願はくは 花のもとにて 千代も経む そのきさらぎの 盛りながらに
これは宣長の歌で、明らかに西行の歌
願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃
を本歌としたものである。宣長らしいおもしろい返し方だ。上田秋成が、宣長の
敷島の 大和心を ひと問はば 朝日ににほふ 山桜花
を批判しているのだが、
大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。 おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。 おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。
宣長は、賀茂真淵や平田篤胤とはまったく違う意味に「大和心」「大和魂」という言葉を使っていた。「大和心」「大和魂」がもともと源氏物語や赤染衛門の歌に出てくるように、それはもとはといえば女言葉であり、平安時代の日本の女性的な心をさすものであった。特に「漢学」に対する言葉だった。宣長はもちろんそういう意味で使っている。漢心(からごころ)、漢才(からざえ)に対して大和心という言葉を使っている。そのことを指摘したのは小林秀雄だったと思うが今ちょっと良く思い出せない。
宣長が「大和魂」などという言葉を使ったのだろうか。使った可能性もあるが、それは「たをやめ」の「弱く女々しい心」という意味に使ったはずだ。敷島の大和心とは何かと人に問われれば、それは「朝日ににほふ山桜花」をひたすら愛でる、私のような、女々しい心のことだ、と解釈しなくてはならない。宣長が詠んだ大量の桜の歌をみればその気持ちを補完できるだろう。
宣長は復古神道の創始者(の一人)ということになってしまった。だから「敷島の」の歌も誤解されている。秋成も誤解した。ただし秋成は「正しく誤解」している。つまり宣長があんまり外国よりも日本を崇拝するのが気持ち悪いという意味で言っている。宣長にしてみれば国学の重要性を強調したいが故に、極端な表現をした。それくらい当時の漢学崇拝は空気のように自然であり、宣長は孤立無援だった(ある意味今も宣長はほとんど誰にも理解されていないという意味で孤立無援である)。
しかし宣長の弟子の国学者たちは「間違って誤解」した。大和心、大和魂を日本男子の猛々しい心だと考えた。平安時代より前の武人の心だと解釈した。
そしてその誤解が宣長を余計に有名にしてしまった。すべては後の世の人たちの仕業である。
ちなみに和歌のことを「敷島の道」などと詠み始めたのは足利尊氏ではないか。少なくとも彼がその一人であるのは間違いない。尊氏も武士からぬ女々しい和歌を詠んだ。大量に詠んだ。室町時代に勅撰集がやたらと作られたのは尊氏のDNAのせいだろう。彼が和歌好きだったのは間違いない。実は周りの武士団が勇ましいだけで、その真ん中にいた尊氏はほんとに女々しいだけの人だったかもしれないと思う。
追記:昔の記事を読み返すとほとんど同じことを書いていた。国意考。ついでに敷島の道。