桜井英治「室町人の精神」を読む。
足利義教もまた、源実朝同様に暗殺され、最後まで首がどこにあるかわからなかった将軍なわけだが、
義教が関東公方を滅ぼしてしまったことが応仁の乱の遠因であると、この本は指摘していて、
なかなか興味深い。
足利幕府初期には南朝の他に鎌倉公方が居て、日本はだいたい三つの政権に分かれていた。
鎌倉公方と言っても足利氏なわけだが、
板東はいつでも自立する勢いであるから、何かと牽制される。
鎌倉幕府時代に京都と鎌倉の二ヶ所に権力が分かれてバランスを取っていたのと似ている。
ところが義教の時代に関東公方は滅んでしまい、南朝も後南朝もほとんど滅んでしまった。
京都の政権は、パワーバランスを保ちつつ善政を施すというモチベーションが失われてしまった。
しかも義教の一局独裁が始まった矢先に義教は赤松満祐に殺されてしまった。
これによって室町政権は暴走を始めたというのである。
畠山氏の家督争いも義教の独裁体制に起因しているし、
山名氏が強くなりすぎたのも義教の弔い合戦に山名氏が勝利し赤松満祐の所領をまるごと得たからだ。
しかも日野富子口出ししすぎ(笑)。
なんだかますます義政がかわいそうになってくる罠。
義教は将軍直属の軍団を作ろうとしたが、
逆に言えば、足利氏単独の軍事組織など無いに等しく、
所領と言っても大したことはなく、
管領クラスの守護大名らがそれぞれ地元で反乱を起こせば手がつけられなくなる状態だった。
義政君かわいそう。
彼も下手すると義教や実朝みたいに暗殺されるかもしれない立場で、
政治に口出ししたり女房を懲らしめたりするよりも、
天皇や公家らと仲良く隠遁した方がましだと思ったのだろう。
その辺はやはりフランスの絶対王政なんかとはまるで違うわな。
このころの歴史はほんとうに濃密で、源平合戦の頃とはまるで違う。
まるで違うけれども権謀術数も発達していて、
南朝だの後南朝だの義教暗殺だの嘉吉の乱だの、
記録は残っているが黒幕は誰だったかなどということは隠蔽されているのだな。
記録が残るようになればなるほど隠蔽工作も発達するということだわな。
そこが平安時代とはまるで状況が違う。