俊頼髄脳、etc

歌論集 : 俊頼髄脳, 古来風躰抄, 近代秀歌, 詠歌大概, 毎月抄, 国歌八論, 歌意考, 新学異見 新編日本古典文学全集 (87)

非常に良くできた本だ。
密度が濃い。
原文と、解説と、ほぼ完全な現代語訳がついている。
原文にかぶせた註が茶色に着色されているのもすばらしい。
全集の中に埋もれているのが惜しい。
この「新編日本古典文学全集」は比較的後発のためか、あまり図書館には納められていないのだ。
新しいがゆえに完成度も高いのだろう。

『俊頼髄脳』が読めるのは事実上この本だけではなかろうか。
源俊頼によるこの歌論書は、
古今集仮名序や後拾遺集序などを下敷きにしつつ、
先行する公任による[新撰和歌髄脳](http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E6%92%B0%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%AB%84%E8%84%B3)をさらに長大精緻にしたものと言って良い。
公任や俊頼の時代の歌論は、後世の古今伝授のようないかがわしさがある。

> をののはき みしあきににす なりそます へしたにあやな しるしけしきは

これは句の頭の一字ずつ集めると「をみなへし」となり、句の終わりの一字ずつを逆に読むと「はなすすき」
となる。

> むらくさにくさのなはもしそなはらはなそしもはなのさくにさくらむ

これは回文。こういうトリッキーな例がいろいろ蒐集してある。
歌論としての深みはあまりない。
変なことを言っているところもある。
たとえば「安積山」は「あざかやま」と濁って読むべきだとか。
安積山は万葉仮名で「阿佐可夜麻」と書くことが出土した木簡などからも確認されていて、
「あさかやま」と濁らず読むのが正しいと思うのだが。
「あさかやま」と「あさきこころ」と浅いが繰り返されているのが歌の病だ、
歌の親が病んでいるのだから後代の歌は影響を受けないのだろうか、などと言っているのもおかしい。

『毎月抄』はやはり偽書であろう。
いろんな人の説があるようだ。
関連する『定家十体』も偽書だろう。
頓阿の『井蛙抄』あたりと関係あるか。やはり頓阿はあやしい。
ここらの偽書の話も今書いている本に盛り込もうかと思っていたが、
も少しちゃんと調べてから、きちんと書いた方がよさそうだ。

『俊頼髄脳』を読んでみると、
俊成がなぜ『古来風体抄』のようながちがちの天台教学的歌論を書いたかわかる気がする。
私はずっと『古来風体抄』は偽書ではなかろうかと疑っていたのだが、
法華経かぶれの俊成が年寄りの繰り言のようなこんな文章を、俊頼に対抗して書く可能性はあるなと思った。
俊成は俊成なりに、俊頼のようなぐにゃぐにゃした歌論を、
仏教思想に基づいてきちんと整理しなきゃいけないと考えていた。

定家は仏教と和歌を混ぜるようなうかつなことはしなかったが、
京極為兼が『古来風体抄』の影響をもろにうけて『為兼卿和歌抄』のような歌論を残したのは残念である。

『近代秀歌』『詠歌大概』は定家の歌論で間違いない。
『近代秀歌』の秀歌例に異同があるなと思っていたら、
前掲の本の解題にちゃんと解説があった。
歌論についてはあまり深入りせず今書いてるやつからは極力除こうと思うが
『近代秀歌』だけはちゃんと調べなきゃいけないなと思った。

定家の禅2

まったく終わる気がしない。
すでに四百字用紙換算で300枚超えている。
分量はもうそんなに増えないはずだが、書き換えが終わらない。話が収束しない。
調べ始めるときりがなく、
wikipedia と吾妻鏡の記述に矛盾があったりして困る。

余暇のほとんどを執筆活動に追われて、ツイッターとか書いてるヒマがない、のは良い傾向だ。

wikipedia の日本史は汚染されている。
読んでてすごく嫌だ。
特に仏教関係には捏造が多い印象。

定家の禅

藤原定家について書いている。
タイトルは仮に「定家の禅」。受け狙いでもあり、わりと本気でもある。

さくっと書き終えたと思ったが、調べているうちに知識が増えていき、
最初は推測で「かもしれない」などと言っていたところが、
確かな証拠を発見したりして、「なのだ」などと断言したり。
全体をまんべんなく加筆するのではなく一部がどんどんふくらんでいくので、バランスが崩れていき、
全体のテーマ自体が変わっていく。

