「燃えよ剣」を読むまで、まったく気がつかなかったのだが、結構重大なことのようなので調べてみる。
「燃えよ剣」の中で司馬遼太郎は、近藤勇が日本外史の愛読者であり、
また頼山陽にまねた書を書くなどと書いている。
近藤勇は当時の平凡な田舎武士、あるいは町道場主として描かれており、
その趣味が頼山陽なのであり、
それ以上のことは書いてない。
また、「項羽と劉邦」の後書きで、頼山陽と日本外史について次のように触れているそうである。
日本人が中国大陸から漢字・漢籍を導人するのははるかなのちのことになる。
以後、日本社会はその歴史を記録として織りあげてゆくのだが、人間のさまざまな典型については自分の社会の実例よりも、漢籍に書かれた古代中国社会に登場する典型群を借用するのがつねであった。
このことは、ひとつには江戸末期に日本社会が成熟し、頼山陽が出て『日本外史』を書くまで自国の通史が書かれなかったことにもよる。中国文明の周辺の文化というのは自国を鄙であるとするらしく――朝鮮やヴェトナムも同じだと思うが――通史が成立しにくい。
たとえ成立しても、人間についての彫琢にとぼしい。『日本外史』にもそのきらいがあるが、それは山陽の罪ではなく、多くは日本社会の性格によるといえるであろう。
中国社会の場合、すでにのべたように田園にみずからを飼い養っていたひとびとがに挙に柵を脱し、山野へ奔りだすということがあるために、そこに浮沈する人間たちは、浮沈の力学として彫琢が深刻にならざるをえない。典型ができやすいということがあり、とくに戦国から秦末の争乱にかけてはそうであった。まだその典型たちの塚が古びていない時期に、記録者の司馬遷があらわれている。かれは宋代以後の学者よりもはるかにこんにち的な感覚をもち、二十世紀に突如出てきても違和感なく暮らせるほどに物や人の姿を平明に見ることができた。
日本外史が日本初の通史であろうか。
水戸藩の大日本史は確かに日本外史よりも完成は遅れたが、
それよりも先に編纂が始まっていた。
北畠親房の神皇正統記は、日本の通史とはいえまいか。
ほかにも日本外史に先立つ日本通史に近い著作はあるだろう。
また、日本書紀は明らかに当時としての通史であっただろう。
それらについて、司馬遼太郎ともあろう人があまりにも無関心すぎないだろうか。
また、日本外史が、史記と比べて、「人間についての彫琢にとぼしい」
と言っているのはどうにもわからない。
史記は司馬遷が書いたというよりは、地方に伝わった伝承を蒐集したものであろう。
民間伝承とはつまり平家物語や義経記、あるいは太平記などの軍記物語に近いものだったろう。
それらをつなぎ合わせて史記ができている。
それを後世の宋代の学者と比べて「はるかにこんにち的な感覚をもち」
などと評するのはあまりにもとんちんかんではないか。
[司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由その1](http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-424.html)、
[司馬遼太郎が「南北朝時代」を書かなかった理由その2](http://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-426.html)。
なるほど、これは詳しい。
よく読んでから、また書いてみる。