深む2

昨日書いたことは少し自信がなくなったので、非公開にした。
改めて書いてみる。

[「秋深む」を認めるかどうか](http://ameblo.jp/muridai80/entry-11876310023.html)

「深む」だが、口語では自動詞の場合「深まる」であり、他動詞だと「深める」である。
文語だと他動詞下二段「深む」はあるが、自動詞の「深む」は存在しない。

ただ、文語にも自動詞で「青む」とか「赤む」、「白む」、「黒む」などはある。
このように青、赤、白、黒などのク活用の形容詞となり得る語幹に
「む」がついて自動詞となる例は多い。

従って「深し」に対して四段「深む」があってもおかしくないということになる。
秋深まず、秋深みたり、秋深む、秋深むとき、秋深めば、秋深め。
一応活用してみせることもできる。

要するに、問題は、すでに口語の「深まる」があって、
それに対する文語が存在しないので、「深む」を造語して良いかどうかということだ。
現代の言語に合わせて古語や文語を改変するというのは国学的にはあり得ないことだが、
そうすると、
古語で「深まる」を表現するには「深くなる」と言う以外ない。

ただ、「秋が深まる」ということを古語では普通は
「秋たけゆく」とか「秋たけぬる」のように「たく」を使うのであり、
「秋」を「深まる」と表現するのもまた近世的なのである。
おそらく近世「たく」がすたれてしまったので代わりに「深まる」が使われるようになった。

「深み」という名詞はすでに平安時代にはあったらしいので、
これに対応する「深む」という動詞があってなぜいけないのか、
そもそもなぜ「深まる」なのか。
なぜ「青まる」「赤まる」ではないのかという話になる。

似た例で思いつくのは「暖める」と「暖まる」だが、古語では
「暖む」と「暖まる」であって、自動詞四段「暖む」は存在しない。

「高める」「高まる」あるいは「強める」「強まる」、
「広める」「広まる」などもそうか。
これらは要は自動詞と他動詞を明確に区別しようとする近世語の傾向なのかもしれん。
これらを自動詞で「高む」「強む」「広む」ではやはり何か変だ。
現代俳句では遠慮なく使うのかもしれんが。

「休まる」「休む」のように、自動詞に二種類あるものもある。
他動詞の「休める」とともに、昔からある言葉だ。
ということは、「深まる」も用例が残ってないだけで昔から使われていたのかもしれん。

松尾芭蕉の

> 荒海や佐渡に横たふ天の川

もやはり同じ部類の問題であるかもしれない。
「横たはる」という古語は存在する。
自動詞の「横たふ」は存在しない。
もし存在するなら、
四段に「横たはず」「横たひたり」「横たふ」「横たふとき」「横たへば」「横たへ」と活用せねばなるまい。
「横たふ」と「横たはる」の関係は「休む」と「休まる」の関係と同じであろう。

ますますもってよくわからない。
ただ大胆に仮定してみると、
「横たはる」「休まる」などは「あり」との合成語で本来ラ変であったかもしれんね。
そうでないとしても何か規則性は感じられる。

俳句は主に名詞と助詞でできているが、
和歌は動詞や形容詞、助動詞でできている。
俳句は体言に「てにをは」つけて適当に配置すれば足る。
和歌は、用言をさまざまに活用させ屈折させることによって複雑な心理を表現する。
故に和歌で活用がおかしいのは非常に奇妙な感じがするが、
俳句ではあまり気にならない(気にしない)のだと思う。
さらに俳句では季語を入れなきゃならないという規則があるわけだが、
「秋深む」は季語だよと歳時記なんかに採録されてしまい、
いろんな人が使っているのに慣れてしまった日にはなぜいけないということになってしまう。
俳句とか季語というものは、他人の趣味にケチをつけるようでなんだが、
素人がよってたかっておかしなことをやらかす。
いわば大衆化した文芸で、二次創作の一種だが、
次々に変な文語や季語を作り出して言語感覚を狂わせてしまう。
それもこれも始祖の芭蕉が変なお墨付きを与えてしまったからだ。

私とはまったくスタンス違うわけだからぐちぐち文句言わずほっとけばいいんだが。

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