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Auf diesem schmalen Bergpfade stieg am hellen, sonnigen Junimorgen ein großes, kräftig aussehendes Mädchen dieses Berglandes hinan, ein Kind an der Hand führend, dessen Wangen so glühend waren, dass sie selbst die sonnverbrannte, völlig braune Haut des Kindes flammend rot durchleuchteten. Es war auch kein Wunder: Das Kind war trotz der heißen Junisonne so verpackt, als hätte es sich eines bitteren Frostes zu erwehren. Das kleine Mädchen mochte kaum fünf Jahre zählen; was aber seine natürliche Gestalt war, konnte man nicht ersehen, denn es hatte sichtlich zwei, wenn nicht drei Kleider übereinander angezogen und drüberhin ein großes, rotes Baumwolltuch um und um gebunden, so dass die kleine Person eine völlig formlose Figur darstellte, die, in zwei schwere, mit Nägeln beschlagene Bergschuhe gesteckt, sich heiß und mühsam den Berg hinaufarbeitete. Eine Stunde vom Tal aufwärts mochten die beiden gestiegen sein, als sie zu dem Weiler kamen, der auf halber Höhe der Alm liegt und ‘im Dörfli’ heißt. Hier wurden die Wandernden fast von jedem Hause aus angerufen, einmal vom Fenster, einmal von einer Haustür und einmal vom Wege her, denn das Mädchen war in seinem Heimatort angelangt. Es machte aber nirgends Halt, sondern erwiderte alle zugerufenen Grüße und Fragen im Vorbeigehen, ohne still zu stehen, bis es am Ende des Weilers bei dem letzten der zerstreuten Häuschen angelangt war. Hier rief es aus einer Tür: “Wart einen Augenblick, Dete, ich komme mit, wenn du weiter hinaufgehst.”

細い山道をたどって、晴れた六月の朝、この山に生まれ育った背の高い娘が、一人の女の子の手を引いて登っている。女の子の頬は、すっかり日に焼けた茶色の肌を通して真っ赤になるほどほてっている。暑い六月の日差しにもかかわらず、女の子は寒さを耐え忍ぶためのように、厳重に厚着させられている。その子はまだ五才になるかならないかくらいだったが、二着も三着も重ね着した上に、赤い木綿の布を巻き付けられていたので、実際にはどのような体型をしているのかわからぬほどで、その上、鋲を打った重たい登山靴を履いていた。二人は谷間から一時間余りも登って牧草地の中腹、アルムにある「デルフリ」と呼ばれる集落に着いた。ここで二人の訪問者は、道ばたや、窓や戸の中から、いちいち村人らに声をかけられた。というのはここはその娘の生まれ故郷だったからだ。娘は立ち止まらずいちいち挨拶に返事をしながら、家並みがまばらになった集落のはずれまで来た。ここで誰かが戸口の奥から声をかけた。「ちょっと待ってよ、デーテ。あんたがもっと上までいくんなら私がいっしょについていくからさ。」

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Zum Alm-Öhi hinauf

Vom freundlichen Dorfe Maienfeld führt ein Fußweg durch grüne, baumreiche Fluren bis zum Fuße der Höhen, die von dieser Seite groß und ernst auf das Tal herniederschauen. Wo der Fußweg anfängt, beginnt bald Heideland mit dem kurzen Gras und den kräftigen Bergkräutern dem Kommenden entgegenzuduften, denn der Fußweg geht steil und direkt zu den Alpen hinauf.

アルムおじさんの山小屋へ登る

気さくな村人らが住むマイエンフェルトから一本の杣道が木立の多い緑野を抜けて、雄大な渓谷を見下ろす丘の麓まで伸びている。その道をたどり始めるとすぐに、たけの低い草や野生の山草が生い茂る藪からかぐわしい香りがただよってきて、さらにその道はまっすぐに険しいアルプスの上まで続いている。


zu は場所へ、hinauf は上へという意味だからそのニュアンスを出すには意訳するしかないか。

kräftig は強い、というより、たくましい、野生の、という意味だろう。

Bergkräuter、Kraut には薬草、香草、香辛料となる草、つまりハーブという意味もあるが、ただの葉、あるいはキャベツの意味もある。ここでは単に山草と訳した。

作者ヨハンナにとって、マイエンフェルトは土地勘のある場所ではなかったはずだ。鉄道が通り、駅が出来、ふるくからある修道院の湯治場が開発されてラガーツ温泉という保養所ができて、それでヨハンナはチューリッヒから汽車に乗ってマイエンフェルトに訪れることになった。そうして初めてヨハンナはこの地で小説を書くために現地の人たちから取材をした。そういう意味で、この freundlich は、普通の田舎の村や町がよそものに対して「閉鎖的」で「親しみにくい」のに対して、マイエンフェルトやラガーツ温泉が、「観光客」であるヨハンナにとって、「開放的」で「親しみやすい」、というような意味合いであったはずだ。このようなニュアンスの差はヨハンナが書いた他の小説の冒頭と比較してみればもっとわかりやすいと思う。ここでは無難に「気さくな村人らが住む」と訳してみた。そんな気さくな村人の典型がデーテやバルベルだというわけだ。

ヨハンナはみずからファンタジーを好んで書く人ではなく(そのような需要やリクエストは多かったに違いないが)、その描写はいつも克明で具体的でリアルだが、翻訳の段階で多くは「夢の国」「子供の楽園」スイスというファンタジー要素が付加されてしまっているように思われる。

あほなAIにあほなマーケティング

最近、エウメネスの売り上げが落ちてきているのだがこれにはいろいろ思い当たるふしがある。

私の小説の中でエウメネスだけが割と読まれていた。それほどの収益にはならないが、売れ続けているということで、書き続けよう、完結させようという気にさせてくれた。

なぜエウメネスだけが売れ他は売れないかというからくりにはもうとっくに気づいている。「ヒストリエ」というマンガがあり、その主人公がエウメネスで、エウメネスについてもっと知りたいという人がネットかアマゾンで検索すると割と上位に私の小説がでてきて、それで読まれていたというわけだ。私がエウメネスを書いたのはいつだったかこまかなことはすぐには思い出せないが、エウメネス1をkindleで出したのは2013年。つまりkindleが始まってすぐに出したわけだが、この頃はエウメネスに関して書かれた書物はほぼなかったから、自然と私の小説が読まれることになったわけだ。

