宣長の歌

宣長が和歌に志し、『和歌の浦』を執筆し始めたのは延享4 (1747)年11月14日のこと。
生まれた日は享保15 (1730) 年5月7日なので、満17歳の時。
『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」

> 十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、
よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、
人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき

宣長が初めて歌を詠んだのは、延享5 (1748) 年正月のこと。

> 此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける
> 新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空

寛延2年3月20日 (1749/5/6)
> 同二年【己巳】従三月下旬、詠和歌受宗安寺〔中ノ地蔵立〕法幢和尚之添削【自去年志和謌、今年ヨリ専寄此道於心】また、三月下旬ヨリ、宗安寺ヨリ歌ノ直シヲ受ル、「杉ナラハ、「ハル/\ト、「カクヲシム、「ナニハヱノ、「池水ノ、始テ五首ヲツカハス

この[法幢和尚](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/houtoku.html)というのが、初めて宣長が歌を添削してもらった人、
つまり最初の師匠ということになる。
どんな人かはそれ以上はわからない。

寛延2年9月10日 (1749/10/20) 定家の歌論書『詠歌大概』『秀歌体大略』などを筆写する。

なぜ和歌に興味を持ったのか、いろいろ理屈を考えてみたが、京都に行ったり、
父が商売していた江戸に行ったり、
また吉野や伊勢神宮に参拝したりなどして、自然と和歌に関心をもった、
という程度のものなのだろう。

宝暦2(1752)年3月上京。上京というのはこの当時は当然京都へ行くこと。

> 母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒学をもせむとてなりけり

> 景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす

堀景山とは儒学者で医師。
また、契沖の研究者で、景山の紹介で契沖の『百人一首改観抄』を読む。
宣長は契沖を高く評価しているがそれは師匠景山の影響だろう。

宝暦2年9月22日、新玉津嶋社を訪い社司森河章尹に入門、
新玉津嶋社和歌月次会に約1年ばかり出席するようになる。
この森河章尹という人が、法幢に続いて宣長の二番目の和歌の師範となる。

宝暦2年11月 (1753/1/3)

> 年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉もはか/\しくよしあし見わくる人もなき事をうらみて同し題(浦千鳥)にておもひをのへ侍りける/和歌浦たちよるかたを浪間にそ夜半の千鳥の鳴あかすなる/浜千鳥鳴こそあかせ和歌の浦やたつらんかたもなみのよる/\

と言った具合に、宣長は森河章尹という人が歌の良し悪しもわからぬ人だと言っている。
森河は藤原氏であり、冷泉為村の弟子である。
為村(正徳2年1月28日(1712年3月5日) – (安永3年7月29日(1774年9月4日))は正真正銘、
堂上家の歌人であり、霊元天皇(承応3年5月25日(1654年7月9日) – 享保17年8月6日(1732年9月24日))に古今伝授を受けた。
霊元天皇が添削した詠草が現存するらしい。
冷泉家というのは定家の唯一の直系の家系でもある。

宣長が、『排蘆小船』で古今伝授のことを激しく攻撃しているのは、
この森河や為村のことを指している、と言って間違いなかろう。
古今伝授がでっちあげだと初めて主張したのは契沖で、
宣長も全面的に賛同している。

小沢蘆庵は為村の弟子だったが破門された。
宣長と蘆庵は、宣長が京都遊学中、宝暦7年8月6日(1757/9/18)出会っている。
蘆庵と宣長の接点は森河か為村しかない。
為村は当時まだ存命中だ。
新玉津嶋社和歌月次会で顔見知りになったと考えるのが自然だ。
この年には師匠の景山が死去し、宣長はただちに帰郷している。

宝暦8年2月11日地元松坂の嶺松院歌会に初めて出席し、有賀長川に添削を受けている。
つまり彼が宣長の三番目の歌の師範となる。
長川は有賀長伯という比較的有名な二条派の歌人の嗣子。
松坂に住んでいたのでなく、おそらく大阪か京都に居て、宣長は書簡で添削を受けたのだろう。

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