嵯峨中院

明月記に現れる嵯峨中院というのはほんとうに宇都宮頼綱の山荘だったのか。
頼綱はすでに出家して御家人ですらないし、定家に頼んでふすま絵に揮毫してもらうほど、
立派な邸宅に住んでいたとは思えない。
またわざわざ定家が日記に書き残すようなこととも思えない。

障子とは今で言う襖であろう。常設の引き違いの襖というのはすでにあった。
障子色紙というのだから今の明かり障子ではなくて、襖に貼る紙であったはずだ。
襖が100枚というのはいかにも多すぎる。
襖100枚で囲まれる部屋というのは1辺が25枚として300畳くらいの大広間になってしまう。
ちと考えにくい。
頼綱個人の屋敷というよりはやはり幕府のために嵯峨に作られた別荘のようなものではなかったか。
そして定家に近い頼綱が仲介役になったのではないか。

頼綱に頼まれてというのは要するに幕府の依頼でという程度の意味なのではないか。
当然、西園寺公経という親玉がそこにはいる。
1235年当時の執権は泰時。おやまた大物が。
御成敗式目ができたのもちょうどこのころ(1232)。
泰時はときどき六波羅に来ていただろう。
六波羅は辛気くさいところだから嵯峨野の「別荘」あるいは「山荘」で遊ぶこともあっただろう。
定家は泰時の歌の師匠でもあったから、会ったこともたびたびあっただろう。
ひょっとすると泰時本人の依頼であったかもしれぬ。
うーむ。これはどうもフィクションに仕立てた方が面白いのではという気がしてきた。

襖の両面に貼ったとすると、98枚ならば半分の48枚。
48を4で割ると割り切れて12。
1辺が12枚の部屋は72畳。
あり得るな。

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