私は別に「ヒストリエ」を意識して、ましてやそのマーケティングに乗っかろうと思って「エウメネス」を書いたわけではない。逆に、なぜ「エウメネス」だけ売れるのか調べていて「ヒストリエ」の存在、というか内容を知ったのである。「ヒストリエ」がなければ私の小説が読まれているはずがない。内心忸怩たる思いはありつつ、しかしもしかしたらごく一部の人は私の小説を愛好してくれているかもしれない、「ヒストリエ」をきっかけに私の小説を知るきっかけになってくれたら、というつもりで書き続けていた。

しかしながら最近は最初から「ヒストリエ」を意識してエウメネスを書籍化したものがたくさん出てくるようになり、まとめサイトもでき、自然と私の小説が検索上位に上がってくることはなくなった。そりゃそうだとおもう。私の『エウメネス』は書きも書いたり。50万字を超える大長編になってしまった。エウメネスとは何かってことをただ手っ取り早く知りたい人が読むようなものではない。

しかも最近はアホのAIまで出てきてネットに散らかっているいろんな情報を適当にまぜあわせそれっぽい文章にしてアップロードし、それをまた後発のAIが学習して、さらに意味不明な記事を書き散らかす。インターネットというものがでてきてまだ30年くらいしかたってないのにインターネットはここまで荒廃した。

だから私が今後やるべきことはそんなけちな了見の「あほなまとめサイト」「あほな書籍」「あほなAI」と真逆のことをして、今度こそほんとの読者を獲得するってことだと思っている。

「エウメネス」は最初「メガス・バスィレウス」、つまり「大王」というタイトルで、誰が主人公というわけでなく、エウメネスに相当する人物の名は「ニコクラテス」という名前で、ニコクラテスとアレクサンドロス大王が対話する三人称小説だった。なんでニコクラテスという名前だったかといえば、たぶん、アテナイでありふれた名前だったからだろう。なんでエウメネスに変えたかと言えば、アレクサンドロス大王について、も少し詳しく調べて、ニコクラテスという架空の人物、しかもアテナイ人ではなくて、マケドニア人の誰か、もしくは、王が王太子だったときからの側近を一通り調べて、秘書官となったエウメネスが一番私の趣味に合ったからだと思う。なんでエウメネスの一人称小説にしたかというとたまたまその頃、一人称小説を書くのに凝っていて、今もほぼ一人称で私は書くのだけど、王のそばでいつも王を見ている、ごく平凡な人を仮の主人公(視点)にし、読者をエウメネスに感情移入させることによって、実質的な主人公(視られる対象)である王を客観的に描きたかった。

つまりこの小説は、実質的には、王を描く三人称視点の小説なんだが、そこに読者の依り代となり、読者の目や耳の代わりとなるエウメネスがいて、読者の視点は完全にエウメネスの内側に置かれていて、読者はエウメネスというカメラを通じて王を観察する。そういう体裁上、これは一人称小説になっているわけで、必ずしも主人公の体験を主観的に描いている小説(たとえば私の小説で言えば安藤レイとか)とか私小説というわけではない。

エウメネスは剣客でもなければ妖術使いでもない。王もそう。私はそういうものには興味無いし書く気にもなれないし、そういうものが好きな人を読者に持ちたいとも思わない。歴史というものが、過去から未来へ、必然的に進展していく。私はそういう歴史小説が書きたいわけで、そこに魔法とか奇跡とか宗教を持ち込むと、じゃあなんでもアリじゃん、作者の好きな方向にいかようにも話をもってけるじゃんてことになり、歴史にならんのだよ。

エウメネス

エウメネス6は未だに全く読まれないのに、エウメネス1はちょこちょこ読まれるという現象が続いている。
とりあえず今後私にできることはエウメネス1の文章をできるだけ磨くことくらいだと思われる。
改めて読んでみるとまだ誤字があるのには驚かされる。
一太郎からWordに変換したことによって、いままで気づかなかった誤字が見つかるようになった。
人間の知覚は不思議なものだ。なぜ今までわからなかったのだろう。

エウメネス1~6

エウメネスを新人賞に応募したのが 2012年12月。
落ちたので kindle で出したのが 2013年。

その後なぜかエウメネスばかりが売れるようになり、といっても大したことはないのだが、他のはだいたい出して少し読まれたら失速していくんだが、エウメネスだけはぽつぽつ買われてて、続編が読みたいというレビューもあったんで、続編を書いた。
それでエウメネス2とエウメネス3を出したのが 2016年6月とか7月。

おそらくは『ヒストリエ』の副読本もしくは世界史の勉強のために読まれているのだろうと思う。それ以外あまり理由がおもいつかない。

それからエウメネス4とエウメネス5を出したのが2017年の8月とか11月。このへんからかなりフィクションを交えて膨らますようにした。というより、イッソス、ガウガメラあたりまでは勢いでかけるのだが、そこから先はエピソードを羅列しただけでは書きようがなく、フィクションで補間しないと話として成立しない。
ペルシャがまたよくわからない。少なくとも日本語の文献だけではほとんど何もわからず、日本人にも感心が薄いところ。でも、ペルシャを書かねばアレクサンドロスは書けないのだから、書けるようになるまでずっと構想を練っていた。それでやっと完結編エウメネス6を書けたのが 2021年8月。

アレクサンドロスの死やディアドコイ戦争については書く気はもともとなかったので、これでおしまい。

完結して、全6巻そろってこれからも順調に売れ続けるようなら出版社に話を持って行くなり、最悪自費出版でもしようと思ってる。
トータルで1万部も売れれば話に乗ってくるとこはあるんじゃないか、などと思ってるのだが、どうか。

