ウクライナ

ロシアのスペツナヅや特殊部隊は、クリミアという狭い領域の占拠には効果的だったかもしれないが、ウクライナ全土に一度に攻め込むという作戦に出たので、そりゃ人出が足りなくなるだろう。一般の兵士は、ナポレオンやナチスの時とは違って、国土防衛戦争ではなく、自分たちが侵略戦争の側にいるのを知っているから、戦意は低いだろうし、そもそも、核保有国という立場に安住して、本気で訓練もしていないかもしれない。

それで、ロシアとしては東ウクライナの同胞が住む地域を軍事占領しつつ、キエフを包囲して首都と東ウクライナの連絡を遮断、さらに大統領府を占拠して傀儡政権を立てる、という筋書きだったに違いないが、どうもあまりはかどっていないらしい。アフガン侵攻と同じような失敗に終わる可能性も出てきた。

そうした場合、ウクライナは、売られた喧嘩なので、ベラルーシやロシアに侵攻する大義を有する。まずベラルーシに侵攻して新露政権を倒し、ベラルーシ、それからできればアゼルバイジャンなどとともに NATO に正式加盟した上で、モスクワに進撃すると良い。このとき、まずクリミアと東ウクライナを奪回するという作戦もあり得る。アゼルバイジャンとウクライナで挟み撃ちして黒海沿岸のロシア領を占拠するのも良いだろう。だが、モスクワを落とすか、その近郊まで進めば、ロシアはほぼ無条件降伏するか、核を使うしかなく、いずれにしてもそこで休戦となり、ウクライナは戦勝国として極めて有利な条件で講和することができるだろう。

などと考えるとわくわくしてくるね。

ウクライナ侵攻

わざわざメディアが予告した日に侵攻するかよって思う(笑)。今から侵攻しますよせーのってか、バカじゃないの。

宣戦布告はしなくていいの?パールハーバーみたいなものなの?訳わかんないね。

誰かがアメリカとロシアのプロレスと表現していたが、まあどうせそんなところだろう。ただドンパチ始めちゃうと突発的に、なんかのはずみで戦闘が拡大しちゃうかもしれないんで、そりゃ予測はつかんで。

ロシアが散々吠えて、ウクライナ政権がNATO加盟を先延ばしにする、ってのが落とし所だと思う。ウクライナは、プーチンが死ぬか、ベラルーシを味方に巻き込むかして、もう少し時間をおいてから NATO に加盟すりゃいい。そうなるとロシアの勢力圏は事実上ピョートル大帝よりもイヴァン雷帝よりも前まで小さくなって、単なる面積だけでかい、多少地下資源に恵まれた国になってしまうだろう。NATO はアゼルバイジャン、アルメニア、カザフやイラクあたりまで広がるかもしれない。そのうちロシアも NATO に入れてくれって言い出すかもしれない。それで良いじゃん別に。

そこまでロシアが衰退するのはプーチンが生きているうちは嫌だって思うだろうし、衰退するにしても急にハードランディングでは今までロシアにひどい目に遭ってた国に仕返しされちゃうから、徐々にいきましょうってことになってるんだと思う。

そこまで先読みすれば今戦争するのは全然得策ではないから戦争にはならんと思う。もし戦争になったらアフガンやシリアと同じ、正規の戦闘ではなくゲリラ戦やテロになってしまい、キエフもモスクワもみんなやられてしまう。めちゃめちゃ悲惨。だから戦争はしないはず。

ナポレオンやヒトラーはモスクワまでたどり着けなかった。アフガンも遠かった。だが、キエフならあっという間にモスクワまでいけるし、NATO に加盟したバルト三国からだってあっという間にいける。戦争を始めた瞬間に、モスクワの安全保障なんて消し飛んでしまう。だからロシアは怖くて戦争できないはず。戦争する気はないが国境に軍隊並べて威嚇することはできる。それがわかっててアメリカも派兵してるだけやろ。

結局ロシアはワルシャワ条約機構に代わるものを周辺諸国に提供できないまで落ちぶれたから仕方なく旧ソ連圏やイスラム諸国でさえも NATO に加盟してるわけじゃん。これは自然の成り行きで、 もう止めることはできないんだよね。プーチンもそれを止めようとしてるわけじゃない。できないし、やる気もないと思う。できないことをやるほどロシアはバカじゃない。

