芥川龍之介と随筆

芥川龍之介が『侏儒の言葉』で

つれづれ草

わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは、未嘗いまだかつて愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。

などと書いていることが一部の徒然草ファンの不興を買っているのであるが、私としてはどちらかと言えば芥川龍之介に同情的なのであるが、ではなぜどういうところに同情しているのか、自分でも判然としない。そもそもどういうつもりで芥川はこれを言ったのか、だんだんに気になり始めた。同じ『侏儒の言葉』に

民衆は大義を信ずるものである。が、政治的天才は常に大義そのものには一文の銭をも
なげう
たないものである。唯民衆を支配する為には大義の仮面を用ひなければならぬ。しかし一度用ひたが最後、大義の仮面は永久に脱することを得ないものである。もし又強いて脱さうとすれば、如何なる政治的天才も忽ち非命に
たふ
れる外はない。つまり帝王も王冠の為にをのづから支配を受けてゐるのである。この故に政治的天才の悲劇は必ず喜劇をも兼ねぬことはない。たとへば昔仁和寺の法師の
かなへ
をかぶつて舞つたと云ふ「つれづれ草」の喜劇をも兼ねぬことはない。

などと言っている箇所もある。この仁和寺の法師というのは第53段

これも仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎を取りて、頭に被きたれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞ひ出でたるに、満座興に入る事限りなし。

などというアレである。

芥川龍之介が他にも徒然草について書いているものはないかと検索してみると、「解嘲」というものに、

しかし又君はかう云つてゐる。「それと同じやうに、随筆だつて、やつぱり「枕の草紙」とか、「つれづれ草」とか、清少納言
せいせうなごん
兼好法師
けんかうほふし
の生きた時代には、ああした随筆が生れ、また現在の時代には、現在の時代に適応した随筆の出現するのは
むを得ない。(僕
いはく
、勿論である)夏目漱石
なつめそうせき
の「硝子戸の中」なども、芸術的小品として、随筆の上乗
じやうじよう
なるものだと思ふ。(僕
いはく

すこぶ
る僕も同感である)ああ云ふのはなかなか容易に望めるものではない。観潮楼
くわんてうろう
や、断腸亭
だんちやうてう
や、漱石
そうせき
や、あれはあれで打ち
めにして置いて、岡栄一郎
をかえいいちらう
氏、佐佐木味津三
ささきみつざう
氏などの随筆でも、それはそれで新らしい時代の随筆で結構ではないか。」

などということを書いている。芥川龍之介は枕草子や徒然草を読んでいないわけではないし、高く評価していないわけではない、少なくとも夏目漱石の「硝子戸の中」くらいには評価しているわけだ。

ますますわからないのだが、この「解嘲」というものは随筆というものについて書いた文章であるから、今度は芥川龍之介が随筆について書いたものを他にも探してみると、「野人生計事」というものがみつかる。この中で芥川は

随筆は清閑の所産である。少くとも僅に清閑の所産を誇つてゐた文芸の形式である。古来の文人多しと
いへど
も、
いま
だ清閑さへ得ないうちに随筆を書いたと云ふ怪物はない。しかし今人
こんじん
は(この今人と云ふ言葉は非常に狭い意味の今人である。ざつと大正十二年の三四月以後の今人である)清閑を得ずにもさつさと随筆を書き上げるのである。いや、清閑を得ずにもではない。
むし
ろ清閑を得ない為に手つとり早い随筆を書き飛ばすのである。

などと書いている。どうもこの大正13年1月に「野人生計事」なるものを書いて、それに対して当時、新潮を編集していた中村武羅夫なる人がいろいろと批評をした。それに対する反論が「解嘲」であったらしい。

「侏儒の言葉」「野人生計事」「解嘲」はいずれも随筆のたぐいである。しかも芥川は出版社から随筆を書け書けと言われて仕方なく書かされている。「侏儒の言葉」もまたそうして書いたものだったのに違いない(「侏儒の言葉」は大正12年1月から14年にかけて文芸春秋に連載された)。随筆なんてものはヒマがなきゃ書けないはずのものだが、今の人はヒマなどないから手っ取り早く随筆を書き飛ばす。そこで

随筆は多少の清閑も得なかつた日には、たとひ全然とは云はないにしろ、さうさう無暗
むやみ
に書けるものではない。
ここ
に於て
、新らしい随筆は忽ち文壇に出現した。新らしい随筆とは
なん
であるか? 掛け値なしに筆に
したが
つたものである。純乎
じゆんこ
として純なる出たらめである。

という具合に今の随筆はみな筆に任せて書き殴ったまったくのでたらめだ、とまで言っている。さらによくよく見ていくと、近頃の読者は永井荷風の断腸亭日乗などを褒めて、芥川のような若手の書く(「侏儒の言葉」などの)随筆を嘲笑している、などということまで書いている。

こうしてみていくに、芥川は、出版社から「徒然草」のような名調子の随筆を書いてくれとせがまれている。中村武羅夫もまたそうして芥川にせがんでいる一人であるのに間違いあるまい。つまり


うせ随筆である。そんなに
むづ
かしく考へない方が
い。あんまり出たらめは困るけれども、必しも風格高きを要せず、名文であることを要せず、博識なるを要せず、
ることを要しない。素朴
そぼく
に、天真爛漫
てんしんらんまん
に、おのおのの素質
そしつ
に依つて、見たり、感じたり、考へたりしたことが書いてあれば、それでよろしい」と云つてゐる。それでよろしいには違ひない。しかし問題は中村君の「あんまり出たらめは困るけれども」と云ふ、その「あんまり」に
ひそ
んでゐる。「あんまり出たらめ」の困ることは僕も
また
君と変りはない。唯君は僕よりも寛容
くわんよう
の美徳に富んでゐるのである。

というような注文を芥川はしばしば受けて辟易しているのだ。

さらにうがってみれば、芥川は編集者らや読者らから、せいぜい徒然草を愛読して徒然草のような随筆を、さもなくば「硝子戸の中」や「断腸亭日乗」のようなものを、あまり難しく考えず、名文であることを要せず、しかしあまりでたらめにならぬ程度に、どしどし書いてくれ、と言われていたことになる。そりゃあ徒然草に対してああいう言い方をしたくもなるよな、ということにならんか。少なくともそんな気分の中であのようなことを書いたのだ。「わたしは度たびかう言はれてゐる」というのは具体的には文藝春秋や新潮など雑誌の編集者から若手作家に対する指導訓令のように言われていたのだろう(当時芥川は30代前半)。

観潮楼とは森鴎外のことを指すらしい。やれやれ。

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