間部詮房

間部詮房は綱豊の小姓だったというが、wikipedia には

> 貞享元年(1684年)に甲府藩主・徳川綱豊の用人になり、甲府徳川家の分限帳には新井白石とともに詮房の名が見られる。

とある。1684年だと間部は18、綱豊22。
しかし、小姓というのは普通もっと若くしてなるものであり、
用人となる前に小姓の時期があったと考えるのが自然ではなかろうか。
新井白石が綱豊に仕官したのは1693年だから、10年近く後だが、
実際にはもっと前から間部は綱豊の側にいたのではなかろうか。
用人というのは正式な役職名だろうから、役職をもらう前から、
プライベートな小姓、あるいは見習いとして近侍していたとか。

綱豊が17のとき(1678)父綱重が死んでいるがその前からいたか、その後だったのか、
でも意味合いがだいぶ変わってくるわな。

間部の寵愛のされ方は、おそらく間部が綱豊の竹馬の友だったからではなかろうか。
やはり一番可能姓が高いのは綱重が死んだ年に13才くらいで小姓になったのではないか。
だとすると、
1712年に家宣が死ぬから、白石は19年、間部は34年仕えたことになる。

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