後白河の后

後白河の后はけっこう複雑だ。

親王時代に源懿子を后とするが、
懿子が死んだのが1143年、生年は1116年とされている。
西行が1118年生まれなのでそれより年上であり、
親王は1143年に16歳。
懿子は27歳。
ちょっと信じられない。何かの間違いではなかろうか。
親王の側からの必然性とか政略結婚の必要もあまり考えられないし。

初婚だとすると25歳くらいまで独身だったのか。
なんかおかしいなあ。
再婚というのならまだわかる。
後白河の皇子の二条天皇も二代后を入内させているし、そういう傾向があったとしても不思議はない。
にしても女性の方があまりにも年上過ぎないだろうか。
姉さん女房というのなら光源氏の本妻もそうだが。

皇子と后の婚姻はどちらも十代前半というのが普通だ。
当時25歳まで独身ならば明らかに婚期を逃しており、一生独身でもおかしくない。
当時の観念では初老というに近く、婚活すらしないだろう(いや、初老で結婚する人もいるだろうが)。
タイミングが変だ。まあいいや。
二条天皇を産んですぐに死んでしまう。

で、藤原忻子は1155年入内なので、懿子が死んでから12年も後だ。
子供もいない。
後白河即位と同時に入内している。
俊成はこの忻子の付き人だった。
あまり重要なポストではなかっただろう。
忻子の妹にいわゆる二代后こと藤原多子がいる。
後白河の弟・近衛天皇と、子の二条天皇の二人の天皇の后となったからだ。
姉妹の父は徳大寺公能で、母は藤原豪子。
後白河にさほど寵愛を受けたとも思えない。
後白河は近衛天皇とも二条天皇とも仲が良くはなかったからかもしれない。

平滋子は1142年生まれ。
1127年生まれの後白河よりは15歳下。
寵愛を受け始めたのは1150年代後半、17、8歳ころのことではないか。
高倉天皇を生んでいる。

藤原成子は後白河のいとこにあたり、正式な后にたてられたのではないが、
1140年代半頃、つまり、懿子がなくなった頃から寵愛を受け、
以仁王、式子内親王他、皇子・皇女を何人ももうけている。

他に何人も「局」とよばれる女御がいる。

懿子が謎すぎる。伝記もあまり残ってない。
皇子の二条天皇は後白河の院政と対立したが早死してしまった。
記録があまり残ってないのはそのせいかもしれない。
後白河がまだ若い皇子の頃の后のせいかもしれない。

多子は二条天皇より年上だったが、それでもわずか三歳上なだけであり、
1161年再入内したときに21歳だった。
まあ、それもかなり特異な例だが、懿子はもっとはずれている。
なんなのかこれは。

懿子は後白河が即位前に死んでいるので、親王妃であり、
二条天皇の生母なので、皇太后を贈られている。
懿子が生きていれば即位後に順当に皇后に立てられただろう。

滋子は後白河が譲位した後の后だから、皇后ではないが、
高倉天皇の生母なので皇太后である。
譲位は1158年、入内と皇子の誕生は1161年。
滋子は平氏なので、身分が低く、女御にすらなれなかった。
皇太后になれたのは結果論である。

忻子が皇后かといえば彼女は中宮でしかない。
この時代、中宮と皇后は微妙に違う。
結局皇后がいないのだ、後白河には。皇太后は二人もいるのに。
へんてこだなあ。
以仁王が皇子であるのに冷遇されて、源頼政を巻き込んでいわゆる以仁王の乱を起こし、
源平の争乱の発端となったのは有名だ。
成子が後白河に最も寵愛され、同じくらいに滋子を寵愛したが、
正式な皇后はいなかった。
実におかしな具合だ。

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