ま、たぶん入試というのは、少なくとも受験産業というものは、 学力を身につけるとか、学力を測るためにあるのではなく、 ある設定された目標、つまり過去問とかの傾向と対策というものがあって、 それに対してどのくらい自己を最適化できるか、ということが試されているのである。 だから入試の内容自体が学問的重要性からはずれていてもあまり問題にされないのではないか。
で、それではいかんというので、斬新な、傾向と対策から大きく外れた問題を出して、 真の学力・人間力というものを見ようとすると、 今度は傾向と対策という目標に向かって努力するという能力を測れないということになり、 そうするとそれはそれで世の中のニーズから外れてしまう。 学問を身につけるよりも、営業職のような努力目標達成能力が試されているのだろう。 それはそれで実用性がないとは言えない、 というより、当然、世の中のニーズに合わせて現在のセンター試験という形態が成立しているのであろう。 努力と達成度の相関を予測できないことに人々は耐えられないのだ。 逆に、努力すればするほど、その努力の方向はともかく、達成度が上がるならば、人はいくらでも努力できる。 その方向がまったく間違った方向であろうと、そんなことはどうでもよい。 その目標がただ明確であればあるほどよい。学力なんてそんな食えないもんは知らん。 少なくともそういう人種はいる、というより多数派である。というよりそうでなければ教育産業や受験産業に携わる人たちは困る。 だから試験内容がどんどん形骸化空疎化しても誰も文句は言わない。その方が産業的には好ましいからだ。 せいぜい難易度が上がったとか、「難化」したとか(これぞまさに受験産業用語)、 予測が当たったとか外れたとか、 そんなことでギャーギャー騒いでるだけだ。 でなければこんなセンター試験のような異様な入試方式が存在しているわけがない。 まじめに学問したい人間にとってはまさに鬱陶しいだけの存在でしかない。
何十年と積み重なった傾向と対策に子供の頃から何年もかけて万全の対処をし、決められた日の決められた時間に決められた場所にいき、全国一律の決められたタスクをこなすことによってできるだけ高得点を出す、という試験。寒すぎる。こういう問題点は私が指摘するまでもなく進学校の教師や予備校教師などが熟知しているはずなのだが、受験産業批判は彼らの職がかかっているからできないのだ。
これを「亡国の受験産業」と揶揄することもできると思う。 ま、科挙も何十年何百年とそうしているうちにそうなってしまったわけだが、我々も笑えんな。