年寄りなので書きたいものを書く

今書いている本なんだが、10ヶ月くらいずーっと書いたり直したりしている。たぶんこの本は紙の本として出るだろう。田中紀峰名義でなく、私の実名で出すつもりだ。私ももうそろそろ還暦で、定年も近いし、実名と筆名をわざわざ分けて書くこともなかろうと思う。「田中」という筆名を使い始めたのは2009年3月なので、もう15年になるわけだ。いろいろと嫌気がさすことがあって、実名で書き散らかすのが嫌にもなり、怖くもなったのだが、いまさら隠すこともあるまいと思っているし、そろそろどうにかしないとタイミングを逸してしまうようにも思える。

それでこの本は当然『虚構の歌人 藤原定家』や『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』の延長線上にあるわけである。藤原定家、本居宣長と来て、今度は近代の歌人を書く。それが誰であるかは出てからのお楽しみだが、ある意味で『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』の延長上にもあると言って良い。ヨハンナ・シュピリはゲーテが大好きだった。私もおかげでゲーテとか、パウル・ゲルハルトの詩を知った。詩や和歌の本をなぜ私が書くかといえば、好きだからとしか言いようがない。

『定家』も『宣長』もあれは論文のようで論文ではない。何かと言われれば評論だろう。今度出す本は、随筆でもあるし、論文でもあるし、評論でもあるし、私家集でもあり私撰集でもある。かなり主観を交えたところもある。それあなたの感想ですよね、という話も恐れずに書いた。もう年寄りなんだから仕方ないじゃないかと言い訳したい。60過ぎれば頭もぼけてくるから書きたいものを思い切り書けるのはそろそろ終わりだと思っている。何を書いているのかと言われれば、書きたいものを書いているとしか言いようがない。それがいったいどういう評価を受けるか。まったく想像できない。どういう評価をされるにせよ、死ぬ前に遺しておけるもの、つまり遺言ような気持ちで書いている。

定家も宣長も歌人であると同時に歌学者であった。そういう人が私は好きなのだろうし、共感できるのだと思う。

文字無き時代の淘汰圧

土屋文明も柳宗悦も、万葉集は歌人ではなく名も無い庶民が歌を詠んでいたのが良い、古代の詠み人知らずの歌のほうが後世の名のある歌人の歌より良いなどという。柳宗悦はまた沖縄の和歌のようにやはり無名の民謡のような歌のほうがよいという。しかし文字が無かった古代に残った歌というものは相当な淘汰圧がかかったはずであり、人から人へ口から口に伝えられるうちに最初に詠んだ人の歌とは似ても似つかぬほどに改変されてしまったはずだ。古代の詠み人知らずの歌というものはそうした淘汰改変の結果わずかに残った、つまり、選りに選って選抜され推敲された歌なのだから、良いのは当然なのである。ただの素人の歌がそのまんま残ったものではない。梁塵秘抄や平家物語のように自然発生的に生まれた文芸作品においても同様のことがいえるだろう。

だが現代の新聞歌壇のようなものは、素人が詠んで投稿し選者がきまぐれで選んだだけだから、だれが詠もうとそのまま文字になって残り、駄作は永遠に駄作のままなのである。

素人が自由に思ったことをそのまま歌に詠めば良いなどいうのが自然主義とか万葉調とかアララギとかいうのかしらんが、そんなのはまったく嘘だ。今の歌壇に一番近いのは万葉の詠み人知らずの時代ではなく、現代歌人が嫌っている、淘汰圧というものがほとんどかかっていなかった室町中期の続新古今集時代だろう。しかし続新古今集とても、素人がただ勝手に詠み散らかしただけの歌を採るなどという暴挙には出なかったはずだが。斎藤茂吉は良い歌人だが下手な歌人でもある。笑点の大喜利で落語家が良いことを言うこともあればつまらないことを言うこともある。あれと同じだ。だから、一般人が茂吉を見ていると歌なんてものはなんでもいいんだなとしか思えまい。ここまで混乱させておいて誰が責任を取り収拾するのか。

もっと削らなくてはならない

『関白戦記』辺りはまああれはあれで良いと思うのだが、『エウメネス』はもっと削らなくてはならない。kindleの悪いところは書こうと思えばいくらでも書けてしまうことで、そうすると私の場合なんでもかんでも書けるものは書いちゃおうとするから読みにくくなる。

まず読みやすさを優先して削るところは削るし、読みやすさを優先して冗長にすべきところはくどくど書くべきなのだ。削るところというのはつまり単なる説明をしているところだ。何とかという人の名前とか要するに単なるキャラクター設定の紹介なんかは削らなきゃ駄目だ。どういうキャラクターかということはストーリーを追っていくうちに自然とわかるようにしなきゃダメだ。街の説明、部族の説明。みんなそう。歴史小説ではとにかく固有名詞が多くなりすぎる。そこをなんとかしなきゃダメだ。