ダ・ヴィンチ・コード

病院の待合室に『ダ・ヴィンチ・コード』があったので読んでみたがわりと面白い。もちろん映画はDVDなんかで何度か見たことあるんだが、原作だとより細かなこだわりが描写されていてそこが興味深い。ただし欧米中心、特にアメリカ人がフランス文化に憧れて書きましたっていうスタンスが露骨で鼻につく(いやそんなふうに書かないとアメリカでは小説が売れないんですよねきっと)。ついつい、いや、欧米ではそうでしょうけどアジアはまた別ですよと突っ込みをいれつつ読んでしまう。世界一の美術館or博物館は、ルーヴルでもヴァティカンでもなくて台湾の故宮博物院だろうと思う。ルーヴルはブルボン家が蒐集した工芸品などの他は世界各地特にエジプトから収奪したもので埋められているが、故宮博物院は清朝が蒐集した中国5000年の財宝が収められている。比較にすらならんと思うのだが誰かちゃんと比較してみてほしい。

早朝出勤

近頃は夕方仕事が終わるとすぐに酒を飲む。早いときは15:00くらいから、遅くても18:30には飲み始める。そうして20:00くらいには寝てしまい、だいたい2:00くらいに一度目が覚める。そこでメイルを読んだりちょっとした仕事をして、勤務が遅い時は二度寝するけれども、朝のうちに電車で移動しなくてはならないときは5:00台の電車に乗り勤務地で眠ければ仮眠することもある。

酒と言っても最近はほぼウィスキーの炭酸割で、計算してみたことはないがたぶん缶ビールなんかよりは割安なのではないか。炭酸はセイユーかサングリアの一番安くて一番炭酸が強い1リットルのペットボトルを買いだめしている。外飲みはほとんどしなくなった。といってもそれまでに立ち飲みなどでハイボールをいろいろ飲み比べしたおかげで今は家で飲めるようになったのだが。 

アメリカ様は東欧に軍を派遣すると言い、しかし株は上がっている。まったく困った国だ。

年を取ると怒りっぽくなったり感情の起伏が激しくなるというのは実体験としてはほんとうだ。若い頃は特に好き嫌いなどなくなんでも受け入れられるがだんだん好きなものと嫌いなものが分離してくる。好きなものには喜ぶが嫌いなものには怒る。あと、他人に自分の作品を評価されるのが嫌になる。褒められればもちろんうれしいが貶されると腹が立ち、もう何も作りたくない気分になる。株は一人で勝手に遊べるから今のところは気分的に楽かもしれない。若い頃はどんなひどい騒音の中でも(ある程度までは)平気だったが今は聴覚過敏気味に気になる。一度気になるとそれがトラウマというかアレルギーとなって次からは耐えられなくなる感じだ。そういう精神的傷が年を取るごとにどんどん増えていき常に精神にダメージを与える。

某(リアル)スーパー、マスクしてない客が来るたびにコロナポエムをアナウンスするらしく、何度も何度もうるさい。駅構内のアナウンスも同じだ。同じことを何度聞かされなきゃいけないんだ。一度くらいなら気にもならないが、気になり出すともうダメだ。同じことを何度も繰り返されると腹が立つたちなのだろうと思う。

外食

近頃は外食がすごく嫌いになった。昨今のコロナ騒ぎで嫌気がさしたのもあるが、とにかく人混みの中で飯を食わされている感じが嫌。自分のペースで食べられないのが嫌。接客されても全然うれしくないし、その分金を取られるのが嫌。わざわざでかけて行くのが嫌。食べた後帰るのも嫌。なにもかもが嫌になった。

コロナでいえばいちいち体温測られたり手を消毒しろとか指図されるのが嫌。いいかげんにしろと言いたい。

困るのは人付き合いで、別に、店ではなく、コンビニかスーパーでつまみと酒買ってそのへんで飲み食いするのは全然かまわないんだが、世の中にはわざわざ高い金払ってなんか偉そうなところでもったいぶってかしこまって堅苦しくしゃっちょこばって窮屈な思いをして飯を食うのが好きな人がいてそれが困る。

