宣長の儒学

宣長は、京都の堀景山の門下生となって儒学、つまりは漢学を学び、その間はずっと漢文で日記をつけた。
思うに、公家はずっと公式の日記を漢文で書いてきた。
定家の日記にしても、九条兼実の『玉葉』にしても、『吾妻鏡』にしろ漢文だから、
ともかく漢語を知らぬことには国学もできないわけであり、彼にとっても必須教養を学んだわけだ。
頼山陽のような学び方とは無論まったく意味が違っただろう。

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