おそらく百済人が天皇の国母となったことが主因となり、
多くの氏族が桓武に女御を入内させた。
同時にこの時期、藤原氏は天然痘の流行などの諸原因で奮わなかった。
桓武天皇で、天皇家は生物学的に多様化し、変質した。
外戚や摂関政治とは別の、大陸的な王朝が、
桓武天皇から始まる可能性があった。
しかし藤原氏に冬嗣が出て、皇位継承は再び、
飛鳥奈良時代のように、特定少数の外戚によって支配されるようになって、
良房以後道長までで摂関政治が完成する。
それで百済人や藤原氏以外の氏族が衰退していった理由は、
帰化が進んだためと、藤原氏が巻き返したからに違いないのだが、
ではなぜ藤原氏は、冬嗣は巻き返せたかというと、
冬嗣の母が百済人であったために、百済勢力は藤原氏の冬嗣と合体して、
言わば藤原氏の一氏族と百済人がハイブリッド化して、
摂家というものを作り出したのではなかろうか。
百済人は歴史から姿を消したように見えて、
実は外戚が藤原氏に収束する助けをし、
日本の上流社会に生き延びたのである。
高度な文化を持っていた渡来人だからこそできたことかもしれない。
彼らは日本に産業を興し、文明を発展させた。
藤原氏にしばしば見られるある種強引な政治駆け引きも、
実は大陸的政争のやり方がもたらされたものかもしれない。
と、考えると、やはり桓武天皇時代の外来文化の影響というのは、
今考えられている以上に大きかったと言わねばならないのではないか。
もし百済人(藤原氏)の影響がなければ、
しばらくの間、天武系と天智系の間で繰り広げられたような、
古い形の皇位継承争いが続いていたかもしれない。
摂家の異常な横暴さの理由はそのあたりにあるのかもしれない。
桓武天皇以来多くの皇子は百済系だった。
彼らは隠然とした摂家支持者だったかもしれない。
遍昭も良岑氏なので百済系。
源光(光る源氏?)も百済系。
冬嗣の父は藤原内麻呂、
母は河内系渡来人の飛鳥部奈止麻呂の娘・百済永継。
永継は冬嗣を産んだあと桓武天皇の愛人となって桓武良岑氏を産む。
桓武天皇と藤原内麻呂の関係が極めて良好であり、
かつその仲介役として百済人がいた。
紀名虎という人がいた。
彼は仁明天皇に娘種子を、
文徳天皇に静子を入内させた。
名虎は紀氏中興の祖であったが、
結局冬嗣・良房親子に負けた。
名虎の子・有常は急速に没落していき、
貫之や友則の時代の紀氏は、
藤原摂家にあごで使われる中流公家になってしまった。
紀氏には紀氏の文化があった。日本古来から続く文芸文化が。
しかし冬嗣にはその要素が乏しい。半分は大陸文化なのだから。
紀氏と在原氏が非常に接近した時代があった。その接点が有常だった。
紀氏、在原氏の他に奈良時代の文化を継承したのは、小野氏くらいか。
小野氏には篁と小町くらいしかいない。それ以外は忘れられてしまった。
伊勢物語や竹取物語、歌合などの過去との連続性を保った文化は、
紀有常というボトルネックを経て後世に伝承されたのに違いない。
有常の後継者として待ち構えていたのが貫之であった。