御用提灯

ふと、御用提灯というのはほんとにあったのだろうか、
同心やら岡っ引やらが大勢あんなものを持って御用御用と言いながら捕り物をしたのであろうか、と疑問に思ったので、
つまりアレは時代劇にありがちなステレオタイプではないのかと思ったので、少し検索してみると、
なるほど青空文庫にいくつか事例があっていずれも戦前の時代小説。
その中で直木三十五の『[相馬の仇討](http://www.aozora.gr.jp/cards/000216/files/1716.html)』というごく短い話があるのだが、その四節目、少し長いが面白い語り口なのでまるごと引用すると、

 喜遊次が高座を降りて、楽屋――と云っても書割のうしろで坐る所も無い。碌に削りもしない白木を打交えた腰掛が二つばかり、腰を下して渋茶をすすっていると、

「喜遊次とは御前か」

 と背後からぴったり左手へ寄りそって立った男。田舎の同心だけは知っている。右手へ立つと抜討というやつを食うが、左手へ立つとそいつが利かない。

「ヘイ、手前」

「一寸外まで」

 と、云ったが蓆一枚撥ると外だ。四五人が御用提灯を一つ灯して立っているからはっとしたがままよと引かれる。何かのかかり合いだろう。真逆露見したのじゃあるまい。と思いながら役宅へつく。

 白洲――と云っても自い砂が敷いてあるとは限らない。赤土の庭へ茣蓙一枚、

「夜中ながら調べる。その方元佐々木九郎右衛門と申したであろうがな」

 さてはと気がついたが逃げはできない。白を切ってその上に又と、

「一向存じません」

 役人首を廻して、

「この男に相違ないか」

 と云うので、喜遊次ふと横を見ると、篝火の影から、

「確と相違御座りませぬ。九郎右衛門、よも見忘れまい。中川十内じや」

 と、中川十内。奉行又向直って、

「どうじゃ、その方にも見覚えがあろう」

「はっ」

 と云ったが、十内が「相違ない」と云ったのと、奉行が「どうじゃ、その方にも」と云ったのとは、間髪を容れない呼吸で畳み込まれた。それに応じて明快に、

「いいえ決して」

 とは中々云えない。誰でも「はッ」と出てしまう。その隙に又追かけて、

「縄打て」

 あざやかな手口、原町へ置いておくには惜しい役人と思ったが、敵討願と云うので、丁度来合せていた領主相馬弾正の御目附、石川甚太夫が自身で調べたのだ。

「原町」とはなんであろうか。よくわからんので冒頭から読み直すと「相馬の仇討」というのは戦前は有名な講談だったらしく、

> 「軍右衛門、廉直にして」、「九郎右衛門後に講釈師となる」
 廉直などと云う形容詞で書かれる男は大抵堅すぎて女にすかれない。武士であって後に講釈師にでも成ろうという心掛けの男、こんなのは浮気な女に時々すかれる。
 そこで、軍右衛門の女房は浮気者であったらしく、別腹の弟九郎右衛門といい仲に成ってしまった。寛延二年の暮の話である。

寛延というから吉宗の子家重が将軍の時代。
佐々木九郎右衛門は磐城国相馬郡中村藩の武士で軍右衛門の異母弟、軍右衛門の妻と密通した上に、その妻と逃げ軍右衛門の寝込みを襲って殺害する。
金も取ろうとしたが見つからないのでまごまごしていると、家臣の中川十内に見つかってしまい、逃げるが雨戸に刺さったままにした刀で身元がばれる。
十内は九州の佐柄(?)から博多、広島、大阪、京、江戸と探し回り、とうとう仙台で喜遊次の名で講釈師になっていたのを見つける。
九郎右衛門対軍右衛門の息子清十郎、加勢に中川十内、十内の弟弥五郎と一対三の試合となり、清十郎はめでたく仇を討つ、という話。
「原町」とは相馬郡原町村(現南相馬市)によるのだろう。
御用提灯を持っていたから町奉行か何かというわけではなく、相馬藩士というわけだ。
邸宅というのも、相馬中村藩邸か何か(仙台にまで藩邸があるか?)なのだろう。