エウメネス6は今までとはかなり違った構成になったと思う。村上春樹みたいに心象風景を延々と書くようなものを書いてみたかったが、結局そうはならなかった。
私の場合まず、歴史的な骨組みを書いて、そこに補助線を引いて増築し、そのあと心理描写などを肉付けするんで、どうしても「シンプルな文体」とか「シンプルな構成」になってしまう。

この先膨らますとすればどうしてもアマストリーが主人公になりそうないきおいで、でも以前にそれに近い『エウドキア』を書いてしまってるので、アマストリーについて書けば書くほど『エウドキア』に近づいていくだけだと思う。どうしても私が書くと話がそっちのほうへふくらんでいってしまうのだなあ。
登場人物の数は圧倒的に男が多いが女もけっこう出てくる。人物の描写で言えば男女半々くらいで、主要な女キャラも、オリュンピアス、アマストリー、ラオクシュナ、アパマ、シシュガンピス、バルシネ、アルトニス、ピュティオニケ、フリュネなど、ほかにもアルテミシア、シャンムラマートなどけっこういて、なぜ私がアレクサンドロスの小説を書くとこうなるのか、自分でも不思議だ。

2012年12月の原稿を今更ながら読んでみると、いかにも拙い。味わいが足りない。それでもこれが、少しずつでも売れたからこそ、手を加え、校正し、文章を練り直し、続編を書き、全部で50万字の作品になった。読者の反応がなければ書かないし、書けなかっただろう。
といって大してもうかったわけでもないし、読まれたわけでもない。
これからもっと読まれてくれると良いのだが。
しかし、ブログはやはり書き残しておくべきものだな。昔何やってたかもうすべて忘れてしまっているから。

エウメネス再考

10年以上続けてみないと見えてこないものはあるわけで。2013年にkdpで『エウメネス』を出して、以来、なぜか私が書いたものの中で『エウメネス』だけが読まれ続けていて、なぜかなと思って調べてみると、エウメネスを主人公とする漫画『ヒストリエ』があり、ああ、『ヒストリエ』を読んだ人がついでに私の小説にも興味を示して読んでくれているのだろう、とそのときは納得していた。
そのままずっとそれで納得してたのだが、最近は、必ずしもそれだけじゃないんじゃないかと思い始めた。
私が書いたもので比較的継続して読まれているものには、カクヨムで出している『伊勢物語』がある。この『伊勢物語』と『エウメネス』に共通しているのはどちらも娯楽ものというよりは教養ものという性質の読み物であるということ、学習参考書的な性質を持っているということだと思う。
思うに、『ヒストリエ』を読んでアレクサンドロス大王に初めて興味を持った、という人はおおぜいいるに違いないが、そうでなくとも、アレクサンドロス大王に興味を持つ人はいるに違いない。世界史を学んでいて、『ヒストリエ』を参考にしようとしても、『ヒストリエ』は時代考証的にはかなり怪しいので、楽しみながら読めてもう少し役に立つ読み物はないかと探すと『エウメネス』にたどり着くのではないか。
あとはやはり、アマゾンでポジティブなレビューがついているのはやはり大きく、ときどきランキングで浮上して目に付くというのもかなり効いていると思う。
古代ギリシャものというのは古代ローマものと同じくらいに日本人には人気が高い。ギリシャものを読みあさっていくと、アレクサンドロス大王についてしっかり書いたものはそれほど多くはない。塩野七生も『ローマ人の物語』の二番煎じで『ギリシア人の物語』というものを書いた(書かされた)が、このできがあまり芳しくない。いろんな意味で不満が多い。少なくとも私としては。
これが英語圏の書籍であればアレクサンドロス大王について書いた本はゴマンとあって無名の作家が書いても埋もれてしまうのかもしれんが、日本語だとあまりない。あったとしても、断片的で、全体をざっと俯瞰し網羅するのに向いてなかったりする。あるいは逆に、概要だけで詳細がつかめないとか。
日本語でギリシャものといえば、神話とかアテナイとかあのへんのやつばっかりで、アレクサンドロス大王とかマケドニアあたりは案外手薄だ。
今はウィキペディアがあるから手間をかけて調べようと思えば別に小説を読む必要はないのだが、時間かけてあちこち調べるよりも手っ取り早くまとまった本を読みたい、という需要はやはりあるはずだ。
つまり、需要はあるが供給がない状態、ブルーオーシャンになっているのだろうと思う。
『伊勢物語』に関していうと、たぶん、これは高校生や受験生が見に来ているのだと思うが、ほかにも似たようなサイトはいくらでもあるのだけどたまたま、カクヨムだと検索の上位に来やすいとかそういう理由で見にきているのではなかろうか、と思う。極めて残念なことながら『伊勢物語』を読んだあとにカクヨムにおいてる他の私の作品も合わせて読まれているという傾向はほとんど無いと言って良い。
カクヨムでいうと『六波羅殿御家訓 現代語訳』もなぜかかなり読まれていて、といっても『伊勢物語』に比べると1%くらいだが、こういうものにはある一定の需要があることがわかる。

『エウメネス』を読んだ後にたとえば『エウドキア』などを読んでくれていることは、まったくないわけではなさそうだが、しかし、私の著書を一通り全部読んでみようという人は、まだおそらく、ごくわずかしかいない。
つまり私は、教養ものとしてはまあそこそこ読まれてはいるものの、娯楽ものとしてはほとんど需要がない、という状態にある。カクヨムだとあるところまでは読まれるが、それ以後ピタリとPVが止まる。それはkindle本でも同じように言える。読まれないものは永久に読まれず、埋もれてしまい、存在しなかったことにされてしまう。
10年近く小説を書いてみてわかったのはそういうことだ。また、10年続けてて少しずつ認知はされてきているのだと思う。

