陸奥宗光とその時代

岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』を読んでいるのだが、
昔読んだときは、ただそのまま感心して読んだのだが、今読んでみるとアラの多いのに気付く。

陸奥宗光の父・伊達宗広は和歌を良く詠んだのだが、
今あらためてみてみると、岡崎久彦が「絶賛」するほどすごいわけでもない。
当時の紀州藩は和歌山から南紀、伊勢、松坂までぐるりと、内陸の大和地方を取り巻いて、紀伊半島の東、南、西を知行地としていた。
本居宣長は従って松坂紀州藩支配の学者であるから、紀州徳川家に召し抱えられて、
のちには養子の本居大平が宣長の代わりに紀州藩に仕え、大平が宗広に和歌を教えたのである。
この本居宣長から出た歌道はそのまま明治の桂園派の一支流となった。
桂園派はもちろん香川景樹を祖とするが、これが宮中御歌所で本居派の歌道や後水尾院以来の堂上和歌と混淆して、明治の桂園派をなしたのである。
そうした流れで見てみると、宗広の和歌はごくふつうの桂園派の範疇にあるといわねばならず、
また典型的な江戸後期の地下の和歌であり、上田秋成もそうであったように、当時の民間歌謡である都々逸や常磐津などの影響を濃く受けている。
ということを歌人でもなく、また江戸・明治期の桂園派に詳しくない岡崎久彦が考察できるはずもなかろうと思う。

> 江戸時代の日本には古学派というものができた。これは江戸時代という、学問が高度に進んだ社会における独特な現象である。何世紀もの間、朱子学が正統学として確立し、他の学説などは邪説としてほとんど存在しなくなっていた東洋社会に新説が生まれたのである。二百年間の徳川は平和で社会が安定していたので、正統派以外の説が出ても政治体制がビクともしない余裕があり、それだけの言論の自由があったということができよう。

> 新説と言っても奇抜なアイデアということでなく、孔子、孟子の思想を原典に遡って日本人特有の徹底した真面目さで学んでいるうちに自然と出て来たのである。

などと書いている。
まるで、江戸時代の日本でいきなり古学が生まれて、それを荻生徂徠が発明したような書き方をしている。明らかに嘘である。

江戸時代の日本の儒学者は当然のことながら、明末清初の学者の影響をうけた。
朱子学以外の儒学がなかったはずがない。当時の黄宗羲や顧炎武は考証学を先駆し、朱子学の理念に囚われない史学的、考証学的考察を行った。
また朱子学に対して陽明学があった。
陽明学を直接輸入したのは中江藤樹で、これを展開したのが熊沢蕃山だった。
江戸時代の日本に陽明学が深く浸透していたことは大塩平八郎の名をあげるまでもなかろう。
朱子学を正統とする林羅山らの官学に対して、在野では古学、考証学、陽明学が流行して、
これが、もっぱら論語と孟子を読めという伊藤仁斎の古義学となり、荻生徂徠の古文辞学となり、それが堀景山を経て本居宣長に伝わり、大平に伝わり、伊達宗広に伝わったのだ。
そう書かなくてはおかしい。
もちろん「日本人特有の徹底した真面目さ」というものを伊藤仁斎がもっていたのは確かだろうが、彼がいきなり古典を直接読めなどと提唱したはずがない。

> 咲けば花 散れば塵とぞ はらひける あはれ桜も 人の世の中

この、いかにも江戸期の花柳界で口ずさまれたような句をつづっててできた歌は、直接的には香川景樹の影響によるものに違いない。

岡崎久彦がいきなり、古学は日本独自に荻生徂徠が発明した、なんて珍説を唱えるはずがないから、岡崎は誰かの説を生かじりしたのだろう。
江戸時代の雰囲気を紹介したつもりで全然できてない。
岡崎という人は面白い文章を書くけど講談めいている、
彼の祖父の岡崎邦輔は、陸奥宗光の従弟だというのだから、
どうもそこらあたりの内輪褒めの話が中心になっているようだ。
用心して読まなくてはならないと思う。

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