で思うに、わざわざ御用提灯を振り回して御用御用と叫びながら岡っ引が捕り物をするはずもないと思う。
しないことはなかったかもしれないが、実際の捕り物というのはもっと地味だったのに違いない。
ルパン三世と銭形警部じゃあるまいし。
だが岡っ引が提灯振り回して御用御用と言っているほうが時代劇的にはわかりやすい。
しかし直木三十五はそうしない。そこが偉い。
さすがに直木賞の元になった人だ罠。
時代劇、時代小説だからと型にはまったものは書かなかった、ということではなかろうか。
直木賞というのはやはり彼のような時代小説をメインとするものなのだろうか。

菊池寛『[恩讐の彼方に](http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html)』も主君の妾と不義密通して逆に主君を斬って逃げ、息子が日本中を探して仇討ちする、
というプロットであり、割と似ている。こういうのが戦前は流行っていたのだろうか。

宮将軍擁立説

徳川四代将軍家綱が嗣子なくして死去したときに、後継者としては、弟の綱吉、家綱より早く死んだ綱吉の兄で家綱の弟の綱重の子の綱豊、その他に、有栖川宮幸仁親王を宮将軍として迎えようという案もあったという。徳川実記に書かれているという。

有栖川宮幸仁親王は家康の血を引いているというので、調べてみると、家康の次男・秀康は結城家に養子に出たが後に松平家に復帰、その息子・忠直は越前松平家(福井藩松平家)当主でかつその妻は二代将軍秀忠の娘・勝姫。忠直と勝姫の娘で秀忠の養女となった亀姫(寧子)は高松宮好仁親王の妃。好仁親王と亀姫の子・明子は後西天皇の妃で、有栖川宮幸仁親王はその皇子である。たしかに、男系・男系・女系・女系・男系と来て家康の五代後の子孫なのである。

ここで一番問題になると思われるのは徳川宗主である家綱の遺志なのだが、これがまったくはっきりしない。血筋で言えば家光に一番近い綱吉であると徳川光圀や堀田正俊が主張したという。長子相続の原則にのっとれば綱豊(後の家宣)であるが、綱豊の父綱重(家綱の弟、綱吉の兄)はすでに死去していた。有栖川宮幸仁親王を推したのは大老酒井忠清。酒井家は三河時代からの譜代であるが、その主張に根拠なしとは言えない。

鎌倉幕府が宮将軍を迎えたのは、頼朝の子孫が皆絶えてしまったからであるが、家康の子孫は、親王・内親王を含めてけっこういたようである。ただし家康の血を引いた天皇はいまだいなかったはずで、いたらもっと大問題になっていただろう。いずれにせよ、頼家の子や実朝の兄弟らが死んだときほど必然性はなかったと思う。だって御三家だっているわけだし。血統が絶える心配がまるでないのに、わざわざ宮家から将軍を呼ぶか。吉宗に決まるときにもそんな議論があったのだろうか。

ただ、天下国家のためには宮将軍の方が都合が良いという考え方もあり得る。戦国の世であればともかく、血の近い遠いよりも、いっそのこと皇族を将軍に迎えた方が良い、外様大名や浪人者などから文句の出ようも無い、一気に天下は静謐になる。たぶん遅かれ早かれ公武合体は成るのだから、今一気にやってしまえ、という考えはあったかもしれない。豊臣秀吉だってわざわざ摂家になったのだから、ゆくゆくはそうしたかったのに違いない。

堀田正俊が稲葉正休に刺殺されたのは、稲葉の個人的遺恨という説が有力だが、堀田と対立した綱吉(もしくはその側近の柳沢など)の陰謀であるという説もある。また、綱吉を擁立した堀田を恨んだ有栖川宮幸仁親王派か綱豊派、大老の酒井らなどということもあり得よう。事件の現場に居合わせた大久保忠朝・戸田忠昌・阿部正武などの老中らが、口封じのために稲葉と堀田を一度に始末したと考えられなくも無い。よくわからんねえ。

しかし puboo が重くて困る。最近はときどきつながらないし。

従甥

メモ。

稲葉正休は政吉の子。政吉は正勝の弟。
正則は正勝の子。正則の娘が堀田正俊の妻。
つまり、正則と正休はいとこである。
正休にとって正俊はいとこの義理の息子となる。
いとこの息子のことをいとこ甥というらしい。
ややこしい。

迷走する国道一号線

なんだかよくわからんのだが、たぶん、本来の東海道というのは、
江戸城本丸中雀門を出て、下乗橋を渡り、
桔梗門を出て、桜田門、虎ノ門を出て、増上寺の西を抜けて、
品川宿、川崎宿を経て、神奈川宿へ至るのが正しいと思う。

