再び[民葉和歌集](/?page_id=4504)編纂にはまり始めたのだが、
一応これは、新続古今和歌集で途絶えた21代にわたる勅撰集を孝明天皇が復興して、
つまり22代目の勅撰集を作るという設定で私個人が歌を集めているわけ。
[仮名序](/?page_id=4505)によれば万延元年十二月三日(西暦1861年1月13日)奏覧という設定で、
なんで万延元年かと言えば、良く覚えてないが、
安政の大獄があって桜田門外の変があった直後ということで、
たぶん水戸浪士の歌まで入れちゃおうという気分だったと思う。
ただし私が詠んだ歌は万延元年より当然後で、
選者である田中久三がその時代に生きているはずはないんだが(笑)、
そこはフィクションとして許してもらう。
むろん江戸時代に詠んだとしておかしくない歌だけを入れている。
なぜ孝明天皇にしたかというと、たまたま孝明天皇の御製集を読んでいた時期だったからとしか言いようがない。
最初は明治天皇が勅撰集を編纂したらという企画だったが、時代が新しすぎる。
だって石川啄木とか若山牧水とか与謝野晶子まで入ってきてもうわけわかんなくなる。
孝明天皇は万延の後、文久、元治、慶応と存命だったから、も少し後にずらすこともできた。
しかし、万延元年より下るともう完全な幕末維新となって、
有象無象な武士の歌が沸いてくる。
それも私には何か気持ち悪い気がする。
まあそれは今となってはどうでもよくて、
1438年から1861年までの和歌ならどれを入れてもよい。
1438年以前の歌でも、21代集に採られてない歌ならどれを採ってもよい。
近世の歌、後水尾天皇以後の歌で十分数がそろうかと思ったらそうとも言えない。
もっとちゃんと探せば良いんだろうが、良い歌人の良い歌だけ選ぼうと思うとなかなか無い。
それで応仁の乱より前の良い歌というのはたいてい勅撰集に採られてしまっている。
新葉集にも良い歌がたくさんあるが、これも南朝の勅撰集であるからには、ここから採るわけにはいかぬ。
万葉集や新選万葉集などが勅撰集ではない根拠は何もないのだが、
一応、古今集以来の(実際には後拾遺集から確立したと考えられる)やり方で歌を選んでみる。
つまり万葉集の歌はすでに勅撰集に採られていないかぎり自由に採ってよい。
それで[和歌データベース](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)
で検索かけながら、
勅撰集にもれた古い歌を探しているのだが、
これが割とあるのである。
俊成、定家はめちゃくちゃたくさん歌を詠んだので取り切れてないよい歌がまだだいぶある。
多作の人ほどまだまだ採れる。
後鳥羽院とか順徳院もまだ余裕あると思う。
和泉式部も多作だ。
亀山院もたくさん歌詠んでるんだが、割と良い。
亀山院の秀歌はほとんど勅撰集にはもれているように思われる。
宗良親王も新葉集に入りきらないほどたくさん歌を詠んでいて、
梨花集というのに入っているのだが、今回きちんと読んでみるとなかなか良い歌が多い。
良い歌だなと思いデータベースで検索かけるとすでに勅撰集に採られていた、
なんてことはよくある。
惜しいなと思うと同時に、自分の目利きもまんざら間違ってないと思えるのだ。
たとえば、
> 年を経て 燃ゆてふ富士の 山よりも あはぬ思ひは 我ぞまされる
これは寛平御時后宮歌合のよみ人知らずの歌で、新選万葉集には
> 年を経て 燃ゆなる富士の 山よりは 飽かぬ思ひは 我ぞまされる
と出る。
寛平御時后宮歌合の歌で古今集に採られてない歌はたいてい後世忘れ去られている。
しかしなんと詞花集に採られているのである。
藤原俊頼もものすごくたくさん詠んでいるんで、
たいてい漏れているのだが、
> 秋来れば 宿に泊まるを 旅寝にて 野辺こそつねの すみかなりけれ
これは千載集に採られている。
やられた。
大江千里
> うぐひすの 鳴きつる声に 誘はれて 花のもとにぞ 我は来にける
これは後撰集。
> 照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の おぼろ月夜に しくものぞなき
これは新古今。
> 暑からず 寒くもあらず 良きほどに 吹きける風は やまずもあらなむ
これ、大江千里なのか山辺赤人の歌なのかどっちかわからん。
> 神さびて ふりにし里に 住む人は 都ににほふ 花をだに見ず
これ、後撰集には「宮づかへしける女の、いその神といふ所にすみて、京のともだちのもとにつかはしける」と詞書きがあって、詠み人知らず、
新勅撰集には赤人(あの藤原定家が重複して歌を採るなんて!)、
また大江千里の歌集にも見える。
> あと絶えて しづけき宿に 咲く花の 散り果つるまで 見る人ぞなき
これは新千載集。
惜しい!
勅撰集にもれた歌をこれは良いこれは悪いと選別する作業は、
たぶんかなり難易度が高いタスクだと思う。
普通の人は百人一首や勅撰集の歌だけ見て、貫之が選んだから、
定家が選んだから、
勅撰集に採られているんだから良い歌だと考えるだろう。
そこには当然判断停止がある。
自分で歌を詠んでみて、さらに自分で勅撰集を選んでみて、
初めて見えてくるものがある。
そうして初めてものすごく、真剣に和歌と向き合える。
昔の選者たちの気持ちがわかる気がしてくるのである。
自分の目利きが正しいかどうかなんてことはわからん。
そもそも「正しい」とか「正しくない」なんてことは一意には決まらない。
何度も書いていることだが、
なぜ後水尾院は(類題集ではない)勅撰集を復活させなかったか。
なぜ明治天皇は勅撰集を復活させなかったのか。
いまだに不思議に思っている。