冗長に書くべきところというのは逆で、デタラメでも嘘でもいいから想像で街の雰囲気とか、ただ道を歩いているだけの場面とか、なにかの経験を使ってもいいから、だらだらと書く。こういうのをなんというのだろうか。埋め草とでもいおうか。筋に関係ない、日常のとりとめもないことを適当に挟むと物語っぽくなる。説明っぽさが薄まる。

ブログに戻る その2

ブログに戻るの続きなのだが、最近は本を書いてたりとか(出版はされるだろうがいつになるかはわからない)、給料をもらっている方の仕事が忙しかったりとか、そもそもブログを書くことに意味を見いだせてなかったからずっと放置していた。レンタルサーバーも解約し、ここのサイトもハテナブログ辺りに置きっぱなしにしていたと思う。

レンタルサーバーは入金が無いといきなりこの世から消滅してしまう。死んだ後にも何か書き残しておきたいという目的にはまったくむいていない。だから個人で借りているレンタルサーバーよりかはハテナブログにでも書いておいたほうがまだ後まで残る可能性が高い。ハテナが将来つぶれても、archive.org あたりが断片でも残してくれている可能性がある。

archive.org aug 2009 などみると、このサイトは当時「亦不知其所終」というタイトルだったってことがわかる。うん。「はかもなきこと」はもっと昔から書いてた「ウェブ日記」のタイトルだったはずだ。はてなブログのほうは「不確定申告」というタイトルだった。こちらも一応残しておこう。

kindleに書いたのものも残ってくれるだろう。amazonがたとえ潰れたとしてもあれだけのコンテンツが無に帰するということはないはずだ。にしても、後世に書いたものを遺したいという希望はなんと曖昧で不確かなものだろうか。たぶんこういう考えを私が早くからもっていたのは内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んだせいだと思うが、はなから書いたものは後に残るという前提でものを考えてしまうが、内村鑑三が書いたものが残ったのだって、たまたま世の中が文明開化して、彼はそれなりに有名になったから残っているだけのことであり、また、書き残しはしたものの、ほとんど誰の目にも触れないゴミくずになる可能性も大いにあるわけだ。

それでもやはりブログを書こうと思うのは、本はもちろん良いのだが、本には書ききれないこともある。書いては削り書いては削りするからその削りしろのもって行き場がない。この削りしろの量というのは馬鹿にならないし、削ってしまうともうどこにも書けないと思うと思い切って削ることができず、そのためらいが文章を読みにくくしてしまう。だから削るものはどんどん削らなくてはならない。で、とりあえずメモ程度に書いておくものが必要で、それにはブログがちょうど良い。削りしろといえば小林秀雄の『本居宣長』なんてまさに削りしろ無しに思いついたことをそのまんま全部書いているようなもので、本人はあれでもだいぶ整理したというから、もともとの文章はもっとダラダラと冗長なんだろうな。そういう文章を読むのも時には楽しいが、調べ物しているときなんかにはどこに書いてあるかすぐ出てこないから困る。

SNSにあいそがつきたというのもある。もうSNSには書きたくない。それとほぼ同じ理由で、もしマスコミに何か書けと言われても書きたくはない。どっちも同じだ。ああいうところに書くのはもうやめにしたい。自分のペースで自分の書きたいことだけを書こう。

archive.org だけど、おそらく金儲けのためだと思うが、トップページからいくら検索しても自分のサイトはでてこない。直接save page now というページに行くのが良いと思われる。

このブログは昔 markdown記法で書いていたのだが、今は最新のwordpressの記法にそろえようとしている。古いやつはリンクが無効になっていたり、改行があちこち入っていたりするので、そのうちちゃんと直しつつ文章も手直ししようかとは思っている。

heidi 1-3-3

Nun ging es lustig die Alm hinan. Der Wind hatte in der Nacht das letzte Wölkchen weggeblasen; dunkelblau schaute der Himmel von allen Seiten hernieder, und mittendrauf stand die leuchtende Sonne und schimmerte auf die grüne Alp, und alle die blauen und gelben Blümchen darauf machten ihre Kelche auf und schauten ihr fröhlich entgegen. Heidi sprang hierhin und dorthin und jauchzte vor Freude, denn da waren ganze Trüppchen feiner, roter Himmelsschlüsselchen beieinander, und dort schimmerte es ganz blau von den schönen Enzianen, und überall lachten und nickten die zartblätterigen, goldenen Cystusröschen in der Sonne. Vor Entzücken über all die flimmernden winkenden Blümchen vergaß Heidi sogar die Geißen und auch den Peter. Es sprang ganze Strecken voran und dann auf die Seite, denn dort funkelte es rot und da gelb und lockte Heidi auf alle Seiten. Und überall brach Heidi ganze Scharen von den Blumen und packte sie in sein Schürzchen ein, denn es wollte sie alle mit heimnehmen und ins Heu stecken in seiner Schlafkammer, dass es dort werde wie hier draußen. – So hatte der Peter heut nach allen Seiten zu gucken, und seine kugelrunden Augen, die nicht besonders schnell hin und her gingen, hatten mehr Arbeit, als der Peter gut bewältigen konnte, denn die Geißen machten es wie das Heidi: Sie liefen auch dahin und dorthin, und er musste überallhin pfeifen und rufen und seine Rute schwingen, um wieder alle die Verlaufenen zusammenzutreiben.

