実におかしな感じである。
『種の起源』にわざわざ名前を挙げて出てくる naturalist はほぼみな間違いなくプロの学者であり、
学会に属し、論文を書き、研究をしている。
これに対していちいち名前は挙げていないが「飼育家(raiser)」「(家畜の)育種家(breeder)」「愛好家(fancier)」
「園芸家(gardener)」「(栽培植物の)育種家(cultivator)」
などについても多く言及していて、彼らは明らかに naturalist とは異なる立場の、別の世界に生きている人間として描写されている。
つまり研究のプロ対アマチュアという構図である。
多くの naturalist は飼育や栽培というものを研究の対象に値しない、無視している、
だがこれもまた絶好の研究対象であるというのが私の信念などと言っている。
つまり私(ダーウィン)はあえて、これまで素人がやってきた品種改良のための「選択」というものを研究対象とします、と宣言しているのだ。
またたとえば、
> May not those naturalists who, knowing far less of the laws of inheritance than
does the breeder, and knowing no more than he does of the intermediate
links in the long lines of descent, yet admit that many of our domestic
races are descended from the same parents…
> breeder よりも遺伝の法則についてほとんどわずかしか知らず、また、
品種の長い連鎖についてはなおさら知らない naturalist たちでさえ、
多くの家畜品種が単一の親に由来することを認めるのではないか。
つまり素人の愛好家や飼育家たちは、どちらかと言えば、
遺伝現象について極めて博識であるがゆえに、
たくさん亜種が一つの親から派生したとは容易に信じない。
むしろそうした家畜や園芸種の繁殖の知識に乏しい naturalist のほうが、
たくさんの亜種が一つの種に属すると考えているのである。
したがって、訳者が言うように、
> ダーウィンがナチュラリストと呼んでいる人物の多くは在野の自然観察者や昆虫マニア、園芸家であったりすることが多く、いわゆる「学者」のイメージにそぐわない。
というふうには私にはとても読めないのである。
そもそもダーウィンはアメリカ海軍の艦長の許可を得てわざわざ南米、オセアニアを探検して回ったプロの研究者であるし、
本文中に言及されているウォレスなどもマレー諸島を探検しているプロだ。
マルサスも、
チャールズ・ライエルも、ジョセフ・ダルトン・フッカーも、イジドール・ジョフロワ・サン=ティレールも、
フリッツ・ミューラーも、プロスパー・ルーカスも、その他もろもろの人たちもみんなその道のプロの学者だ。
いったいどこから「ナチュラリスト」が「昆虫マニア」のたぐいだという発想が出てくるのか。不思議だ。
というより今日「ナチュラリスト」と言うと、どちらかと言えば、少なくとも日本語においては、
「自然保護主義者」とか「自然回帰主義者」とか、動物愛護団体とかベジタリアンとかヒッピーとかアナーキストのようなものを連想すると思う。
naturalist を「博物学者」と訳してきた歴史は長く、訳語としては非常に安心して使える。
わざと新しい訳を試みてちと勇み足したのではないのか。
しかし私にとってもっと奇異に感じるのは man’s selection を「人為選抜」と訳し、
natural selection を「自然淘汰」と訳しているところだ。
ダーウィンは明確に、man’s selection を拡張解釈した先に natural selection というものがあるに違いない、
という論理展開をしている。
ダーウィンの人為選択説はそのまま優生学や家畜や作物の品種改良の理論に通じるものである。
ダーウィンはそれまでの品種改良に用いられてきた経験則的選択(methodical and unconscious selection)を、
人為選択という概念でまとめ直して、博物学的に扱えるようにし、さらに近代科学へと橋渡ししたのである。
ダーウィンはきちんと自分で多くの鳩の品種を飼って交雑させて、鳩が単一の種であることを確かめた。
彼の鳩に関する実験と研究と考察は今日にも通用するまっとうなものである。
いっておくがダーウィンは鳩の愛好家の一人ではない。鳩を学術研究の対象にした学者である。
ところが彼がそこから類推した自然選択というものは、彼の空想に過ぎず、何の根拠もない。
私は、「人為選択」を確立し、「自然選択」という新しい概念をこしらえて、
「人為選択」と「自然選択」を対比させて、「自然選択」の存在を予言したのがダーウィンの仕事だと思う。
しかるに、「人為選抜」「自然淘汰」と訳してしまっては、その対比関係がまったくわからなくなってしまうではないか。
どうも日本人に「自然淘汰」と訳したがる一群の人たちがいるらしい。
それを「自然選択」に直そうと努力する人たちもいるのだが、なぜかまぜっかえされる。
しかも「選抜」という進化論ではあまりなじみのない訳語を引っ張り出してきたのはどういうつもりなのだろう。
選抜というのは高校選抜野球みたいに、なんだか個体間や集団間の闘争や競争のようなものをイメージしてしまうのだが。
無色透明な「選択」という言葉でなぜいけないのか。
単純に「選択」という訳語を使っておいてあとは読者に判断させればよい。
それをときに「選抜」と訳しときに「淘汰」と訳すのは訳者の恣意であり、おそらくは何らかの思想への誘導であり、
或いは単なる奇をてらった訳であって、読者を混乱させる。
また、natural history を「自然史」と訳すのもおかしな感じがする。
natural history はもはや時代遅れな用語であって、
「自然史」などと科学用語(自然科学?社会科学?それとも人文科学?)のような訳し方をするのは奇異である。
natural history はやはり「博物学」とでも訳しておいたほうが無難ではなかろうか。
そうすればこれが19世紀に流行った、近代科学よりも少しだけ前の時代の、
それこそ手塚治虫や荒俣宏が描く牧歌的な世界であることがわかるだろうと思う。
私にはどうも、natural history という言葉には、キリスト教的創造説のニュアンスを感じる。
人間に歴史があるように、神が創造した自然にも歴史があるのだ、という考え方。
これは東洋の、中国の史学とはまったく相容れないものだ。
歴史とは人が後世に書き遺すものだからだ。
私はたとえば Gesang を「賛美歌」と訳すのが嫌いだ。単に「歌」と訳す。
Gesang には「賛美」なんて意味はどこにもないから。
そういうもとの言語にない日本語固有の色を付けるのは嫌だ。