いつかパタッとPVが止まるのではないか、というのは恐怖で、逆に、今後もじわじわPVが続く、というのはとても心強いものだ。
とはいえ、一番売れてる『エウメネス1』でさえ、実売は500冊くらい。しかし、これが今後1000冊、2000冊となったらどうか。出版社に持ちかければ書籍化してくれるかもしれない。
まったく無名の作家が広告費もかけずに500冊売ったということにどれくらいの可能性があるものだろうか。

メガス・バスィレウス

『エウメネス』の一番初期の草稿を読んでみたのだが、まず、タイトルが『エウメネス』ではなく『メガス・バスィレウス(大王)』になっていて、一人称ではなく三人称になっていて、エウメネスではなくて、アテナイ出身の貴族ニコクラテスという人が主人公になっている。いやそもそもこのニコクラテスなる人物は主人公というほどでもなく、王の次くらいに主要な登場人物というにすぎない。 アマストリーもまだ出てこない。 拙い、5000字足らずの草稿のようなものだが、『エウメネス』のエッセンスはとりあえず最初からここにそろってる。沙漠の話しかしてない。アッリアノスの『東征記』を読んで一番面白かった箇所を抜き出して小説風に脚色しただけ。これを多少膨らまして中編小説としてどこかの新人賞に応募したが、何の反応もなかった。

※追記: 今は全6巻、文字数は、1巻平均10万字として、50万字は軽く超えてるだろう。よくまあ書いたものだ。もはや自分でも読もうと思っても読めないくらい長い。

以下にその最初期の草稿全文を公開する。

メガス・バスィレウス

田中久三

アフガンの山岳地帯を抜け、ペルセポリスへ向かう途中に、ペルシャ高原でも一番に過酷な砂漠が横たわっている。その東半分は塩の平原。太古の昔、カスピ海やアラル海のような、閉ざされた塩辛い海が広がっていたのだろう。さらに西へ進めば、砂の砂漠。塩と砂の他には、不毛の岩山がそびえているだけ。あとは何もない。

「ところどころにオアシスくらいあるだろう。砂漠というところは、要するに、飛び石のように点在するオアシスをたどってゆけば越せるはずだ。」

王は砂漠の案内人らに尋ねた。

「この砂漠には、十日もの間一つの水場もない箇所があります。越えることはできません。」

「なんだ、たったの十日間か。キュロス王であればこの砂漠を越えただろう。」

案内人の一人が遠慮がちに答えた。

「我がペルシャ帝国建国の祖キュロス王とて同じです。」

「ではダレイオス大王ならば越えたであろうか。」

「いいえ。この砂漠は誰一人として生きては返しません。この砂漠を越えられぬことを、我がダレイオス大王自らが立証したのです。」

「ほう。おまえたち、どう思う。」

幕下に参集した指揮官たちは、一様にうつろな眼をしていた。打たれ強い、というよりは、あまりに打たれすぎて惚けてしまったようだ。 ニコクラテスという男がたまらず口を挟んだ。彼はマケドニア人ではない。アテナイ人である。彼はたびたび王に諫言をなした。王もそれを許した。

「おお、我らが王よ、バスィレウスよ!沙漠行は確かに我ら自らが望んだことでありました。一日も早く故郷に西帰するために。しかし今一度お考え直しください。」

かつて王は聖なる川ガンガーの岸辺でマケドニアの将兵らを集めて言った、

「ヘタイロイたちよ。我ら全員が乗れるほどの船を調達し、この川を下ってそのまま東の海へ出でて、アジアの海を一巡りして、カスピ海に戻ってこよう。船旅もまた面白そうではないか」、と。

いつも従順なマケドニア兵たちも、このときばかりは抵抗した、首に縄を付けられ、岐路で嫌いなほうへと導かれる散歩途中の飼い犬のように、身をくねらせ足を踏ん張って。

王は考えた。ニネヴェのアッシュールバニパル図書館で見た世界地図によれば、ガンジス川の河口からシナの海とカスピ海はつながっていた。シナもアフリカの奥地もカザフ平原もきわめて矮小に描かれていた。我らは苦も無くそれら全世界を経巡ることができる、と。しかし、兵卒らの本能は察知していた、「世界がそんなに小さいわけはない。海や大陸はどこまで続いているかもしれない。生きてマケドニアまで戻れる保証はない。」

王は言った。 「よろしい。ではアジアの海を航海するのと、ペルシャの沙漠をよぎって帰還するのでは、どちらがよいか。おまえ達が好きな方を選べ」と。

「我らは皆、東の海よりは西の沙漠の方がましです、後生ですから、沙漠に行かせてください。」

王はニコクラテスに向き直り、栗色の縮れ毛の下に光る、その黒い瞳をみつめて言った。

「私はペルシャのキュロス大王よりも偉大だろうか。」

ニコクラテスは答えた、

「もちろんでございます。王より偉大な王はこの世界にはおりません。」

「では我らマケドニア人がはじめてこの砂漠を越えてみせようではないか。キュロス王やダレイオス大王よりも、我らが偉大で強いことを後世に伝えるために。」

ニコクラテスはめまいがした。王はまったくひるまない。むしろ闘志を燃やしていた。

「ペルセポリスはまさしくこちらの方角か。」

「王よ。その通りです。しかし交易路はずっと北を迂回しております。まっすぐに砂漠を抜けることはできません。」

ニコクラテスの父はアテナイの貴族で書記官だった。王の父フィリッポスはアテナイやテーバイからなるギリシャ連合軍をカイロネイアの戦いでうちやぶり、マケドニアが全ギリシャの盟主となった。アテナイはマケドニアの要請に応じて、ニコクラテスを王の旅団に派遣した。以来彼は、いつ果てるともしれぬその大遠征 に従い、王の記録係を司っていた。立場上、王の相談役となることもあった。しかし、彼の意見が取り入れられることはなかった。王は何事も自ら即決するの だった。この王ほど参謀を必要としない王はあるまい。

