浅草の三社祭りなんだけど初日金曜日の夜から町会ごとに提灯の櫓を建てたり、簡易寄り合い所を作ったり、神輿やお囃子を載せる車(山車?)などを繰り出して騒ぐ。土曜日もやはり町会ごとに騒ぐ。一つの町会に神輿1台ずつかというとそうではなく、大人神輿と子供神輿という具合に2台ずつくらいあるらしい。というわけで浅草氏子44町会、合計100基ほどの神輿が浅草で一斉に練り歩き始め、いたるところにテントやら仮設小屋が建てられて道にはみ出していろんなものが置かれ、ブルーシートを敷いて宴会をもよおし、子供はここぞとばかり路上で追いかけっこし、よそからも見物客が来るから交通に支障をきたさないはずがない。昨日も夜中に近所のスーパーに惣菜でも買いにいこうかと家を出たら神輿で道がふさがっていて2箇所ほど迂回せねばならなかった。あちこちから祭り囃子が聞こえてきて祭りの中に没入してしまうという実に面白い体験をした。



思うに、江戸の三大祭り、神田祭と山王祭は将軍家が見物したが、三社祭りはそうではなかったという。将軍だってヒマじゃないわけで何月何日の何時にどこそこに桟敷を作ってその時だけ見物する、ということになるだろう。だから、何日間もだらだら祭りをするとしても、将軍家にお目見えするための数時間だけは、特定の通りを整然と行列を組んで進んだりするのに違いない。そういう下地が江戸時代にできていれば、マスコミとしても、今秋葉原を神輿が通りました、などという絵を撮りやすい。撮れ高を稼ぎやすい。京都でも天皇が町人の祭りを見物するとなると町人も意識するだろう。祇園祭の山鉾なんかも、あれは町人が自分たちのために楽しんでいるというより、日本の首都を訪れる万人の客に見せることを意識してああいうふうになったのに違いない。
三社祭りはそういう公権力の介在がほとんどまったくない状態で、浅草の町人たちが好き勝手にやっていたもので、しかし浅草は当時大阪を抜いて日本一、いや、世界一人口稠密な都市であったはずだから、民間の祭りがとんでもない規模で寄り集まってああいうカオスな祭りが自然発生的にできてしまったのだろう。
最終日、三日目は浅草神社の一宮、二宮、三宮が、町会よりは多少大きな神輿を出すというのだが、これも浅草寺境内はひとごみでごった返していてどこをどう撮ればいいのかマスコミとしても撮りかねようし、まして一般人が見ても何をやっているのか、よその祭りとどこが違うのか、一部を切り取った映像だけではわからないのであんまり面白くない。ドキュメンタリーを作ることもできようが大して注目もされない。だから神輿どうしで喧嘩になった、というようなことくらいしかメディアでは報道されない。もともと人に見せようということを意識してできた祭りではない。純粋に町人が楽しむためにできたものだ。だからマスコミにとってあまりにもうまみがない。
普通の観光客は三日間だらだら三社祭りを見たりしない。せいぜい数時間浅草に滞在してその片鱗を見るだけだ。だから三社祭のすごさなどというものがわからないに違いない。
観音裏辺りの町会の名前は、象一、象二、象三などと呼ぶらしかった。今の町名と違うのでわからんかったがうちの近所でも普通に神輿を出していた。象とはこの辺りがかつて象潟と呼ばれていたことに由来するらしい。