筆者の余技

小林秀雄『本居宣長』補記一

> 今日遺されている彼の全著作が、筆者の余技を出ないものという事であれば、田中さんが言われたように、プラトン研究家は困ったことになる。プラトン自身はどうでもいいと思っていた文章から、その明さなかった哲学思想の核心となっていたものを、犯人でもあげるように探さなければならぬ、言ってみれば、そんな窮境に立たされることになる。

これは小林秀雄が自分の著作について言っているように思えてならないのである。

> 昔の人より、君達は果たして本当に利口になったかどうかという問いが、含まれている

> 正気でいたい利口者には、恋の真相とは、まさにその通りであるかどうかという問題には、直かに出会えない。利口者は恋の愚を避けた積りでいるだろうが、実は、恋の方で、利口者など近付けないのである。

> 狂気(アニマー)とは、正気に到らないものではなく、正気を超えるもの

> 心を狂わせなかったら、到底常人には出来ぬ仕事がやってのけられた筈はない。

以前書いた[日神論争](/?p=14196)というのも合わせて読んでみてほしいのだが、
上で小林秀雄が利口者、常人と言いたいのは上田秋成であり、パイドロスである。
狂人と言いたいのは本居宣長であり、ソクラテスである。
私は以前この『補記一』を読んで、なんで宣長の本に唐突にソクラテスとかプラトンの話が出て来なきゃならないのだ、
なんかの冗談かと思ったのだったが、落ち着いて読んでみるとなかなか面白いことが書いてある。
またしても私は彼の「余技を出ないもの」、彼自身「どうでもいいと思っていた文章」から「その明さなかった哲学思想の核心となっていたものを、犯人でもあげるように探さなければならぬ」という気持ちになった。

神話は実際にあったことと信じるかいなかというパイドロスの問いに対して、ソクラテスは「もし私が当今の利口者なみに、そのような伝説は信じないと言えば、妙な男と思われないで済むだろうがと言葉を濁し」た。「気に入らなかったのは、当時のアテナイ人の知識人の風潮、神話に託された寓意を求めるという、学問めかした神話解釈であった。」

その時代時代の人が太古の神話を、その時代時代の都合に合わせて解釈しようとする。特に日本の場合には、外から新しい宗教や思想が伝来するたびに、神話は再解釈されてきた。
秋成は、仏教も儒教も、日本の神様は嫌っておらず、時代の流れで自然に今のようになったのだ、と言っている。宣長にしてみればそういうある種の合理主義というかご都合主義というのは、漢意に染まった考え方と同じく拒絶せねばならなかった。日本的多神教から秋成の考え方は自然と出てくる。宣長の一神教的な発想はなかなか出てこない。

数学者や自然科学者は必ずしも利口者ではなく、近代西洋では狂信的なキリスト教徒であることが多かった。ニュートンなどがそうだ。
彼は数学や天文学を通じて神が実在することを証明しようとした結果あのような偉大な学問上の成果を発見し得たのである。
同じことは本居宣長にも言える。
「利口者」「常人」ではない「狂人」、「妙な男」でなくては到達できない境地というものは確かにあるはずなのだ。
宣長は独力で、儒教や仏教の影響が未だ及ばなかったころの、純粋な神話までたどり着いた。
それは天武天皇が見ていた世界だった。
彼はそこに彼自身の一神教を発見した。

ところで中島敦の『文字禍』はこの「パイドロス」に着想したもののようだ。

小林秀雄『本居宣長』四十九

小倉色紙の巻頭の色紙が10枚伝わっている。
そのうちの1枚は本物で、残りの9枚は偽物だが、
上田秋成はどれが本物かなどわからぬのだから10枚とも偽物だと言おうとしている。
などと宣長が言っているのがすごくおかしい。
定家直筆の小倉色紙は1枚に1首なので、10枚同じ歌の色紙があるのはおかしい。
しかしそのうちの1枚が本物である理由にはならない。
『明月記』に定家自身が書き残したように小倉色紙はあった。
しかし1枚も後世に伝わってない可能性もあるのだ。
つまり、もし本物があるとすればそれはたかだか1枚しかない、ということしか言えない。
また『明月記』には100首100枚あるとも書いてない。もっと少なかった可能性もある。
しかし宣長は本物の小倉色紙が100首100枚あることを疑おうとしない。
どうも宣長は数学的、論理的思考は苦手だったようだ。

私は、本物の小倉色紙は宣長の時代にはもはや存在していなかっただろうと思っている。
それは嵯峨中院こと亀山殿が火災で失われたときに一緒に燃えてしまったのに違いない。
亀山殿は天龍寺になったが、天龍寺も何度も焼失している。
色紙を障子からはがして保管していない限り(そんなことするはずもないが)、
燃えてしまったに違いない。

宣長は頓阿が好きで京極派が嫌いだがそれはおそらく宣長が少年時代に和歌を学び始めたときにすでにそうだったからで、生涯頓阿のような坊さん臭い、二条派の和歌が好きで、新古今が好きで、それとは正反対の京極派が嫌いなのだ。ということは西行や式子内親王の歌も嫌いだったはずだ。
それは宣長の好き嫌いという以上のものではない。
宣長は学問的には恐ろしく直感や推理が効くところがある。
『古事記』や『源氏物語』を解き明かしたこと。古今伝授の嘘を見抜いたところなど。
しかし宣長は万能ではなかった。ある部分は醒めて、ある部分では狂った人だったからだ。

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