王はもちろん気が狂っている、と彼は思う。

「四の五の話していても埒があかぬ。そろそろ行こうではないか。」

王は常々、インド人が乗る象ほども巨大な、スィリア産の白馬プケパラスに乗馬していた。しかし今、みずから鞍を外して荷駄を載せ、自分は徒歩で、プケパラス の手綱を引いて塩の海へと歩みだした。全軍が魔法にかかったように、すっくと立ち上がり、王の後について歩き出す。ニコクラテスはもはや驚かない。ただ、 王だけではない、マケドニア人はみな気が狂っている、そう思った。

分厚い岩塩の下には、ときおりコールタールのように真っ黒で腐った水がたまっていた。馬やらくだが塩を踏み抜いておぼれてはたいへんだ。案内役は注意深く、全軍を安全なルートに導く。

「次のオアシスまで、あと5日の行程です。」

日の出とともに進み、日の入りとともに野営する。それを3回繰り返したら、涸れた塩の湖がついに尽きて、標高が1スタディオンもあるかという、砂丘が現れ た。足が熱砂に膝まで埋もれた。一つ砂丘を上るとそのいただきから次の砂丘が見える。その砂丘に上ってもただまた次の砂丘が見えるだけだ。

「今日の野営地はここだ。」

皆は砂丘の斜面をベッドに寝た。王もまた兵士らとどうように直に砂の上に寝た。

王はバクトリアで敵将オクシュアルテスの娘ロクサナを娶った。王の両脇にロクサナとオクシュアルテスが添い寝する。

「ロクサナ。なんとやわらかな砂地だろう。ペルシャ王宮の絨毯や、フラミンゴの羽布団よりも、この砂漠の寝床の方がここちよいではないか。」

ロクサナは飼い猫がそうするように、無言でじろりと主を見ると、あきれかえって眼をそらした。

「叔父上よ。なんと見事な夜空ではないか。まるで星が鼻の先で光っているようではないか。手でつかめそうだ。地平線まで雲一つなく、空気がどこまでも透き通っている。」

王は水もなく飛ぶ鳥さえない死の沙漠のただ中にいて、恐れるどころか、むしろ楽しんでいる。オクシュアルテスは戦慄した。王は艱難辛苦がお好きなのだ。艱難辛苦によって得られる名声や富ではなく、艱難辛苦そのものがお好きなのだ。炎暑の沙漠に焼かれ、酷寒の雪原に凍え、断崖絶壁をよじり大河を渡河する、そういうこと自体がお好きなのだ。

翌朝また出立し、いくつかの砂丘を越えると、眼下に青々とした、小さな湖が見えた。

「オアシスだ。」

兵卒らは砂丘をわれ先に滑り降り、服を脱ぐのももどかしげに、湖の中に飛び込んだ。後から後から兵士らが飛び込み、多くの家畜らも後を追ったものだから、水面に浮かび上がることができず、少なからぬ兵がおぼれしんだ。また、余りにも一度に大量の水を飲んだために、急死するものまで出た。

「なんというざまだ。」

王は死者を砂に埋めて葬った。王は案内役に言った。

「これからはオアシスに着くより20スタディア手前で宿営することにする。これ以上部下を死なすわけにはいかぬ。」

一行は次第に深い砂漠に沈んでいった。日にちの感覚が失せていき、永遠に砂漠の中を彷徨するのではないか、という錯覚に陥る。

「恐れながら王よ。一つだけお聞かせ願えませんでしょうか。私が常々抱いております疑問について。」

「なんだ、オクシュアルテス。申せ。」

「王は何故に、困難なことと簡単なことの二つを選ぶときに、必ず困難な方を選ぼうとなさるのでしょうか。王都に安住せず、危険な世界を経巡ろうとなさる。ひとときも心休まるときはありますまい。」

「ははは。私はそなたたちとものの考え方が違っているからこのように世界の王になれたのである。極めて自然なことだ。そなたたちに困難と思えることが私にはむしろ簡単であり、簡単と思えることが逆に困難なのだ。楽しいと思えることが私には耐えがたい苦痛であるし、苦痛はむしろ快楽なのだ。

叔父貴よ。これは、そなただけに打ち明けることであるから、他言は無用であるが、私がマケドニアかバビロンの宮廷に戻れば、臣下らは、みな喜び安堵するであろう。しかし、この私にとって宮廷ほど危険なところはない。

今我らは世界征伐の途上にあって、我が旅団も生きるか死ぬかという緊張状態にある。私が真の意味に必要とされている場所は戦場なのだ。私が、このアレクサンドロスが宮廷にいれば、逆に誰も私を必要としなくなってしまう。我が父フィリッポスもまた同じであった。父は戦場で死んだのではない。宮廷の祝宴のさなかに死んだのだ。だから、私もまた祝宴も、宮廷も好きではない。戦場こそが私の安住の地なのだ。我が兵ら、ヘタイロイらもまた、危難の中にあればあるほど私に従順である。宿営地に集めておれば全軍を即座に掌握できる。もし我が故郷へ帰ってめいめいの家の中に入ってしまえば、私の目は届かず、何を企んでいるかもしれないではないか。」

王はそこまで話すとオクシュアルテスの返事を待たずに立ち上がり、尻や腕の砂を払うと、ロクサナの手を取り、砂の中から起こし立たせた。王は娘をバビロンに連れていき、そこで正式に挙式して、王の妃に立てるという。王がそう言うのであるからそうするのであろう。そしてまたどこかの戦場へ旅立つだろう。それまで私も王の軍にいるしかないのである。

王は沙漠の民を案内人として、水場から水場へと行軍した。日の出とともに行軍を開始し、日の入りとともに野営した。翌日も、また翌日も、同じように進軍した。

或いは駱駝や馬を屠ってその生き血をすすり、或いは奴隷のはらわたを割いてのどを潤さねばならぬ。すくなくともロバや羊は沙漠を出る前にみな食われてしまうだろう。

岩陰には夜露がたまっていることがある。夜中のうちに岩に当たって冷えた空気が結露して、わずかな雫が窪地に集まって、人ののどを潤すほどの量になることがある。兵卒らはあらそってそれらの水をすすり岩をなめた。