先に古今集をやったから、次は百人一首の真相みたいなのを書こうかと思ったのだが、
定家個人が面白くなってきて、ある意味百人一首なんて、どうでもよくなってきた。
だれが読むのだろうか。
いずれにしても今回は紙の本で出す予定なので売れないわけにはいかない。
こむつかしい本ではなく、ある程度娯楽性のある本を書かねばならぬ。
基本的には、定家の時代の歌論書である。

定家は以前は嫌いだった。
今は割と好きになった。
定家は以前は勉強家の秀才だと思っていた。
今はある意味天才だと思っている。
少なくとも、若いころに「天命」に目覚めた人である。
癇癪を起して、発作的にやってるのではない。すべて確信的にやっている。
オタクとか、マニアとか、マッドなわけでも必ずしもない。
のめりこむ性格ではあったかもしれないが、必要に迫られて勉学に励んだのだと思う。

編集の人と相談して意外だったのは、
私のような門外漢でもネタしだいでは定家の本を書いて出版してもよいということだった。
ただ、筆名を田中久三以外にできないかと言われてやや戸惑った。
編集の考えることはよくわからん。

新古今集 後鳥羽院と定家の時代

これから読もうと思っているのだが、「天才帝王と空気の読めない秀才貴族」
という解釈は間違いだと思う。
後鳥羽院の宮廷で「空気を読む」ということはつまり自我を捨てて幇間になるということだ。
皇帝の前の宦官になれというのか?
だから北条氏と戦争して負けるんでしょう?
むしろ後鳥羽院が暴走して破滅するのを定家は予測してたんじゃないの。

どちらかというと
「空気が読めない裸の王様と、それなりに現実的でニヒリストな秀才貴族」というところか。
どちらも天才ではない。
後鳥羽院は天才というよりは狂人というべき。

いや、狂人というのも当たらないかも。
菊池寛に『[忠直卿行状記](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/501_19864.html)』
というのがあるが、この[松平忠直](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4)に近い。
御曹司にありがちな錯覚と狂乱(ただしこの小説は、忠直自身の行いに、古代中国の暴君の行いをモチーフに脚色したものが加わっており、忠直の人格を忠実に記したものではない、か。なるほどね)。

> 八番目の勅撰集『新古今和歌集』が編まれた時代は、和歌の黄金期である。新たな歌風が一気に生み出され、優れた宮廷歌人が輩出した。

これも大きな間違いだ。
黄金期というよりは一種の狂乱期。
すでにこの時期には宮廷以外のところに優れた歌人が現れ始めた。

> 未曾有の規模の千五百番歌合、上皇自ら行う勅撰集の撰歌、と前例のない熱気をみせながら、宮廷の政治と文化は後鳥羽院の磁力のもと、再編成されていく。

いや、それが狂気。
後鳥羽院の狂気。

> 後鳥羽院と藤原定家という二つの強烈な個性がぶつかりあい、日本文化の金字塔が打ち立てられていく時代の熱い息吹に迫る。

金字塔(笑)

この時代ほんとうの天才歌人は西行だけだ。
なぜみんなそんな簡単なことがわからんのか。
菊池寛ならわかるだろうに。

パソコンと図書館

図書館に行って新編国歌大観って電話帳みたいな本読みながら、和歌を俺様のレッツノートでメモろうとしたのだが、
持ち込みパソコンは専用のブースに行って使ってくださいみたいなこと言われて、
その専用ブースってのは違う階にあって、しかも席が限られている。

新編国歌大観ってね、でかくて重いんですよ?
禁帯出なんですよ。

もうね、図書館。
時代についていけてねーよ、ていうか、新編国歌大観をどうにかしろっ。
Windows 8 とか最新の OSでも動くようにしろよっ。
早く改訂版だしてくれ。

一太郎とword

久しぶりに一太郎ではなくWordを使ったんだが、wordはコピペするときリンクとか文字サイズとか色までコピペするじゃん。
そうするとネットからコピペするときうざくて仕方ない。
一応右クリックでメニュー出してテキストだけペーストとかできなくはないが、うざい。
一応Ctrl + Alt + V で選択できるが、うざい。

思えば MacOS 9 使っててぶちきれて二度とマック使わんわーと思ったのもこの件だった。
なんか回避策あるのかな、しかし今更マックなんか使わんが。

でまあ、一太郎だと、Ctrl + V は普通にテキストだけペーストなんですよ。

あとスクロールがね。
縦書きなのに縦スクロールするでしょ、word。うざいよね。
縦書きなら横スクロールして欲しいじゃないですか。

まー一太郎にも不満がないわけじゃないのだが、例えば横スクロールがページ単位で飛ぶとか勘弁して欲しいんだが、
それでもwordよりはまし。
今度から一太郎で書いてwordで提出するときはword出力するわまじで。

