小説の書き方

マンガのコマ割りと、動画の絵コンテは違う。
絵コンテは一見四コマ漫画みたいのがずーっと続いているようにみえるわけだが、
同一のカメラでここからここまで連続して撮る、という情報が含まれてなくてはならない。
これをカットと言っている。

カットを集めたのがシーン。
同じ場所同じ時間にカメラを据えて撮った一連の絵がシーン。
アニメだと実写ほどシーンの縛りがないのでシーンを分けないこともあるようだ。

カメラは一つのカットで同じ位置同じ向きに静止しているとは限らず、移動したり、パンしたりする
(細かいことを言えばズームしたりピントを合わせたりそのほかいろんなエフェクトをかけたりするし、
編集でカットをトランジションしたりもするわな)。
マンガのコマ割りにも似たような視線移動の手法はあるかもしれんが、
パンやドリーと言ったものとは別にコマ割りできる。

シナリオだと時系列にセリフとト書きが並ぶ。

まあ私の場合、
ネームを描いてからマンガを描くわけでもないし、
コンテを描いてからCG作ったり映像編集するわけでもないのだが、
マンガや動画は普段から見慣れているわけで、
コマ割りとかカットとかシーンという概念はすでに多くの事例から知ってるわけで、
知らず知らずそれを使って自分も動画や漫画を作っているし、
アニメや映画を見ているときもそれがもともとどんなコンテだったかを想像できなくもないわけだ。

だが、小説の場合はどうか。
自分はどういうふうに小説を書いているのかと言われると、非常にこまる。
うまく説明できない。

頭の中に映像を思い浮かべてそれをそのまま文章にする人もいるかもしれない。
情景描写、特に書き出しの部分などでは、私もそうしているかもしれない。
前景があって中景があって遠景があって、人や建物がどういうふうに配置しているか、とか。
会話のシーンなら、特に言葉では書き表してないが、
たぶん映画にするならこんなふうに交互に役者の顔を切り替えるだろうなとか。
マンガや映画の原作を書く人はたいていそういう書き方をしているのだろう。

しかし小説は必ずしも映像表現ではない。
私の場合なまじ映像表現はやっているから、映像では決して表現できないことを小説では表現してみたい、
などと考えることもある。
逆に、映画にするならこの場面はこんな具合に映像表現してほしいなと考えながら書いたりもする。

小説は簡単に映像に翻訳できない部分と、映像的な部分が自由に混在しているから面白いのだと思うし、
だから自分がどのように小説を書いているのかと言われてもうまく説明できないのだと思う。

普通人は目の前の光景をぼんやりとみている。
気になるものがあれば注視するし、
考え事を始めると周囲の景色も音も消えて完全に観念や記憶の世界に入り込む。
そしてまた何かのきっかけで現実に戻る。
会話があれば演劇にも芝居にもなるが、
小説にはしばしばモノローグすらない。
言語ですらないこともある。
そういう意味では小説のあらわす世界は非常に広いし、定型というものはこれだとさだめにくい。

五感をすべて盛り込むと良い小説になるということもある。
だいたいは視覚を文章化するものだ。
そこに聴覚や味覚や触覚、嗅覚などをまぜるとそれっぽくなる。
確かにそうだ。
だが人間の精神活動はそれだけではない。
感情と理性。
飛躍のある発想と理詰めの推論もぜんぜん違う。

ある人は、あらすじをまず書くかもしれない。
目次案のようなものを書くかもしれない。
私はそれもあまりしない。
だらだら書いていて、いくつかのパーツができてきて、
それを並べ替えたり捨てたり書き足したりする。
やはり何か一つの書き方というものがない。
定型が決まっていれば量産もできるのかもしれないが、
逆に、定型が決まってしまうと書きたくなくなるのかもしれない。
暗中模索しているのが楽しいのだ。

プロットを決めてえいやと書くこともある。
数か月後に新人賞の〆切がある、という場合などにそういう書き方をしたことがある。
というかむしろ最初決めたプロット通りにだいたい書けるようになってきた。
でも、最初のプロットと全然違うほうが面白いこともあると思う。
特に、昔書いた断片を数年後に読み返して、それらの断片をつなぎ合わせると面白い話になることが多い、
と思い始めている。
それはある種、フィクションを偽装した私小説であるかもしれん。
とにかくなんか書き溜めておくと良いのかもしれん。

ありきたりだが、起承転結は、つけるようにしている。
落語にオチがあるようなもので、やはりあったほうがいい。
伏線とかどんでん返しも好きだ。
逆に起承転結もなくオチもない話を読むとそんなのはブログに書いとけと思う。
つまり人に最後まで読ませるためにはそのくらいの仕掛けをしこんでおけということ。
逆にうまいオチがつけられなくて長い間放置していて、急にオチをおもいついて一本にすることもある。

雰囲気とか空気感のためにストーリーと直接関係ないネタを振るのも好きだ。
伏線と見せかけて何の意味もない小ネタとか。
ゲームでいうとシークレットみたいなものか(違うか)。
とにかくざらついたノイズの多いものにしたいといつも思う。
ストーリーに関係ある大筋と伏線だけの話はつまらん。
そういうのはディズニーがやればいい。

私の場合いろんな小説を読んで飽きてしまい、
誰も書かない小説を自分で読んでみたいから書いているところがある。
自分で書いてみてしばらくして読み返すとつまらないので書き直したりする。

定型というのとは違うかもしれんが何かの文学理論で書かれたものはあまり好きではないし、
自分でもやらんと思う。
前衛・実験的な文芸も好きではない。
実験も前衛もある種の定型であって、そこから出てくるものにあまり意外性がないように思う。

自分がどう書くかということに、他人がそれをどう読むかという要素をつけたすと、
もうわけがわからなくなる。
とりあえず自分は自分の書きたいように書くしかない。
他人が読んで読みやすい文章というのは、まあ、ノベライズのようなものだろう。
マンガや映画やドラマのようなものをそのまま小説にしたもの。
マンガや映画やドラマの原作として書いた小説。
そういう小説は、テレビドラマを見させられているようで苦痛だ。
私はドラマが嫌いだからだ。
ドラマはそういう意図で作られてもいる。

ラノベやファンタジーなんかだといきなりキャラ設定や世界観の説明から入るのがある。
てっとりばやくて良いといえば言えるのかもしれない。それが現代風なのだろう。
逆に延々と自然描写が続いてじらすのがある。
意味があるならともかくただの文芸趣味ならやめてほしいし、
それならまだいきなりキャラ設定書かれたほうがましだと思うこともある。

一つ言えることは、何度も書いたことだが、
私が物語の書き方を直接学んだのは「日本外史」だということで、
特に初期の作品にはその傾向が強い。
だんだんそこから離れてきていると思う。
どっちのほうへ離れてきているのかと言われても自分でもよくわからん。

世の中やらせと仕込みが多いってことが良くわかった。
嘘のドキュメンタリーのほうが面白がられるし、取材も楽で、商売にしやすいから、
プロほど、一度そのパターンを覚えてしまうと、つぎつぎに捏造してしまう。
たまたまヒットしてもいつかはスランプに陥る。
給料は毎月もらわなきゃならない。
すると楽をする。ずるをする。ずるしてだましても金になるとわかるとさらにずるをする。
たいていは読むに値しない作品ばかりだ。
つまらないから読まれないとは限らない。
しかし読まれないことには始まらない。

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