ある兵士が洞穴を見付け、兜一杯分の水をくんできて、それを王に献上しようとした。

「これだけか。」

「はい。」

「私もまた、マケドニアのヘタイロイの一人にすぎぬ。皆が渇きに苦しんでいるときに、私だけがこれを飲むわけにはいかぬ。おまえが見付けたのだから、おまえが飲めば良い。」

「それはご勘弁ください。」

「我が軍全員の分がないのに私だけ飲んでも意味が無い。捨てるとしよう。」

そう言って、全軍注視の中、兜一杯の水を砂地に撒いた。水はたちまち沙に吸い込まれ、太陽がたちまち乾かしてしまった。兵士らは無言でその信じられない光景を見ていた。まるで、砂が一杯の水を飲み込んだように、全軍が等しく一杯の水を飲んだかのような感覚を共有しつつ。

兜の持ち主は、王の手から空の兜を受け取り、元のようにそれをかぶった。

オクシュアルテスは言った、「ニコクラテス。おまえは、王があの水を飲まなかったことが、きわめて立派なことのように思っていよう。しかしそれは違うのだ。王は用心していたのだ。王は素性の知れない水は飲まぬ。奉られた食べ物も食べぬ。兵士らが食らっている食い物を分けて食い、兵士らが飲んでいる水を分けて飲む。王は自分のヘタイロイの一人に過ぎぬというつもりでそうしているのではない。毒を盛られるのを怖れているのだ。

また、仮に、兵士に悪意なくして、水を献上したとしてもだ。砂漠の案内人が飲んで良いと言った水しか飲まぬのだ。岩山の洞窟にたまっていた水など、得体の知れないものを飲んで腹を壊してはならぬ。遠征途中で病気になってもいかぬ。だから飲まなかっただけなのだ。」

エウメネス

『エウメネス』を最初書いたときは、アッリアノスの『アナバシス』しか読んでなかった。 その中の名場面を切り抜いて一本にして、それ以外を書く気はなかった。

連載ものにしたのは、続編が読みたいというレビューが書き込まれていたためでもあるし、 また、『エウメネス』が良く売れるので、一から書いてみようかという気になったのだ。

それで、アレクサンドロスの東征の開始からイッソスの戦いまでを書いてみようとして、これは一本では書き切れないってことがわかって、 二本にわけた。 もともと出してたやつを『エウメネス1 ゲドロシア紀行』とし、 つづいて『エウメネス2 グラニコス川の戦い』、『エウメネス3 イッソスの戦い』としたのだった。

『エウメネス4』と『エウメネス5』では、それまでと違って、 アレクサンドロスの金魚の糞みたいな位置づけだったエウメネスを単独行動させてみた。 わざとアレクサンドロスを登場させず、アレクサンドロスの三人称視点としてのエウメネスを独立させて、 一人称視点のエウメネスを書くことにしたわけだ。 ついでにカッサンドロスやセレウコスなどの若者も登場させてみた。

『エウメネス』シリーズはすべて一人称視点で書かれているのだが、 一箇所だけ、イッソスの戦いでダレイオス三世が敗走するところだけ、 ダレイオスの一人称視点で書いてある。 というか、エウメネスでもダレイオスでもない三人称視点のような書き方になっている。 これは反則技というか、不統一というか、文章の稚拙さともいうべきものなわけなんだけど、 個々の箇所はエウメネスの回顧録のような形で読んでもらえればと思う。 イッソスの戦いの後でエウメネスが知り得た事実を総合したらダレイオスの心理とはこんなふうなものだった。 それをエウメネスが語った、ということにしてほしい。 ところどころ、「今から思えば」とエウメネスが言う箇所がある。 この作品全体が、アレクサンドロス大王がバビュロンで死んだ直後くらいにエウメネスが王を追想して語ったものなのだが、 没入感を出すために、多くは現在形で語られているのだと了解してもらえるとありがたい。

古代ギリシャのことを書きながら、いつの間にか、結局現代社会のこと、私自身の思想のことを書いているのだけれども、 それは私が書いているフィクションなのだから仕方あるまい。 なんなら他の人はほかのように書けばよいだけだ。

あとは、パールサの戦い、ハグマターナ、バークトリシュの戦いを描くのみとなった。 たぶんこれらは『エウメネス6』『エウメネス7』という形で書くことになるはずだ。 そして時系列的に言えば『エウメネス1』に戻る。

最後はゲドロシアを抜けてスーサに至るまでのアレクサンドロスの帰還を描いて『エウメネス8』としたいと思っている。 『エウメネス8』の主役はカラノスというバラモン僧になる予定だ。 この人はもともと出てこないので、『エウメネス1』に追記した。 『エウメネス1』だけで完結するには要らないキャラだが、 『エウメネス2』から『エウメネス7』まで来て『エウメネス1』に戻って、『エウメネス8』で完結するためには、必要なキャラだと考えている。 アレクサンドロスが死ぬところやその後のディアドコイ戦争を書く気はない。

アレクサンドロスとは何だったのか。 彼にはエパメイノンダス、フィリッポス2世という先達がいた。 ペルシャ帝国が瓦解しかけ、そのコスモポリタニズムを新興のマケドニア王国が引き継いだ。 さらに彼の個人的資質、特殊能力としてはダイモニアというものを仮定している。 ダイモニアはソクラテスが言っていたことで、アリストテレスもエウダイモニアなどと言っている。 ダイモニアは守護神とか守護霊のようなものであるし、バラモン教的に言えば阿頼耶識とでもなろうか。 無意識的自我とでもいえばよかろうか。

『エウメネス5』ではたくさんの神が出て来た。 ダゴン、イシュタル、ナブー、マルドゥク。 占星術、七曜にも多く言及した。 ユダヤ教にもちょっと触れた。 『エウメネス3』ではフェニキア人やエジプト人の神の話も出た。 ペルシャ人の神アフラマヅダは当然出てくるし、 ギリシャ人の神はディオニュソスを初めとしてこれまたたくさん出てくる。

