蘆庵と宣長

[宣長年譜1757年](http://www.norinagakinenkan.com/nenpu/nenpu/n0183.html)

> 宝暦7年8月6日 (1757/9/18)
○8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる。

> 『在京日記』(宣長全集:16-128)。
本庄七郎は、小沢蘆庵。蘆庵は享保8年(1723)生まれで宣長より7歳上。寛政5年(1793)上京の折にも対面、唱和する。その時の蘆庵の詞に「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」とある。宣長が京都に遊学した年には既に30歳であるから「わがはたち余り」はあるいは記憶違いか。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。

廬庵が1757年に宣長と出会い、宣長の『排蘆小船』に廬庵の「ただごと歌」の影響がある、
とすればこれはかなり重大なことになる。
「ただごと歌」の主張と、『排蘆小船』のありのままに歌を詠めという主張は、
いずれも紀貫之の古今序に基づいていて、極めて近い。

廬庵は1723年生まれ、宣長は1730年生まれ。当時、廬庵34才、宣長27才(いずれも満年齢)。
「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、」というのは、つまり自分が二十代の頃に、という意味であり、
話のつじつまはあう。
というよりも、宣長はもっと早い時期に廬庵と会っていたかもしれない。
日記に書かれていないだけかもしれないのだから。
宣長は1753年、冷泉為村門下の森河章尹に入門した。
廬庵もほぼこれと同時期に為村の門人になった。
同じ京都の同じ門下である。
これ以後二人がたびたび出会っていてもおかしくない。このとき宣長はまだ23才。
まさに「はたち余り」の頃である。
月次会の席で、少なくとも年に数回は会っており、場合によっては、
個人的に頻繁に連絡を取り合っていてもおかしくない。
このことは、繰り返すが、極めて重大なことなのである。
なんとか証拠固めしたい。

廬庵という人の経歴はわかっているようでまったくわからない。
宣長の場合こまごまと日記をつけていて、それもふくめて著述のほぼすべてが完全な形で残っており、しかも全集としてまとめられている。
正に一次資料・一級資料であり、研究がやりやすいといったらない。
しかし、廬庵のよく知られた六帖詠草などは、割と年を取ってからの歌しか採られていないようだ。
宣長と出会った30才の頃にどんな歌を詠んでいたか、それもよくわからない。

[江戸中後期における三都間の歌壇の対立](http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/2006/ja/issue/pdf/pdf_0309city-fiction/07arokay.pdf)。
ドイツの日本研究者が書いたもののようである。
少し面白い。

> 職仁親王とその弟子である谷川士清や特に言語学者として知られている富士谷成章の流派、武者小路実岳と弟子の澄月や伴蒿蹊の流派、そして冷泉為村と弟子の小沢蘆庵、慈延、涌蓮の流派である。後には為村と実岳が激しく競争するようになったが、弟子の澄月と蘆庵が特に対立的であった。

> 大坂の歌壇では烏丸家や有賀長因の歌学を受け入れた加藤景範が中心的存在になり、初心者向けの歌学書を出版したり、京都の歌人である長因・蘆庵・澄月などの歌と自詠を歌集に編んだりした。先に述べた、和歌の普及に功績のあった有賀長伯と同じように、通俗歌学書によって大坂での和歌の普及に貢献した。

なるほど、当時の京都・大阪の歌壇とはこうしたものだったのだろう。
有賀長因は、松坂に帰った宣長が添削を頼んだ有賀長川のこと。
烏丸光栄は為村の師で霊元天皇の弟子。
有栖川宮職仁親王は霊元天皇の皇子で光栄の弟子。

谷川士清は宣長と比較的似た経歴の人で、三重県津の出身で京都で医者となり、職仁親王に歌を習って国学者となった、とある。
宣長のライバルとして描いたら面白そうな人だな。

加藤景範は医師で薬売り。大阪にいたのだろう。

宣長が有賀長川に添削を頼んだのは、長川が弟子をたくさん取って通俗的な添削などを商売とするような人だった、
というだけのことだったのではなかろうか。
ある意味、後の香川景樹に似てはいないか。

富士谷成章は京都生まれ、職仁親王の弟子で国学者、宣長は彼を評価していたようである。

武者小路実岳は堂上家。

伴蒿蹊は京都の商家の出。

澄月は子供の頃上洛して比叡山に登り僧となったようだ。
慈延も似たような境遇の人のようだ。

涌蓮は伊勢の人で江戸にいたが出奔して京都・嵯峨に住む。

[小沢蘆庵の人となり・事績](http://www.sobun-tochigi.jp/hurusato/matome.html)

> 小沢家は大和宇陀郡松山藩。

> 享保8年(1723)難波に生まれ、京都に住した

> 若き時本庄家の養子となり、本庄七郎などと称した。

> 武技にも長じ、鷹司輔平に仕えたが、致仕後は歌人として一生を送った。はじめ冷泉為村を師としたが、破門後一家の説を立て、巧まぬただ言を主張し、清新平坦しかも雅趣ある作品を残した。

> 澄月・慈延・伴蒿蹊・上田秋成・入江昌喜・加藤千蔭らと交友があった。

> 晩年契沖を尊び、その著書を集め翻刻の意があった。静嘉堂文庫蔵『さいうの記』21冊には契沖説の書抜が多い。
流布の刊本『六帖詠草』のほかに稿本『六帖詠藻』47冊(自筆本静嘉堂文庫蔵)やその系統の本もまた知られている。
著書としてほかに『ふり分髪』『ふるの中道』などがある。※阿部註:編著書類は50書にのぼる。

宇陀というのは、大和の飛鳥の辺り。南紀の山間部、といったほうがわかりやすいだろう。
そこの武士の子孫として大阪に生まれ、のちに京都に移り住んだ。
養子となり、士官もしたが、四十代半ばに浪人になっている。
それ以上のことはわからん。

上田秋成との交友とは晩年近くのことだろう。

入江昌喜は大阪の商人で、隠居後に国学を研究した。

加藤千蔭は有名な江戸の文人で、御家人。馬渕や田安宗武などの一派だわな。
おそらく書簡上のつきあいで、盧庵と直接会って交友したわけではあるまい。

上の引用の中には入ってないが、香川景樹とも交際があったはずだ。

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