品川宿というのは今の京急線の北品川駅から青物市場駅辺りまでを言う。
品川駅の南にあるのに北品川駅とはこれいかに、
ということについてはググれば書いてあるからまあ良いとして。
ここは第一京浜国道15号線なんだよね。

国道1号線は三田で15号線にぶつかる寸前で急に西に折れる。
直進して15号線に合流する三田通りというのがあるのにもかかわらず。
ちょうど慶応大学の辺りである。
ほんとうの東海道はこの三田通りを直進して15号線に入り、泉岳寺を通り品川を通り神奈川に至るまでずっと15号線。
この三田通りの交差点に「札の辻」というのがある。
おそらく京都から下向した来た武家はここから左の道を取る。
大名行列とか。
しかし、農工商は右の道を通る。
東海道の分岐点だったのだろう。

1号線はどんどん西へそれて五反田へ。
ここから中原街道に分岐する。
しかし中原街道になりきるのではなく、今度は東に向きを変える。
そしてなぜか第二京浜と呼ばれるようになるのである。
第二京浜とはなんぞや。
戦前の昭和に開発された国道らしい。
第二京浜は横浜の手前で第一京浜に合流する。
これで迷走する国道一号線はやっと一本に落ち着く。

日本の道路行政はひどすぎる。
よくみんな迷わず道を走れるものである。

筋違

筋違はスジカイと読むらしい。
中山道は大手門から神田橋、筋違橋を過ぎて、まっすぐ行けば上野、右へいけば秋葉原、を左へ折れて、
湯島聖堂の裏を抜けて、本郷通りをすすむ。ほぼ国道17号線。

Inkscape の練習にと江戸の地図を描いていたのだが、
わからんことだらけだ。
川越素描にも同じ地図を掲載したが、
小さくてわからんと思うから、もう少し解像度の高いのをここに貼っておく。
SVGで公開しても良いのだが、もう少し考えさせてほしい。
こういう地図はたぶんいままでなかったと思う。
あって当然であるし、もしかするとどこか知られてないところにはあるのかもしれない。
しかし、あまり見かけない地図である。


* [goo江戸切り絵図](http://map.goo.ne.jp/history/area_top.html)
* [goo明治東京地図](http://map.goo.ne.jp/map.php?st=8)
* [”超検索”大江戸八百八町](http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html)
* [貴重資料画像データベース](http://metro.tokyo.opac.jp/tml/tpic/resprint_d/all/isbn001_0_30/isbn001_002_001.html)
* [1590年頃の江戸](http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/edo1590.html)
* [東京の川と橋](http://hix05.com/rivers/river03/river032.html)
* [江戸城本丸図](http://www.max.hi-ho.ne.jp/khori/Edo_castle_plan.htm)

などを参考にしているのだが、微妙に食い違う。
現代の都心の地図の方がまだ信頼できるので、これを下敷きにして、
もともとどんなふうだったかを想像しながら描くしかない。

江戸は、道灌の時代と、北条氏が治めていた時代と、
家康以後の三段階で考えないとわからんと思う。
北条氏の時代は小田原と江戸を結ぶ道、矢倉沢往還とか、江戸時代には大山街道と言われるが、これが主たる街道であったから、赤坂が江戸城の表玄関であったはずだ。
この名残で赤坂見附は非常に厳戒であるし、また赤坂筋違橋というものもある。

おそらく、江戸城から浅草へ向かう浅草橋に対して、筋違橋と呼ばれるのは、
上野へ向かう道である。
浅草と上野は確かに間違いやすいから筋違いと呼んだのであろう。
ただ、どちらかと言えば、筋違いな方が奥州街道や中山道や川越街道に接続しているから重要であり、浅草方面は水戸に続くだけなのである。
なので、筋違いという言い方は北条氏の時代にさかのぼるのではなかろうかと私は推測してみる。

本丸周辺は非常にややこしい。
特に竹橋、雉子橋、一ツ橋、平川橋辺り。
やっとだいたいこんなふうだっただろうと推測できた。
また、西の丸の辺りもややこしい。
今の二重橋とかその手前の石橋、桜田門と呼ばれている辺りである。
現在の地形が大幅に変えられてないと考えるとだんだんすっきりわかってくる。
今も昔も桜田門から入って石橋を通り二重橋を通らないと西の丸には入れない。
シケインのようだ。