これだけたくさん神様を出したのは単に私の趣味だからでもあるが、 私は、アレクサンドロスがパールサプラを焼いたのは、アレクサンドロス自身が意図したのではなく、 バビュロニア人とペルシャ人の間の宗教的な対立があったからだと思うからだ。 もちろんギリシャ人も、ギリシャに侵攻したクセルクセス王には恨みがあった。 そのクセルクセスが完成させたパールサプラを略奪し焼いたのはギリシャ人自身の復讐であったかもしれないが、 しかし、バビュロンに入城したアレクサンドロスが為政者として市民らに最初に期待されたのは、 ペルシャ人への報復だったと思うのである。 つまりバビュロンへの無血入城には、パールサ征服という交換条件があったのではないか。

ディオドロスの『歴史叢書』も最近になって目を通している。 概要はアッリアノスと、ウィキペディア英語版など読めば十分なのだが、 ディオドロスにしか書いてないディテールなどが割と作品に風味を加えてくれるので、 できるだけ拾いたいと思う。 他にもクセノフォン、トゥキュディデス、アテナイオスなども読んでいる。 森谷公俊氏の本も読み始めた。 しかしプルタルコスを参考にするつもりはない。

まともかく『エウメネス』シリーズは完成させなくてはならない。 そのため『エウメネス1』はだいぶ加筆修正した。 『エウメネス2』にはアンフィポリスの戦いを加筆した。 完成させるまでには、いやもしかすると完成させたあとも、加筆や修正は続くんじゃないかと思う。

エウドキア

最近『エウドキア』が割と良く読まれているのがうれしい。

『エウメネス』のついでで読んでもらえているのだろうか、第一次十時軍前史というあたりで興味を持ってもらえているのだろうか。 いずれにしてもありがたい。 『エウドキア』はKDPでは「古代ギリシャ史」に分類されているのだが明らかに「中世ギリシャ史」である。 しかし「中世ギリシャ史」というカテゴリーがないから仕方ない。 また『エウメネス』は「古代ギリシャ史」に違いはないのだが、どちらかといえば「ヘレニズム史」「西アジア史」というべきだ。 しかしそんなことを言っても、仕方ない。 ともかく西欧史観というのがじゃまくさい。 最近よく思うのは、たしかに自然科学というものは西欧の発明だが、それゆえにあまりにもキリスト教との親和性が高すぎて、 自然科学とキリスト教の癒着は非常に強くて、しかも無意識的なものなので、 すぐに本卦還りして、疑似科学とか精神世界とかに引きずられちゃうんだよね。 だから before and after science とかポスト自然科学とか言いながら、スピノザの汎神論まで戻っちゃうバカが現代でもどんどん湧いてくるんだよなあ。 儒教なんかだとそんな傾向はもっと薄いんだけどなあ。 でも儒教を下敷きに自然科学が出てくる可能性はないしな。 まともかく自然科学がキリスト教神学から生み出されたのは人類にとって一つの不幸であるには違いない。

話を戻すと、『エウドキア』は、もともとは、One Upon a Time in Eurasia というとてつもなくでかい話を書いてその一部を切り取ったものである。 One Upon a Time in Eurasia ではあまりにわけがわからないのでのちに『セルジューク戦記』という名前にした。 オスマン・トルコは知ってても、セルジューク・トルコを知っている人はあまりいない。 ましてマラズギルトの戦いを知っている日本人は滅多にいない。 アルプ・アルスラーンは少し(名前だけは)知られているようだ。 この話、 主人公はもとはといえばオマル・ハイヤームだった。 私は西行、太田道灌など詩人を主人公にしたがる傾向があり、 エウメネスという書記官を(アレクサンドロス本人ではなく)主人公にしたがるのも同じといえば同じである。 全般的に文人を書きたいので、新井白石や大塩平八郎も同じ理由で主人公になっている。 エウドキアもギリシャ古典文芸が好きな文学少女なので、やはりヒロインにしてみたかったのだが、まあ、歴史的にはほとんど無名なひとだよね。 エウドキアとエウメネスには共通点があるわけで、そのあたりがまあ、私が描きたい歴史上の人物、ということになる。 オマル・ハイヤームは数学者でもあって、私の場合そういう学者を主人公に書きたがる傾向もある。 『安藤レイ』『生命倫理委員会』『司書夢譚』『妻が僕を選んだ理由』『西京極家の秘仏』などがそうだ。 といった傾向をわかって読んでもらえているのだろうか? オマル・ハイヤームはその上酒飲みでもあって、私が主人公で書かないはずがないのだが、書きにくい。それはやはり中央アジアという、面白くもわかりにくい世界を舞台にしなきゃならないためでもある。一度あのへんに住んでみたいなあという気持ちはある。だがもうこの年になっては無理はきかないだろう。 『エウメネス』が最初ゲドロシア編から始まるのは、やはり私に、そういうペルシャとか西アジア、中央アジアなどの世界を書きたいという願望があるからだ。それは、多分に、宮崎市定の影響によるものだろうと思う(東アジアを書いてないわけではない。『特務内親王遼子』とか。これまた全然読まれないのだが)。

ついでだが、「エウメネース」は完全にギリシャ語の名だが、「エウ」「ドキア」はギリシャ語とラテン語のちゃんぽんで、 東ローマまで時代が下るとギリシャ語とラテン語が完全に混淆しているのが当たり前なのだが、ヘレニズム時代はきちんとギリシャ語だけで書かないと恥をかくことになる。 そこがけっこうたいへん。

話は戻るが、一番最初に疑問に思ったのは、オマル・ハイヤームはトルコ人だったのかペルシャ人だったのかということで、 少し調べればわかるがトルコ人であるはずがなく、ペルシャ人であった。 しかも生涯、今のイラン東北部のホラサーンとか、トゥルクメニスタンのメルヴあたりに暮らした人だった。