仕事の会食でそういうフォーマルな席があるのは仕方ないとしてなんでプライベートまでそんな食い方せにゃいかんのかと思う。

外食と言っても自分のペースで10分とか長くても1時間で、空いてる頃合いを見計らって入ってさっと帰れる立ち飲み屋なんかはわりと拒絶反応は少ない。

もともとフランス料理や懐石料理が苦手だったがそれがさらに拡大した感じ。映画館でじっとしてなきゃいけないアレと同じ感覚。落ち着きがないんでね。じっとしてられないんだよ。そういう人種じゃないんだよね私は。

老後の趣味

定年が延長しない限り、あと8年くらいで仕事を辞めて隠居するわけだが、そうしたらもはや、本名と筆名を分けて活動する必要もないから、それ以降だんだんに統合していこうと思うんだけど、混ざらないように書くのも気をつかうが、一度名前を分けたものは、人格もある程度分離してしまっているので、それを一つにまとめるのも少し難しいかもしれない。
私が就職したのは、つまり賃金労働者になったのは世間よりかなり遅かったのだが、働き始めるとすぐに仕事のえり好みをするようになり、44才で絶えられなくなって、本名とは別に筆名の活動を始めた。
つまり、死後に残す業績として本名ではない別のアバターを必要としたわけだ。あと、これまで仕事の義理やなにやで書けなかったようなことも、自分の名誉を守るために、ある程度は書くつもりだ。
それで定年後の暇つぶしに何をやるか考えてみるに、小説はここ10年くらいでだいぶ書いて書きたいことはだいたい書いた気がする。
46才で心臓を患って2度入院したのだがそれは『安藤レイ』に書いたとおりだ。去年だから55才か、コロナの流行りかけにアブレーションの手術を受けた。おかげで成功して心房細動はあれ以来出なくなった。世の中ではカテーテル手術のことは手術と言わない、外科ではなく内科でやるのだが、受ける側にとっては全然手術と違わない。死ぬ確率はかなり低いがそれまでにどうしても残したい仕事は済ませておいたつもりだ。つまり急ぎの仕事はすべてもう片付いているはずで、後はオマケみたいなものである。その後『エウメネス6』を出してひとまず完結したから、後は手直し加筆はやるかもしれないが、よっぽど何か企画が持ち上がらない限り書かないと思う。
『エウメネス』とか『関白戦記』なんかを書くには1年では済まず、下手すると10年くらいかかるからかなり計画的にやらないとダメだ。

それで本名でやってる仕事のことはおいといて、筆名でやってる趣味で言えば、一番専門性が高いのは和歌だと思う。完全な独学だが40年近く続けていて小説にも採り入れ、『虚構の歌人 藤原定家』も書いたから、もう十分、歌人であるとか、歌学者と名乗っても良いはずだ。『虚構の歌人』を書いたあとはすぐにまたその続編を書きたくなったが、今はもう落ち着いて、あれはあれでもう完結したものと思えている。というか、あのときどういう心境であれを書いたか思い出すこともできないが、あれは我ながら良い作品だと思う。それに比べると『シュピリ初期作品集』は、ちょっと珍しい仕事だが、まあ普通くらいか。これも続きをやろうと他の翻訳も途中までやって放置している。

漢詩は和歌に比べれば素人に毛の生えた程度で46才に入院したときから始めた。今では作詩する人がほとんどいないのと、年寄りの遊びとしてはちょうどいいからやるかもしれん。年寄りには年寄りに向いた遊びというものがあるわけで、漢詩なら多少やらかしても、ああまたよくいる年寄りだと思われるので済むだろう。80過ぎてぼけてきても多少は許されるのではないか。これが他の趣味、たとえば歴史なんかだと晩節を汚すことになりかねん。年寄りはたいてい歴史にはまるがほとんど全員失敗してる。

定年後、では筆名と本名とどちらで活動するかといえば、そりゃまあ、筆名のほうが都合がよかろうが、文芸のうち和歌は筆名で、漢詩は本名でやってたもんだから、どうしようか。

エウメネス

エウメネス6は未だに全く読まれないのに、エウメネス1はちょこちょこ読まれるという現象が続いている。
とりあえず今後私にできることはエウメネス1の文章をできるだけ磨くことくらいだと思われる。
改めて読んでみるとまだ誤字があるのには驚かされる。
一太郎からWordに変換したことによって、いままで気づかなかった誤字が見つかるようになった。
人間の知覚は不思議なものだ。なぜ今までわからなかったのだろう。