昔は蛤濠と天神濠がつながっていた。
京都の方から東海道を下ってくると、まず虎ノ門を通り、
次に桜田門を通り、それから桔梗門、別名内桜田門を通る。
すると大手門を通らずにすでに二の丸前に出るからそこから中雀門を通って本丸へ至る。

蛤濠と天神濠の間が埋まってしまったために三の丸の位置が非常に紛らわしいことになっている。つまり、二の丸と三の丸の間にはもともとは濠があり、
しかも三の丸は二の丸の北側、平川門の手前にあったのである。

しかし、現在、三の丸尚蔵館は大手門を入ったすぐにあり、
そのすぐ北側に宮内庁病院と三の丸跡地がある。二の丸の東側が旧三の丸だったかのように、昭文社の地図にも描かれているのだが、これは限りなく間違いに近い。
昭文社地図に「覆馬場」と描かれている辺りが本来の三の丸である。
古地図にはいずれも明確にそのように描かれている。

新橋というのは江戸にはいくつもあって、いずれも見附や門が付随してない。
中の橋と呼ばれる橋も似たようなもので、いくつもある。
もとからある橋と橋の間に架けたので中の橋というだけなのだろう。
今東京では新橋は固有名詞のようになっている。
日本橋から京橋を経て新橋まではいわゆる銀座であって、
都庁移転前までは東京のメインストリートでもあるのだが、
この新橋京橋日本橋というルートは家康的にはメインストリートであったはずがない。町人や商人が往来する通りなのである。
武士は、少なくとも大名行列は、上に書いたように、決して新橋は渡らなかっただろうと思う。
実際、芝の増上寺の西側を通るのが国道一号線、左側を通るのが京浜一号線(国道十五号線、銀座通り)である。
国道一号線は桜田通りとも言い、虎ノ門を過ぎて桜田門にぶつかると折れて大手町に続いている。
江戸時代の書店が発行した地図というのは、これは町人や商人に便利なように書かれていて、従って京浜一号線の方が太く詳しく書いてある。
武家は利用しなかったのだろう。

改めて思うのだが、江戸城にとっての生命線というのは、
平川門から出て一ツ橋河岸から道三堀を通って隅田川まで、さらに東へ小名木川を伸ばし、行徳の塩田まで至っている。このルートである。
そして隅田川と神田川と外堀を防衛戦とすれば、
通常の考え方で言えば落ちない。
少なくとも大坂の陣のようなことにはなり得ない。
案外黒船とも戦えたのではないかと思う。
しかし、幕府は江戸の町を焼かれるのを恐れたか。
あるいは、武力に訴えて抵抗することに懐疑的だったのか。
たぶん台場を築き始めて、
考えるにここで戦を始めるのはあまり賢くないってことに気付いたのだろう。

鎌倉や福原(一ノ谷)とは比較にならないほど強固な軍都になっている。
土木技術の発達のたまものだ。
また北京の紫禁城などと比べても防衛上遜色はないのではないか。
紫禁城には城壁はあっても濠がない。
たぶん江戸城の方が落としにくいだろうと思う。
紫禁城よりか江戸城の方が少し小さいようだが。


新聞

思うに、産経新聞あたりがいくら正論を吐こうと日本は変わらないけど、
読売が書き、さらにNHKが報道すれば、ああそれが今の世論かと、少し態度が変わってきて、
海外でも、ああ日本も今回ばかりは少し怒ってるみたいだな、と認識するらしいな。

読売ってやっぱすごいんだな。
影響力的に。
絶対購読しないけどな。

通貨吹き替え

[新井白石](http://p.booklog.jp/book/55630)
をパブーに公開する。
某新人賞選考漏れ確定のため。
今更読み返すと確かに娯楽的要素が足りない気もする。
いろいろ書き換えたくなるのでいじる。
もともとは「将軍家の仲人」というタイトルだが、
ネットに公開するにあたって検索にひっかかりやすいようにタイトルを「新井白石」とし、
「将軍家の仲人」をサブタイトルにする。
いつもやっていること。

新井白石といえば生類憐れみの令を廃止したとか、
朝鮮通信使の扱いを変えたとか、
通貨改革をやったとか、子供の頃ガリ勉だったとか、
そういう話が多いかと思うのだが、
そういうのはさくっと省略した。
みんなが書いているようなことを書くのはつまらん。

