今度出る本

今書いてる本の企画が立ち上がったのは2023年7月のことでもう2年半が過ぎた。だが多分、3年目の今年はさすがに出そうな感じになってきた。

『虚構の歌人 藤原定家』を書いて、その次、翻訳もの(シュピリ初期作品集)を書いたけど、更に『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』を『神社発信』で連載させてもらい、その延長線上にある、歌人に関する評伝ものを書いているのだと、とりあえずそこまでは言っておこう。

そしてこの本はいままでのように田中紀峰名義ではなく、実名で出版しようという話で進んできたんだが、今になってやはり田中紀峰でいこうということになった。これは簡単に言えば食べ物食べ歩きブログを書いている編集長の意向ではあるのだが、私としては、60才過ぎたのを機会に筆名と実名の区別は無くしていこうと、つまり、今までは職場に迷惑がかかるかもしれないとか、本業に差し支えるといろいろ面倒だなというようないろんな思惑があって、筆名と実名を分けていたのである。

私はもともと fj (from japan) というニュースグループに書き込んでた 1991年くらいからネットには実名で書いていたし、1994年からは httpd を立ち上げてそこでも実名で書いていたが、実にうんざりすることがあってそれで tanaka0903 という ID を使うようにした。tanaka は何か日本人っぽいアノニマスな名前というだけのもので特別何か思い入れがあるわけじゃない。0903 は 2009年03月を意味して、それで久三としたに過ぎない。

それで芸術科学会誌DiVA創刊号はこちら)以来親しくさせてもらっていた社長に誘われてまず藤原定家について書かせてもらうことになり、「久三」という名前は良くないという無茶振りで代わりに考えたのが「紀峰」という号なのだが、これは南朝が隠れ住んだ紀伊山地のことを漠然と指しているのだが、これを社長が勝手に「のりみね」と読んだので、以後「たなかのりみね」という名前を使っている。

匿名じゃなくて実名にしようとした理由はもう一つあって、それは今度の本はとある近代歌人の評伝になるので、匿名で出版するのは畏れ多い、実名で正々堂々と書くべきではないかという気持ちがあったからだ。

だが今回も田中紀峰で出すということに同意したのは、もうこうなったら、田中紀峰も私の実名ですということにしようと思ったからだ。北斎だっていろいろ名前は変えて最後は画狂老人卍とかいうふざけた名前にして墓にはこの名前が刻まれているが、ともかくも、田中紀峰もまたこれからは私の実名だという気持ちでやっていこうという気持ちになった。

それで3年間も待たされてその間いろいろ加筆していくうちにだんだん方向性も結論も変わっていく。たとえば本居宣長はこういう人で賀茂真淵はこういう人だという設定で書き始めたのだが、書きながら調べていくうちに、やっぱりこの人はこういう人だったんだということに気付き、大幅に修正したりする。最初はごく簡単な記述だった箇所が気になって調べ始めていくうちに新しい章になるくらいに膨らんだりする。しろうと考えなところは後で突っ込まれるからと詳しく調べ始めるとそれはそれできりがなく、一人の評伝を書くつもりがいつの間にか複数の人の評伝の寄せ集めのようになりしまいには通史のようなものになりたぶんこのまま書き続けたら世界史のようなものになってしまうかもしれん。

そうすると一冊の本としての体裁が崩壊してしまうので、なんとかそうならんように手直ししたりしているうちに文章の量もとんでもなく増えてしまった。とはいえ今のところまだ分冊にするほどではないと思うが、おそらく情報がきちきちに詰まりすぎていて読むのが大変だと思う。読んで面白い、いくらかは売れる本にしたいのだが(売れ筋の本を書く気はもともとないが)、何しろだんだん感覚が麻痺してきて、いったいいま自分は何を書こうとしているのか自分でも朦朧としてわからなくなってくる。

面白い経験はさせてもらったなと思いつつもまた一冊の本を三年かけて書くなんてことはもう二度とやりたくないとも思う。実を言えばもう新作は書く気があまりない。社長は三部作でもう一つ出せなどと言ってくれてはいるのだが、kindleで出した旧作の手直しをしているだけで人生終わりそうだし、これから頭がぼけてくるともうまともな本は書けそうもない気もしている。老後の日々のエッセイ的な軽いものならともかくとして。

今書いているものをとりあえず新書程度の分量まで削って新書として出すというのもありかなという気もしなくもないのだが、社長は新書は出したくないという。

人の言うことは聞かずに書いているようで実はかなり気にしていて(なにしろ国文というものは私の専門でもなんでもないから)、それで調べ直したりするとまた一冊の本としてのバランスが崩れる。国会図書館デジタルコレクション(以下勝手に国会デジコレと略す)で調べ始めるとこれまた切りがない。24時間365日調べ放題だから、今まで読んだことのない本が芋づる式に見つかってとても困る。ともかくこのデジコレが無いことにはもう私は執筆活動なんかできない。逆にいままでの人はどうやって本を書いてきたのだろうか。シュピリ翻訳ものにしても google翻訳がなければ私には書けなかった。今のAIはもっと賢いだろうからシュピリの翻訳も続けられないこともないのだが、かつてのような気力もモチベーションももはやない。

だがしかし実名と筆名を見境無く混ぜるということは(たとえばここに私の実名を書いてしまうとか)まだやらない。本がものすごく売れたりとか、ウィキペディアに筆名が載ったりするくらいまで有名になればやらんでもないが、無名に等しい名前をあれこれ自分語りしても仕方ない。

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