「治天の君」初出

投稿者: | 2011年2月7日

どうも「治天の君」と言う言葉を最初に使ったのは吉川英治『私本太平記』らしいぞ。
これはやっかいだ。今の日本人はたいてい吉川英治に脳をやられているからな。
この呪縛はなかなか取れまいよ。
もし『私本太平記』が初出だとすれば1960年頃までさかのぼれるか。出てきた時代も非常に悪い。

「治天の君」という言葉が一人歩きして、昔からそんな用語があったかのようになってるのが気持ち悪い。
戦後民主主義の亡霊の一つだな。
早く供養して成仏させないと。
皇位継承は「治天の君」という便利な言葉一つで片付くようなものではない。
逆にこの言葉のせいで皆が思考停止してわかったような気分になっている。極めてまずい。

wikipedia の後嵯峨天皇の記述で、

> 吉川英治は『私本太平記』中で「天子の座は象徴で、治天の君たる上皇、法皇にこそ実権がある、というのは既に常識であった。この無理な処置は少しでも長く院政の権栄を享受したいがためであろう。」と考察している。

などと書いてあるのだが、意味がわからない。
後嵯峨上皇が最年長の上皇だから、誰を皇太子にするかは、後嵯峨上皇が決める。まあ普通だ。
少なくとも、後嵯峨上皇が院宣を出したという形で皇太子が決まる
(二条天皇と後白河上皇のように、天皇が上皇より発言力を持っていた例もある。上皇が天皇より偉いとは、一概には言えない)。
しかしそこから先、当時の今上天皇である後深草天皇の皇子(後の伏見天皇)ではなく、
今上天皇の弟(後の亀山天皇)を皇太子にたてたのが、
どうして「少しでも長く院政の権栄を享受したいがため」なのだろうか。ちんぷんかんぷんなのだが。
どちらが後の天皇になっても後嵯峨上皇の地位には(あまり)関係ないと思うが。

たとえばこう言いたいのだろうか。もし伏見天皇が即位するとその父である後深草上皇の発言力が強まり、
逆に亀山天皇が即位すれば、兄である後嵯峨上皇の発言力が維持されて、後深草上皇の権力を押さえられる、と。
はて。

そもそも後嵯峨上皇は「院政の権栄を享受」なんかしてなかったと思うが。
皇位継承は北条氏が決めていたに違いない。どうして何を享受できるのだろうか。院政って何?
また、

> 一方井沢元彦は『逆説の日本史』中で両統迭立のきっかけを作った後嵯峨上皇を「歴代天皇における最大の愚行」と非難している。

とも書かれているが、これも意味不明。
天皇の皇子ではなく兄弟が皇位を継いだ例ならいくらでもある。
鳥羽天皇の皇子で、崇徳・近衛・後白河とか、後鳥羽天皇の皇子で、土御門・順徳とか。
なぜ「歴代天皇における最大の愚行」とまで言い切れるのか。
崇徳・近衛・後白河の時は実際保元の乱が起きているが、こちらの方も似たような愚行といえないか。
また、土御門・順徳の時は、後鳥羽院が、土御門天皇が幕府に対して消極的だからと、
順徳天皇に位を譲るように迫ったわけだが、これも承久の乱の一因となっているとみれるわけで、
似たような愚行といえないだろうか。

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