派のどちらかが排除されるという傾向が続いた。

次の風雅和歌集は、花園院の監修のもとに光厳院が親撰。
北朝は京極派、南朝は二条派だった。
南北朝が統一するとなぜか次第に二条派が優勢になっていく。

続く新千載和歌集から新続古今和歌集までは、足利将軍が執奏し、天皇が綸旨し、選者が進撰するという、
三段階の役割分担が確立している。
すでに新勅撰和歌集の時代から、幕府の武家が勅撰集に口出しするようになってきたのだが、
足利幕府は高氏以来和歌が大好きで、とにかく勅撰集に自分の和歌をいれたくてたまらない武士がたくさんいたということだ。
このように足利幕府との依存関係が強くなりすぎた状態で、
応仁の乱が起きて足利幕府が事実上溶解してしまったので、
中断はやむをえなかっただろう。

では江戸時代になってなぜ後水尾天皇は従来の形での勅撰を復活させなかったかだが、
まず第一の理由は、和歌人口が爆発的に増えつつ、
古典文法が完成した時代からあまりにも離れてしまい、
また伝統芸能としてきちんと題詠を学ばないと歌が詠めなくなったので、
千首程度を集める従来の和歌集よりは、類題和歌集のような網羅的な和歌集の方が実際的になったということだろう。
実用性としては類題和歌集の方がずっと便利なのだ。
くどいが、明治になって和歌が大衆化して短歌となったから和歌人口が増えたのではないのだ。
すでに江戸時代にそうとうの人たちが和歌や狂歌を詠んでいた。
状況証拠的にはそういうことになる。

また、第二の理由としては、朝廷の中にも京極派や二条派などの派閥があり、
京都や江戸などの堂上の間にもやはり派閥があり、
それとは別に契沖や真淵などの国学系統の派閥があり、
さらには足利幕府時代に確立した幕府の干渉というものがあっただろう。
徳川幕府としても、将軍が執奏し、天皇が綸旨し、選者が進撰するという、
従来型の勅撰集を出せれば天皇家を利用した権威の箔付けが出来て大喜びだったはずだ。
そのことで幕府が援助を惜しまぬはずがない。
しかるに、後水尾天皇は徳川氏との姻戚関係を拒み、そのために徳川氏を外戚とする天皇は女帝一人にとどまった。
堂上和歌の世界に徳川氏の影響を排除したいという意図はあったに違いない。
ま、ともかく、従来型の勅撰集を出そうとすれば必ず幕府の介入を招く。
仮に幕府の介入という形の援助の下に勅撰集を編纂したらどんなことになるやら想像もできないわな。
田安宗武の歌も入れろと言われるだろう。さらに宗武の師匠の真淵の歌も入れろとか、
真淵の師匠や弟子たちの歌も入れろとか言われるだろうな。
すっげえ嫌だろうな、きっと。
そんなくらいならやめてしまえ、
と後水尾天皇ならば思ったかもしれないし、
徳川家の女御の入内禁止とともにのちの天皇家の家訓となったかもしれない。
まあ宗武・真淵は後水尾天皇よりはずっと後の人だが、状況としてはだいたいそんなところだろう。
要するに、時代が近世まで下ってくると、さまざまな派閥や公家と幕府の力関係などが複雑になりすぎて、
新古今の頃までのように天皇と朝廷主導で秀歌を選抜するという形で勅撰集を編纂することが事実上不可能になり、
そのために勅撰でも無難な類題集の形式となり、
その他無数の私撰集や私家集がそれぞれの派閥ごとに出版されるようになったのだろう。

このように、時代が移るにつれて選抜勅撰集は類題勅撰集と移り、さらに私撰集や私家集にシフトしていったのだ。
和歌の世界が衰えたから勅撰集が途絶えたのではない。
むしろその逆なのだ。

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