大石慎三郎「徳川吉宗と江戸の改革」を読む。
新井白石の通貨吹替えによって世の中に流通する通貨が半減してしまい、
デフレになったのだという。
よくわからん。
インフレであれば通貨供給量を減らす。
デフレであれば通貨供給量を増やす。
金本位制であれば、通貨供給量を増やすには金の含有量を減らせばよく、
通貨供給量を減らしたければ金の含有量を増やせばよろしい。
わかるようなわからんような理由だ。

江戸初期には商業経済が発達していなかった。
しかし金は新しい金山がたくさん見つかって非常に増えた。
日本では金がとても豊富で安くなった。
逆に言えば米の値段などは非常に高くなってしまう。つまり物価上昇、インフレだ。
幕末だと、米の値段は非常に安い。逆に言えば金の値段がとても高くなった。
日本の経済が発達して、流通しなければならない金貨がたくさん必要な上に、
日本の金が海外の相場より安いからどんどん海外に流出する。
金が減ってしまう。
つまり通貨が減る。
凶作で無い限り農業技術の革新やら治水工事やらで米は増産。
米が多くて金が少ないから、米の値段は下がる。
そうするとデフレになる。

思うに、江戸時代の日本のように、金が非常に豊富で安価な社会において、
金貨の品質を維持しようとするのは、特に間違ってないと思う。
日本ですら金が足りないということならば、もっと金が少ない国ではどうするのか。
金は少なくてよくて、問題は通貨の供給ということだろう。
通貨をどんどん流通させる必要があるなら、
たとえば銀貨を主要通貨にするとか(ギリシャとか中国とかだけでなく大阪でもそうだったようだ)、
銅貨とか紙幣とかを流通させるとか。
或いは為替のような信用取引を発達させるとか。
いろいろやり方はあるんじゃないの。
金貨の品質を上げて金貨の流通量を少なくしたのがただちに良くないことだとは思えない。

デフレもインフレもどちらもよろしくない。
どうも、江戸時代には、そういう経済をコントロールする方法があまりにも未熟だった、
としか言いようがないのではなかろうか。
根本的な問題は、商品経済が発達しているのにそれをコントロールする方法論が未発達だったことであり、
金貨や銀貨の質の問題なのではないのではなかろうか。
まあ、経済の話はよくわからん。

赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月14日なのだが、西暦だと1703年1月30日。
年をまたいでしまっている。
元禄15年 (1702) とすべきか、元禄15年 (1703) とすべきか、非常に迷う。
私は 1702 の方がまだましだと思うが。

江戸古地図

たまたま江戸の古地図を家族が買ってきたので見ると、
甲府藩邸が日比谷門の外に描かれていて、
しかも永代橋がまだない。
赤穂浪士は永代橋を渡って吉良邸に討ち入ったのだから、
赤穂浪士事件よりは前だとしれる。
良く見ると元禄六年と書いてある。
永代橋ができたのは元禄十一年、
赤穂浪士の仇討ちは元禄十五年。
甲府藩邸にはまだ綱豊という名前の家宣がいたはずだ。
溜池も心なしか大きく描かれていて、畔には山王神社がある。

年を取るといらん蘊蓄ばかり増えていくなあ。
こんな地図を眺めているだけでけっこう楽しめるのだから。

魯迅

魯迅を読んでいる。
割と面白い。
電車の中にいて周りにたくさん人間がいるのが不思議な感じになる。
人間がいるのが当たり前なのだが、小説によって完全に異世界に連れて行かれてしまうのだろう。

阿Q正伝、故郷、孔子己などは読んだ記憶がある。
たぶん、教科書に載っていたのではなかろうか。
少し調べてみるとわかるがこれらは、魯迅の一番初期の作品(38才頃。ただし、32才のときに『懐旧』という小説を発表しているようだ)で、
社会的な影響力も大きかったようだが、
必ずしも、すごく面白くはない。
やはり初期の作品で狂人日記も今回読んでみたが、さほどでもない。
たぶんまだ書き慣れてなかったのではないか。
こういうのを高校の教科書に載せても生徒はおもしろがらないと思うよ。
他にもっといいのがあるのに、と思う。

四十代半ば頃、1925年とか1926年頃に書いたものがすごく面白いと感じた。
孤独者、眉間尺、祝福、藤野先生など。
藤野先生は、やはり読んだ記憶がある。これも教科書か。
必ず文末に日付が記してあるから、何歳の頃書いたかわかって便利だ。
結構短い期間に集中して書いている。