小説は読まれない

今回『エウメネス6』を出してみて思ったのだが、私としては話を完結させねばならないという半ば義務感と、そろそろ決着を付けなきゃいつまでもきりがないという気持ちもあって書いたわけだが、待ち望んでいた人は誰もおらず、読みたがる人もいなかった、ということがほぼ明らかになった。
もちろんきちんと広報したわけではないので、もしかしたら第1巻から5巻まで買っていて、6巻が出れば買おうと思っていたがまだ気づいてないという人もわずかにはいるのかもしれない。そのうち気づいて買ってくれる人がいるかもしれない。でもまあそういう人は稀であろう。

これまで5巻まとめて買ってくれた人はたぶん「積ん読」で買ってくれたのか、あるいは、『ヒストリエ』の参考文献として必要な箇所が読めればよいと思ってまとめ買いしたのか、だいたいそんなところだと思う。

50万字の小説をわざわざ読む人はほとんどいないと思う。よほど話題になって読んでおかなきゃいけないかなと思って読む人はそりゃいるだろう。しかし私の場合はほとんど無名だ。50万字ちゃんと読む人がいるとはとても思えない。

エウメネス1~6

エウメネスを新人賞に応募したのが 2012年12月。
落ちたので kindle で出したのが 2013年。

その後なぜかエウメネスばかりが売れるようになり、といっても大したことはないのだが、他のはだいたい出して少し読まれたら失速していくんだが、エウメネスだけはぽつぽつ買われてて、続編が読みたいというレビューもあったんで、続編を書いた。
それでエウメネス2とエウメネス3を出したのが 2016年6月とか7月。

おそらくは『ヒストリエ』の副読本もしくは世界史の勉強のために読まれているのだろうと思う。それ以外あまり理由がおもいつかない。

それからエウメネス4とエウメネス5を出したのが2017年の8月とか11月。このへんからかなりフィクションを交えて膨らますようにした。というより、イッソス、ガウガメラあたりまでは勢いでかけるのだが、そこから先はエピソードを羅列しただけでは書きようがなく、フィクションで補間しないと話として成立しない。
ペルシャがまたよくわからない。少なくとも日本語の文献だけではほとんど何もわからず、日本人にも感心が薄いところ。でも、ペルシャを書かねばアレクサンドロスは書けないのだから、書けるようになるまでずっと構想を練っていた。それでやっと完結編エウメネス6を書けたのが 2021年8月。

アレクサンドロスの死やディアドコイ戦争については書く気はもともとなかったので、これでおしまい。

完結して、全6巻そろってこれからも順調に売れ続けるようなら出版社に話を持って行くなり、最悪自費出版でもしようと思ってる。
トータルで1万部も売れれば話に乗ってくるとこはあるんじゃないか、などと思ってるのだが、どうか。

エウメネス6は今までとはかなり違った構成になったと思う。村上春樹みたいに心象風景を延々と書くようなものを書いてみたかったが、結局そうはならなかった。
私の場合まず、歴史的な骨組みを書いて、そこに補助線を引いて増築し、そのあと心理描写などを肉付けするんで、どうしても「シンプルな文体」とか「シンプルな構成」になってしまう。

この先膨らますとすればどうしてもアマストリーが主人公になりそうないきおいで、でも以前にそれに近い『エウドキア』を書いてしまってるので、アマストリーについて書けば書くほど『エウドキア』に近づいていくだけだと思う。どうしても私が書くと話がそっちのほうへふくらんでいってしまうのだなあ。
登場人物の数は圧倒的に男が多いが女もけっこう出てくる。人物の描写で言えば男女半々くらいで、主要な女キャラも、オリュンピアス、アマストリー、ラオクシュナ、アパマ、シシュガンピス、バルシネ、アルトニス、ピュティオニケ、フリュネなど、ほかにもアルテミシア、シャンムラマートなどけっこういて、なぜ私がアレクサンドロスの小説を書くとこうなるのか、自分でも不思議だ。

2012年12月の原稿を今更ながら読んでみると、いかにも拙い。味わいが足りない。それでもこれが、少しずつでも売れたからこそ、手を加え、校正し、文章を練り直し、続編を書き、全部で50万字の作品になった。読者の反応がなければ書かないし、書けなかっただろう。
といって大してもうかったわけでもないし、読まれたわけでもない。
これからもっと読まれてくれると良いのだが。
しかし、ブログはやはり書き残しておくべきものだな。昔何やってたかもうすべて忘れてしまっているから。