頼朝と義経の対面の謎。

おなじく岩波書店新日本文学大系43。
こんどは平治物語。

平治物語は初めてざっと通して読んだが、
なんと後白河法皇が亡くなるところまで書いてある。
つまり、終わりは平家物語とだいたい同じなんだが、
治承年間の戦いのところはごくあっさりとしか書いてない。

驚くべきことには、頼朝と義経の対面は、吾妻鏡や平家物語では黄瀬川であったことになっているのだが、
こちら平治物語では相模国の大庭(藤沢の辺り)で対面し、
その後に富士川の戦いが記述されており、
このままでは義経も富士川の戦いに参加したことになる
のだが、こちらの方がよほどあり得る話だ。
吾妻鏡だと治承四年10月20日が富士川の戦い、
翌日21日に黄瀬川対面。
しかしこれだと、義経は陸奥国からよっぽど遅参したことになるし、
足柄峠も越えて単独で来たことになる。かなり無理がある。
一日遅れで富士川の戦いに間に合わなかったなどというのもかなり嘘くさい。
だが、おそらく、この平治物語の後ろの方におまけのように書かれたこの記述を、
ほとんどの人は読んでないし、これまでも無視されてきた。

結局ほんとのところはわからんのだな。

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