そこでその子は喜びいさんでアルムに登った。夜中に吹いた風が小さな雲まで全部吹き飛ばして、空は一面深い青色で、その真ん中にお日様が笑っていて、緑のアルプを輝かせていた。小さな青や黄色の花が花冠をもたげ、楽しげだった。ハイディはあちこち飛び跳ねて、お日様の下、あるところにはすてきな赤いサクラソウの群生を見つけ、また真っ青なリンドウの茂みを見つけたり、またあるところでは柔らかい葉を茂らせた黄色いスミレをみつけ、そのたびに喜びの声を上げた。キラキラと輝いて手招きする花々を渡り歩いているうちにハイディはすっかりペーターや山羊たちのことを忘れてしまった。辺り一面に咲く黄色や赤の花がその子を魅惑した。ハイディはそれらの花々をいちいち摘んで自分のエプロンの中に詰めた。家に持って帰り、干し草のベッドの上にまいて、色とりどりの花で飾ろうと思ったからだ。ペーターは辺りを注意深く見張ったが、その目はあまりすばやく動けない。山羊たちもハイディとおなじようにあちこち動き回るので、彼は鞭を振り、口笛を吹き、大声で叫んで、それらの山羊たちをとりまとめ引き連れていくのにてんてこまいだった。


Kelch ワイングラスのように台と足がついたコップ。ここでは花冠と訳した。

Himmelsschlüsselchen。Echte Schlüsselblume、Wiesen-Primel、Frühlings-Schlüsselblume、Wiesen-Schlüsselblume、Arznei-Schlüsselblume などさまざまな名前がある。Himmelsschlüssel を直訳すれば「天国の鍵」。英語では primula、日本語ではサクラソウと訳すのが無難か。

Enzian は英語でGentiana。リンドウと訳せばよいか。

Cystusröschen = Cistus + Ros (バラ) + chen (小さな)。Cistus にはゴジアオイ、あるいはニンニチバナなどの名があるが、バラなのかもしれない。英語では Cistus または rock-rose。「みやまきんぽうげ」と訳した例もあるが、あまり品種にこだわることには意味は無いと思い、ここでは無難にスミレと訳した。

ヨハンナの作品にはしばしばこのようにたくさんの植物の名が出てくる。

シラカバ(Birke)。
イチジク(Feige)。
レモン(Zitrone)。
百合(Lilie)。
バラ(Rose)。
スミレ(Veilchen)。
忘れな草(Vergißmeinnicht)。
サクラソウ(Schlüsselblume)。英語ではcowslip (ウシスベリ)などと呼ばれるが、ぴったりの和名はない。
梨(Birne)、梨の木(Birnbaum)。
トネリコ(Esche)。セイヨウトネリコとも。英語では Ash tree。
銀盃花(Myrte)。ギンバイカ。
月桂樹(Lorbeer)。ゲッケイジュ。
モミ(Tanne)。
赤松(Föhre)。Kiefer、 Waldkiefer、ヨーロッパアカマツとも。単にマツと訳してもよかったかもしれない。
蔦(Epheu)。
麦の穂(Halm)。穀物の茎のことだが、「麦の穂」と意訳する。
麦畑(Kornfeld)。直訳すれば「穀物の畑」。
カーネーション(Nelke)。ナデシコ科の植物。
ローズマリー(Rosmarin)。
ツルニチニチソウ(Immergrün)。直訳すれば「常緑」。
イチゴ(Erdbeer, Beer)。時に「野イチゴ」とも訳した。
ハシバミ(Hasel)。セイヨウハシバミとも。落葉低木。種子はヘーゼルナッツ (Hazelnut) と呼ばれてケーキなどに使われる。
シナノキ(Linde)。ボダイジュと訳されることもあるが別種。
トウヒ(Fichte)。ドイツマツ、ドイツトウヒ、ヨーロッパトウヒなどとも呼ばれる。シュヴァルツヴァルト(黒い森)やアルプスなどに生える。高い針葉樹。モミの木に似て、クリスマスツリーに使われる。
サフラン(Zeitlose)。和名はイヌサフラン。秋のクロッカス、芝生のサフラン、などとも呼ばれる。クロッカスは早春に咲き、サフランは秋に咲く。作中では特に厳密に区別する必要はないと考えて、サフランと訳した。
ブナ(Buche)。
カシ(Eiche)。ブナ科のカシやナラの総称。英語ではOak。