不便な方が便利なことってあると思うんだな。
自分がPCで使ってる機能ってそんな多くない。
それこそ1991年当時のワークステーションのGUIで十分とか思う。
ウィンドウシステムはSunViewで十分。
あとはコンテンツだと思うのよ。

あのぬるぬるするトランジションな。マックの。
あれのどこがいいんだよ。

北条泰時

北条泰時はすごく地頭がよかったのは確かだが、
ちゃんと子供の頃から勉強してなくては、和歌が詠めたり、御成敗式目を作れたりするようにはならないと思うんだよね。
そうすると、誰が泰時に学問を教えたのか、ということになるのだが、ざっと調べた限りではよくわからない。
泰時は1183年生まれ、源頼家が1182年生まれなので、泰時は頼家の学友だったのではないか。

頼朝はインテリだから、子供の頃から勉強しなきゃいけないってことはわかっていたはずだ。
だから頼家に京都から呼んできた教師を付けて学ばせたはずである。
その教師とは僧侶であったかもしれないし公家だったかもしれない。
しかし、頼家についてはほとんど何も記録が残ってない。

頼朝は泰時をかわいがっていた。
もともとは頼朝から一字もらって頼時という名前だった。
頼朝が死んだ後、泰時という名に変えた。
なぜ変える必要があったのか。これもさっぱりわからない。
いずれにしても頼朝にかわいがられたということは頼朝からも学問を教わったと思われる。

実朝も聡明だったのだから、頼家もある程度頭は良かったはずだ。
頼家は蹴鞠ばかりして泰時が諫めたという話がある。
事実かどうかはともかく、これなども、泰時が頼家と一緒に学問をしていた証拠になるかもしれん。
頼家が遊んでいる間も(学問好きな)泰時は勉強をしていたのではなかったか。

北条泰時をあらためてちゃんと調べなきゃなという気がしてきた。

嵯峨中院

明月記に現れる嵯峨中院というのはほんとうに宇都宮頼綱の山荘だったのか。
頼綱はすでに出家して御家人ですらないし、定家に頼んでふすま絵に揮毫してもらうほど、
立派な邸宅に住んでいたとは思えない。
またわざわざ定家が日記に書き残すようなこととも思えない。

障子とは今で言う襖であろう。常設の引き違いの襖というのはすでにあった。
障子色紙というのだから今の明かり障子ではなくて、襖に貼る紙であったはずだ。
襖が100枚というのはいかにも多すぎる。
襖100枚で囲まれる部屋というのは1辺が25枚として300畳くらいの大広間になってしまう。
ちと考えにくい。
頼綱個人の屋敷というよりはやはり幕府のために嵯峨に作られた別荘のようなものではなかったか。
そして定家に近い頼綱が仲介役になったのではないか。

頼綱に頼まれてというのは要するに幕府の依頼でという程度の意味なのではないか。
当然、西園寺公経という親玉がそこにはいる。
1235年当時の執権は泰時。おやまた大物が。
御成敗式目ができたのもちょうどこのころ(1232)。
泰時はときどき六波羅に来ていただろう。
六波羅は辛気くさいところだから嵯峨野の「別荘」あるいは「山荘」で遊ぶこともあっただろう。
定家は泰時の歌の師匠でもあったから、会ったこともたびたびあっただろう。
ひょっとすると泰時本人の依頼であったかもしれぬ。
うーむ。これはどうもフィクションに仕立てた方が面白いのではという気がしてきた。

襖の両面に貼ったとすると、98枚ならば半分の48枚。
48を4で割ると割り切れて12。
1辺が12枚の部屋は72畳。
あり得るな。

承久の乱

北条義時と西園寺公経は親しく、
後鳥羽院は公経を殺そうとしたと日本外史にある。
公経は頼朝に近く、おそらくは関東申次的な役職だった。
というより西園寺家が関東申次の家で、公経がその嚆矢であった。
公経は平頼盛の曾孫。