メルヴはアーリア人共通の故地であり、仏教語では須弥山と言い、西へ行った種族はペルシャ人になり、東のインドに入ってアーリア人になった。

オマル・ハイヤームの父イブラーヒムがアルプ・アルスラーンとともに西征してマラズギルトの戦いに従軍した、というのは創作であって、 そのとき若い頃のゴットフリード(ゴドフロア)、バルドヴィン(ボードワン)兄弟と遭遇したというのも創作だった。

それで余りにも話が大きすぎて、特にオマル・ハイヤーム当たりが書きにくいので、書きやすいところだけを切り取って残したのが『エウドキア』と『ロジェール』なのだが、 イェルサレム王バルドヴィンの後妻のアデライーデの息子がロジェール2世なのである。

『ロジェール』がほとんど読まれないところを見ると、どうも十字軍がらみで『エウドキア』が読まれているらしいってことがわかる。 それでまあ、第一次十字軍そのものについて、当時の東ローマ皇帝アレクシオスを主人公にして書けばそれなりに注目はされるかなと思い、 多少構想はあるのだが、書くからにはきちんとしたものが書きたいなとはおもう。すでにアレクシオスは『エウドキア』にも『ロジェール』にも登場している。 彼はすごくキャラの立ったひとだなあと思う。

バルシネとネアルコス

こちらのブログを書いているということは執筆活動が一段落したということなんだけど、実はまだ修正しながらちょこちょこ書き足している。

ネアルコスはバルシネの娘(父はバルシネの最初の夫メントル)と結婚した。 この娘がなんという名であるかははっきりしていない。 作中ではアダという名前にしているのでとりあえずアダと呼んでおく。 ちなみに Ada というのは、DARPA が開発した言語の Ada と同じ。 Ada を Ada という女性が開発したのではない。 Ada という名は、世界で初めてのプログラマとされる Ada という女性にちなんだ名だという。 ちなみに女性が開発した言語としては COBOL が知られている。 グレース・ホッパーという人で、彼女もまた軍人だ。

話がそれたが、 アダとネアルコスはスーサの合同結婚式で他のカップルとまとめて結婚したことになっているのだが、必ずしもそうとはいえないと言う気がしてきた。 スーサよりずっと前にバルシネはアレクサンドロスの子ヘラクレスを身籠もった。 ヘラクレスという名はマケドニア王族には見られない名なのだが、明らかに、この名は彼がテュロスで生まれたことによる。 テュロスの神はギリシャ人にはヘラクレスと呼ばれていたからだ。 アレクサンドロスの正式な結婚式はスーサだけであり、ヘラクレスという名がマケドニア王族らしくなく、バルシネはアレクサンドロスよりずっと年上だったことなどから、バルシネは正式な妃ではなく側室であり、バルシネが生んだヘラクレスも庶子とみなされていた、といわれる。

だが、バルシネという人はかなり身分の高い人だったと思えてきた。 バルシネの妹にはアルトニスとアルタカマがいるが、この二人はバルシネほどは重視されていない(のちにアルトニスはエウメネスと、アルタカマはプトレマイオスと結婚したのだが)。 バルシネはメントルと結婚し、その後メムノンと結婚した。この二人の兄弟はアルタバゾスの艦隊を相続した。 バルシネの娘アダはネアルコスと結婚したが、 アルタバゾスの艦隊は、メントル、メムノンと相続され、その後アルタバゾスの子ファルナバゾスに相続され、 その後ネアルコスに相続されたのである。 つまり、バルシネもしくはバルシネの娘と結婚した者がアルタバゾスの正統な後継者とみなされているのである。

アルトニスやアルタカマではダメでバルシネの血筋でなくてはダメらしいのである。 それで、私としては、バルシネをハリカルナッソスの王女アルテミシア(ハリカルナッソス女王アダの娘)ということにした。 ペルシャの王族アルタバゾスが、ハリカルナッソス王女アルテミシアを正妻に迎えることは十分あり得ることで、 アルテミシアの娘であればこそ、バルシネの子はアルタバゾスの後継者にふさわしかったのではないか、ということになる。

ギリシャ、ローマ世界に見られる婿取り婚の伝統はもともとペルシャのものであったと思われる。 オクタウィアヌスがティベリウスを婿に取って以来、ローマ皇帝が婿取りする(皇女と結婚することが皇帝即位の条件となる。ローマ皇帝が女系継承される)ことは珍しくない。 女帝が再婚してその夫が皇帝になることもある(東ローマのことだが)。 カッサンドロスもフィリッポス二世の娘テッサロニケを娶って後にマケドニア王になった。 おそらくカッサンドロスとテッサロニケの結婚もスーサより前に決まっていたと思う。

フランク王国や神聖ローマ皇帝やその後の西欧の王室では、しかし婿取り婚は見られない。 それはフランク王国のサリ族の法典が、女子の相続を認めてないからだ。

それで、私としてはネアルコスの結婚は、スーサより前にネアルコスがアルタバゾスの後継者になったときすでに成立していたと思う。 また、エウメネスとアルトニスの出身地が極めて近いことも偶然ではないと思っているわけである。 少なくともエウメネスはスーサでいきなりアルトニスと会って結婚させられた可能性は低い。 プトレマイオスとアルタカマも子供の頃からの知り合いかもしれない。 その他の結婚相手も、たまたまスーサで無理矢理結婚させられたのではなくて、それまでに何か理由があって結婚したのではないかと思われるのだ。

バルシネがヘラクレスをどこで育てたかということは明らかではないのだが、 アルタバゾスのもともとの領地であるフリュギアではなくて、 バルシネの娘とネアルコスが結婚したことから、 ネアルコスの本拠地であるクレタであった可能性もあり、 また、メントルやメムノンの本拠地はハリカルナッソスもしくはロードス島であったから、 ヘラクレスはロードス島かハリカルナッソスで育ったのではないかと思われるし、 であれば、バルシネがアルテミシアの娘であると極めて都合が良いのである。