相変わらず「山居」が良く読まれているのだが、
それでいろいろ人とも話をしてみて、
果たして道元は魚を釣って食ったのか、ということを、
もすこし突き詰めて考えてみる必要があるなと思った。
道元の時代、親鸞も日蓮も末法無戒を主張し、肉食を禁じなかった。
一休も、また、済顛も肉を食べた。
道元だけがどうして食べなかったと言えるだろうか。
我々は道元を今の永平寺のイメージでとらえるから、肉など食べたはずがないと思う。
しかし、当時中国でも日本でも、
僧侶が肉を食べてはいけないという規範はなかったのではなかろうか。
どうも[禁葷食](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E8%91%B7%E9%A3%9F)
など読むと、
中国仏教における菜食主義というのは、道教の影響によるものではないか。
というのは、肉だけでなく、ニンニクやニラなどの臭みの強い植物を食べないというのは、
中国の神仙思想から来ているように思えるからである。
カレーとスパイスの国インドでニンニクを食べないはずがない。
宋の時代には新仏教のようなものが生まれただろう。
日本にだけ新たに鎌倉仏教が出てきたのでなく宋の影響。
インドから伝来したナイーブな大乗仏教と中国古来の道教が習合して、
独自の中国仏教というものが出来てきた。
私は武漢の五百羅漢寺というところで精進料理を食べたことがあるのだが
(寺の中にわざわざ観光客向けのレストランがある)、
あの、野菜を使って卵や肉にそっくりの食材を作るというのはやはり道教的発想であり、
中国の寺というのは孔子廟のような廟堂と極めて雰囲気が似ていると思う。
ともかくそういう中国土着の信仰と混淆した仏教を刷新して、
仏陀の教義の本質に迫ろうとしたのが当時の新しい仏教であったはずで、
その祖を達磨に求め禅宗という形で現れてきたはずであり、
そのリーダーシップを取ったのが臨済や済顛らの「風狂」な禅僧たちであり、
道元は曹洞宗だけども、やはり臨済らの影響を受けたはずだ。
日蓮や親鸞や法然もそういう新しい仏教の影響を受けたはずだ。
そして禅宗は中国では廃れてなくなってしまい、
今の中国の仏教を観察してもそのような痕跡はないのである。
曹洞宗や臨済宗というものがもともとどんなものだったかは実はよくわからんとしか言いようがないのではないか。
日本は中国の文化が無くなってからも何百年も残るところだから、
むしろ日本の禅宗を見た方が当時の中国の雰囲気はわかるかもしれん。
原始仏教でももともと肉食は禁じられておらず、
インド土着の宗派の多くが菜食主義に固執したのに対して、
仏教は中庸を唱えた。
ただまあ釣りというのは直接的な殺生に相当するから道元がそこまでやったとは考えにくい。
そもそも「釣月耕雲」とは道元ではなく済顛の言葉なのだから。
「釣」を「鈎(かぎ)」と見て、
「鈎月」は月夜に刈り取りをすること、
「耕雲」は山上の畑を耕すこと、かと解釈してみたこともあるのだが、
済顛の詩にはっきり「釣月」とあるからにはもともと
「川面に浮かぶ月影を釣る」「月夜に魚を釣る」という意味だったとしかいいようがない。
そもそも道元が済顛のような「瘋癲漢」の詩からこのような文言を引用したこと自体が問題である。
道元は済顛を尊敬していたとしか思えない。
そう思って読むと、
「山居」の詩のそれ以外の部分はごく普通な日本人が作りそうな詩文である。
「釣月耕雲」だけが異様な雰囲気を持っている。
済顛は中国では日本の一休さんのようにテレビドラマ化されてけっこうな評判らしい。
でまあ、私のブログで良く読まれているのが
臨済関連の「裏柳生口伝」と
済顛関連の「山居」
なのは単なる偶然ではないのかもしれん。
誰なんだ読みに来ているのは(どうも中国から来ているのではないか。
最近中国語のスパム多いし)。
ちなみに私が書いた「超ヒモ理論」はよく知られてないと思うが仏教小説なので、
ついでに宣伝しておく。
ところで臨済という人は、
というか臨済の知り合いの禅宗の僧侶たちはみなやたらと人を殴ったらしいのだが、
それが今の禅宗では、座禅を組んでるときの警策となったのか。
警策自体は江戸時代以来らしいが、
それより前はもっと厳しい体罰があったかもしれんじゃないか。
そもそも僧兵を武装解除したのは信長だしな。