龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

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そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

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材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

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