古今伝授の真相

投稿者: | 2012年1月5日

この「古今伝授」なる珍現象を考えるに、最初にでっちあげたのは東常縁という人だったに違いないが、
宣長も言っているように彼はただの小者であって、とやかく批判しても仕方ない。
三条西実隆と言う人は、ごく普通の教養人のような人だったろう。
宣長は、彼は利口な人であって、自分の家が歌道の権威を独占するためやったのではなかろうかというが、そこまで腹黒い人だったとはちと思えない。

細川幽斎という人は、武士らしい斬新な歌を詠む人であり、この人が古今伝授などというものを墨守していたはずがない。

思うに、主犯は冷泉為村、またはその師匠たちではなかろうか。つまり江戸中期の公家たち。
為村は霊元院から直接古今伝授されたと言っている。
霊元院は後水尾院から。
古今伝授というものが権威付けされたのは、江戸初期から中期にかけての、
後水尾院と霊元院の二代の院政期であって、
それ以前は特に注目もされてなかっただろう。
天皇家の秘伝となるといろんな輩がそれを箔づけに利用したがるに違いない。
それが為村だったのだ。
彼がわざわざ紀貫之までさかのぼって、古今伝授を由緒ありげなものにしたてたのだ。

私はかつて、古今伝授は応仁の乱の後の戦国のどさくさに捏造されたのではなかろうか、と推測したわけだが、
要するにこの時期は南北朝のように何もかもでたらめで、まともな記録が残ってないので、後世の人がいろいろと捏造するのに都合良いのだ。
後水尾天皇の歌もまだ江戸初期なのでのびのびとしている、ように思える。

類題集というものも後水尾天皇より前からあったが、江戸期に入って世の中が落ち着いてくると、
暇つぶしにこの手のデータベース作成的な事業が盛んになった。
後水尾天皇と霊元天皇が勅撰したという類題集がその精華だと言える。
後水尾天皇には、応仁の乱で途絶えた勅撰集を復活させようという圧力が、公家からも武家からもあっただろう。
だが、後水尾天皇は幕府が大嫌いだった。
勅撰集を出すには足利氏の頃の慣例に依らないわけにはいかない。
後鳥羽院の昔に戻すわけにはいかない。
室町時代の勅撰集とは、武家、公家、天皇の三位一体で量産されていたから、
天皇が勅撰集を出すということは、武家の協力を仰ぎ、彼らと和歌の権威を分かち合うことに他ならない。
足利氏の時代に確立された、公家や天皇家に対する武家の桎梏とはそこまで強固だったし、
徳川氏の時代にはさらにそれが強化された。
一挙手一投足、すべては武家の監視下に置かれたのだ。
天皇は、宮中ならびに公家諸法度やその他の有職故実に記されたとおりに行動しなくちゃならない。
後水尾天皇はそんな窮屈なことに縛られるのはまっぴらだっただろう。

しかし公家たちは天皇の権威の下で勅撰集の編纂事業がやりたくて仕方ない。
やむをえず、一応勅撰という形はとるが、武家を交えず、秀歌を選りすぐるなどという作為を交えず、
公家たちだけで淡々と類題集の編纂という形の活動をしたのではなかろうか。
冷泉為村もまた、そういうこすっからい公家の一人だったのだ。

となると、古今伝授の権威付けには、後水尾天皇と霊元天皇だけでは足りず、
紀貫之までの連綿とした伝統が欲しい。
後陽成天皇が細川幽斎の助命嘆願をしたというのを、古今伝授が失われるのが惜しい、という理由にすり替え、
さらに三条西殿三代というのをやたら持ち上げて和歌の中興などと位置づけた。
為村は、よほど自分の才能に自信がなかったと見える。
そうやって過去の権威にひたすらすがろうとしたのだろう。
宣長や蘆庵はそういう為村を目撃したのである。
だからあんなに厳しい批判を加えたのだが、敵はそんな大昔にいたのではなかったのだろうと思うよ。

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このコピペ、偶然みつけたんだが面白いな。まったく同じ話だわな。

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