徳大寺公継と葉室光親も後鳥羽院を諫めた。
光親は光俊の父。
光親は後鳥羽院側の中心人物とみなされていた。

伊賀光季と大江親広は鎌倉幕府の京都守護。

藤原秀康・三浦胤義は幕府から朝廷側についた者。
三浦義村は胤義の兄。
胤義は使者押松丸をつかわして、後鳥羽院の院宣を義村にもたらした。
義村は直ちにこれを義時に知らせ、
幕府の御家人は少なからず動揺したが、
義村は幕府の武将として参戦し、胤義は討ち死にした。
西園寺公経と伊賀光季からもたらされる情報で幕府は速やかに動いた。
まあ要するに、幕府の御家人と幕府に味方する公卿は一枚岩だった。
後鳥羽院は切り崩しを図ったがうまく行かなかった。
ということだわな。

後鳥羽院側の公卿「合戦張本公卿」一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂は処刑。
一条信能は能保の子。ただし母は坊門姫ではなく遊女。
源有雅は後鳥羽院の寵臣。
葉室宗行と葉室光親の関係はよくわからんが葉室家は九条家の家宰のようなものだったらしい。
つまり九条家は明らかに後鳥羽院派で、これに対して西園寺家が幕府派であった、ということになる。
高倉範茂も後鳥羽院の寵臣。

坊門忠信は坊門信子(実朝の正室)の兄。

坊門信子も坊門姫と呼ばれていたらしい。それはわかるが、
頼朝の妹まで坊門姫と呼ばれたのはなぜか。
幼少の頃坊門家に匿われたということか。よくわからん。

こうしてみると、後鳥羽院側の九条良経

> きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む

と幕府側の西園寺公経

> 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり

の歌が百人一首に並んで採られており、かつ公経のほうが厭世観に満ちているのは興味深い。
九条家と西園寺家の「手打ち」的なものを感じさせる。
公経が中心的なネゴシエーターになったのだろう。

公経(1171-1244)の歌は新勅撰集(1232)に採られているから、
定家(1241死去)とも親しかったはずで、
かつ、歌の内容からして承久の乱の後に詠まれたものであろう。
新勅撰集成立時にちょうど還暦を迎えている。
「百人秀歌」の最後が公経の歌になっていることからも、
公経が、少なくとも続後撰集より前までは、
百人一首の成立にかなり深く関与していたと言える。
実に興味深い歌だわな。
やはり「百人秀歌」が「小倉百人一首」のプロトタイプだろうか。

小倉色紙成立は1235年だが、
何しろ関東申次なんで、最初から公経の歌が入っていた可能性は高い。

西園寺というのは今の金閣寺なのだな。

公経は入道前太政大臣と呼ばれているが太政大臣になったのは承久の乱の後。
出家したのはいつだかわからん。

ひとつ考え得るのは、公経と定家が生きているうちに、
小倉百人一首のプロトタイプ的なものはやはり出来ていて、
それが小倉色紙であり、百人秀歌であったかもしれない。
単に宇都宮頼綱が定家に依頼したというよりも、
幕府というか、関東申次の西園寺家からの要望があったのかもしれん。
それについて定家には異議のありようがない。
だが定家が選びそうもない凡歌が多数百人秀歌に含まれているのは確かであって、
最初はもっと少なかったのか、あるいは、
最初から百首あったとすれば、
定家の意見を参考にしつつたとえば公経自身が選んだと考えてもおかしくない。

しかしその後後鳥羽院派の九条家がのしてきていろいろと歌を付け足した。
それが小倉百人一首なのかもしれんね。

まあその後にもいろんな改竄があった可能性はあるわな。

九条良経と田安宗武

九条良経と田安宗武。
一人は藤原氏で一人は徳川氏だが、
この二人はある意味でよく似ている。
和歌をダメにした二大元凶といえる。

九条良経は和歌を権威主義のおもちゃにした。
田安宗武はそれを武家に都合の良いように作り変えた。
一方は惰弱、他方は空元気。

九条良経は歌が下手だったが題詠や本歌取りという手法でとりつくろった。
田安宗武も歌が下手だったが、万葉調という手法で取り繕った。
それぞれの時代の和歌のわからん連中はみなそれにならった。
題詠、本歌取り、万葉調、いずれも歌学者が門人を増やすためにこしらえた方便にすぎぬ。
これらによって、
和歌は大衆化し、同時に和歌は死んだ。

明治や昭和の歌壇も九条良経や田安宗武がやったのと本質的には同じ過ちを繰り返している。
かなり悪質だが、枝葉末節だからこのさいどうでもいいとして、
今私たちが和歌がダメだと言っていることの多くは、
九条良経と田安宗武という為政者による芸術への介入に遠く起因している。

万葉時代までの原始蓄積を光孝宇多醍醐三代が発展させた。
それが和歌の本質だ。