眉間尺(または「鋳剣」)は中国の昔の伝奇小説([干将・莫耶](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E5%B0%86%E3%83%BB%E8%8E%AB%E8%80%B6))を題材にしたものであり、
中島敦の「山月記」のようなものか。まあふつうこんなへんてこりんなストーリー、現代人は思いつかんわな。
途中になんか変な歌が出てくる([原文](http://zh.wikisource.org/wiki/%E9%91%84%E5%8A%8D))。

哈哈愛兮愛乎愛乎!
愛青劍兮一個仇人自屠。
夥頤連翩兮多少一夫。
一夫愛青劍兮嗚呼不孤。
頭換頭兮兩個仇人自屠。
一夫則無兮愛乎嗚呼!
愛乎嗚呼兮嗚呼阿呼,
阿呼嗚呼兮嗚呼嗚呼!

「奔月」は[嫦娥奔月](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%A6%E5%A8%A5%E5%A5%94%E6%9C%88)のことで、
たまたまこないだ調べた[碧海青天夜夜心](/?p=10880)の元ネタ。
こちらは大して面白くもない。解説を読んでもピンとこないし。
ただ書きたかったから書いた、のだろうか。

体重が一時期よりも15kgも減ってこれからも減る傾向にある。
ビールが苦くてまずく感じるようになった。
日本酒はとてもうまく感じるのだが、
日本酒を飲んでしまうと、体重が少なくなったせいか、
一気に良いが回って自制心を失ってしまうようだ。
ビールかウーロン割りみたいなものをちびちび飲んでいればそんなことにはならないが、
今度は酔えなくて発散できない。
体の脂肪というものが、血中アルコール濃度というものの変動を抑えていてくれてたのだと思う。
痩せるというのも実にめんどうだ。

[窩窩頭](http://pekingpanda171.blog.shinobi.jp/Entry/125/)。
何かほかの小説で読んだことがあるのだが思い出せない。

漢詩とか。

松下緑『漢詩に遊ぶ 読んで楽しい七五訳』を読む。
なるほど、井伏鱒二が「人生足別離」を「さよならだけが人生だ」と訳し、
それを太宰治がいつも口ずさんでいた、のはまあ良いとして、
また、漢詩には七五調で訳するとしっくりくるものも中にはあるだろうけど、
あまりに普遍化するのはどうかと思わされる。

たとえば詩経の「桃之夭夭」を「桃はいきいきその実はつぶら」などと訳しているのが、
どうもなあ。
あまりやり過ぎると、七五調というやつは、演歌か童謡みたいになってしまう。
戦前安易に七五調が使われすぎ、
それが戦後の演歌にも残ったのだ。
その危険性を知った上でやらんとかなりやばいと思う。
漢詩を詩吟にしてさらに七五調にすれば日本人にはより受け入れられやすいのだろうけど、
私は元々和歌が好きだから、漢詩に和歌のようなものは求めていない。
漢詩は漢詩、和歌は和歌として楽しみたいのだ。

漢詩は定型詩で韻を踏んでいるのだから、むしろそのあたりの韻律を残す形で訳した方がいいのではなかろうか。

実は昔[オマル・ハイヤームのルバイを七五調で訳したこと](/?p=6976)があって、
忠実に訳してもあまりおもしろくない、もとのイラン語から訳すならともかく、
日本語をいじっただけでは意味がないので、かなり意訳したりしたが、
割と元の詩に似ていて良く出来ていると思うのはこれだ。

つちのうつはとつくられし
ひとのいのちははかもなし
ちよにめぐれるあめつちの
かみのまことはしりがたし

[セルジューク戦記](http://p.booklog.jp/book/32947)に使ってある。

もひとつ、森本哲郎「中国詩経の旅」というのを読んだ。
与謝蕪村に中国の情景を詠んだ俳句があるそうで、それでわざわざ中国に行ってしまったらしいのだが、
俳句と漢詩を並べて書かれると私などは面白いと思う以前に困ってしまう。
和漢朗詠集の前例もあるわけだが。

漢詩は一番短くても五言絶句。或いは七言絶句。
五言絶句は少し謎かけめいているが俳句に比べればずっと具体的。
七言絶句だとさらに説明的になり、連綿たる詩歌というのに近づく。
俳句はときとして禅問答のようであり、しかもわざと難解な句を解釈してみせて喜ぶようなところがある。
日本人はなぜか俳句が大好きだが、私はあまりシンパシーを感じられない。
たぶん外国人に俳句のどこがよいのかと聞かれても私には答えられないと思う。